第836回談話会発表要旨(2008年9月14日)

シリーズ・さらば「民俗学」―新しい《民俗学》の再構築に向けて― 第1回

American Folklore(アメリカ民俗学)と日本民俗学(Japanese Folklore)の対照

 ―民俗学は変わらねばならない―

菅 豊

 民俗学は、近代の国民国家形成期において、世界の各所で沸き起こった土着文化理解とその復興運動、そして、そこで集積された土着知(Indigenous Knowledge)の学問化の運動としての性格をもつ。そのため、それぞれの国の民俗学は、少なからず自国文化に閉ざして生成・発展を遂げてきた。そのような世界の民俗学の状況を斟酌しても、現在の日本民俗学は、他国の民俗学と比べて、海外と交流し、その知見を吸収することにあまりにも消極的すぎる。一九五〇〜六〇年代には、一定程度、海外の研究方法が論じられ、また、欧米を含む世界各国の民俗学が紹介されていたが、一九七〇年代には、海外への関心は薄まり、海外を取り扱ってもそれは研究の方法論ではなく、研究素材のみが紹介されるだけにとどまった。さらに、一九八〇〜九〇年代には、海外といってもアジア研究に関心が限定されてしまった。ここ数十年来続く日本民俗学を取り巻く閉塞感や沈滞感は、ひとつにこのような海外との学問的な没交渉に起因しているものであるといえる。日本民俗学は、学問としてあまりにも「井の中の蛙大海を知らず」になってしまった。いま、私たちは日本の民俗学が孕む問題点を顕在化させ、その克服を試みるために、他国の民俗学を深く理解し、それと対照して新しい方向性を模索することにもっと積極的にならなければならない。

 日本民俗学はアカデミズムのなかでの地位が低く、落日が叫ばれて久しいが、実はこの日本民俗学の現状は、世界レベルで進行している民俗学の深刻な衰退状況と軌を一にする。たとえば、アメリカの著名な民俗学者であったアラン・ダンデスは、逝去する一年前、二〇〇四年一〇月のアメリカ民俗学会年次大会で、“Folkloristics in the Twenty-First Century(二一世紀の民俗学)”と題して講演し、民俗学の世界レベルでの憂慮すべき衰退状況を述べ、さらにアメリカの深刻な状況、それに陥った理由について激しく述べ立てたほどである。

 日本民俗学とアメリカ民俗学とのアカデミズム、および社会における存在感の無さは、それほど大差ない。しかし、その現状に対する危機感と対応―変化―には大きな差がある。アメリカ民俗学は、少なくとも大きな危機感をもち、対応したのである。たとえば、一九七〇年代、アメリカ民俗学では若手の民俗学者が、古すぎて現代社会にそぐわない概念となってしまった“folklore”や“folk”の概念を更改し、再定義することによって、民俗学を従来の歴史主義からパフォーマンスやコミュニケーションといったプロセス研究へ脱却させ、また、研究対象を伝統的コミュニティーから都市あるいは多様な集団へと移行させることに成功した。しかし、そのようなドラスティックで、斬新な学問の変革を進めたアメリカ民俗学ですら、現代における学問としての地位低下に歯止めをかけることはできなかった。そのようななか、アメリカ民俗学は。学問世界よりも実社会との取り結び強化させるという方向性を、選択肢のひとつとして選び取った。その方向性とは、「公共民俗学(Public Folklore)」である。

 公共民俗学とは、芸術文化などの審議会(arts councils)や、文化遺産に関わる歴史系協会、図書館、博物館、非営利の民俗芸術や民俗文化組織などで行われる社会活動をともなった応用的、実践的民俗学であり、フィールドでの調査、記録のみならず、パフォーマンスや民俗芸術の専門教育、展示、催事、音声記録、イベントの企画、ラジオやテレビ番組、ビデオや書籍などの公共的なプログラムや教育関係の素材を生み出す実践活動である。アメリカの場合、それは「公的部門の民俗学(Public Sector Folklore)」とほぼ同義である。

 一九二〇年代に端を発する公共民俗学は、一九三〇〜四〇年代にかけてのニューディール政策下において連邦作家プロジェクト(Federal writers project)を主導し、『アメリカ民間伝承の宝庫』などの「宝庫シリーズ」を刊行したベンジャミン・ボトキンを、それを生み出した創始者とする。一九六〇年代以降の公民権運動、マイノリティー・女性の解放運動などの状況下、社会的にフォークロアを活用する動き、あるいは民俗学者が文化政策に参画する機会が増大し、合衆国政府も「多様性に基づく統一」という理念で、文化保護・活用政策を推し進めるなかで、それは発展した。そして、現在、公共民俗学者は、アメリカ民俗学会(AFS)の多数派となり、2002年のAFS会員調査によると、会員の44%が公共民俗学者と表明している。それは、「民俗学の政治性」といった厄介な問題を克服しなければならないが、民俗学を「市民社会」へと開き、かつ旧来の学問の狭い制度的枠組みを突き崩す可能性をもっている。日本の民俗学も、このような学問に社会性をもたせる実践と応用の試みを、もっと真剣に考えなければならない。 

<民俗>の学から<日常>の学へ―ドイツ民俗学の挑戦

法橋 量

 日本民俗学の危機が叫ばれて久しいが、端的に言えば、その原因の一つは、民俗学の伝統的対象である<民俗>の喪失あるいは変貌、もう一つはそうした現代の社会・文化の変化に対応する方法論・理論・パースペクティヴの行き詰まりにあるように思われる。

 現代の日本民俗学におけるこうした本質的な問題は、ドイツ民俗学においても同様に認識されており、すでに1960年代末から、学会規模で議論が重ねられ、1970年のファルケンシュタイン会議を経て、大きなパラダイムの転換がなされた。現在ではその名称も経験的文化学あるいはヨーロッパ民族学へと移行しつつあり、新たな専門分野としてその相貌を整えつつある。

 戦後の社会情勢・アカデミズムの変化のなかで生じた民俗学者たちの危機意識に端を発した民俗学の見直し・変革のきっかけとなったのが、ファルケンシュタイン会議であるが、その模様については坂井洲二氏によってすでに紹介されている。民俗学の対象・目的さらには名称について同会議での議論から導きされた結論は、「民俗学Volkskundeは、客体および主体にあらわれる文化的価値の移転[伝達Vermittlung](それを条件づける原因およびそれに伴う過程)を分析する。目的は社会=文化的諸問題の解決に寄与することである」という、さまざま見解が錯綜するなかでの、最大公約数的なものであった。しかしながらこの短い文言には、従来の民俗学では<客体=民俗>の陰で等閑視されていた<主体>をも対象とすること、<民俗>のコンテクスト・プロセスに関心を向けること、さらに社会=文化的問題の解決に寄与する、すなわち現在学たらんとする意志が含まれていた。

 戦後のドイツ民俗学のすでに1950年代半ばから、ハンス・モーザーをはじめとする、いわゆるミュンヘン学派による歴史民俗学的研究が、民俗の連続性を文書資料に基づいた実証主義によって批判するとともに、60年代半ばには、その副産物として、民俗の二次活用である<フォークロリズム>を問題系として発見していた。

 一方、ファルケンシュタイン以後、民俗学の変革を理論的に牽引したのは、ヘルマン・バウジンガーを中心とするテュービンゲン大学の学徒であった。テュービンゲン学派の伝統的民俗学―特にロマン主義的伝統を引く―に対する批判は、まず、その学の前提となった基礎概念に向けられた。本来、基層的なるもの、土着的なるものとされ、民俗学の主要な対象となってきた文化が、実は、都市教養市民階層が農村の文化を客体化する過程で生まれてきた歴史的概念であり、さらには、民俗(的なるもの)あるいは民衆文化(Volkskultur)概念すら、ある種の文化を特権化しており、当該社会の生活世界をあまねく捉えてはいないとの批判がなされた。

 テュービンゲン学派は、方法論のうえでも、当初、民俗学を社会科学として位置づけるべく、積極的に社会学とくに経験的社会研究の方法を採り入れた。

 テュービンゲン学派のこうした社会科学志向の民俗学(経験的文化学)については、とくに物質文化研究や文化領域研究の研究者の一部には容易に受け入れがたいものであったが、現在のドイツ民俗学全般に広くかつ深い影響を及ぼしている。

 また、1970年代後半から、社会学、歴史学の議論の中で、注目されるようになった<日常><日常世界>など現象学に由来する概念が、民俗(民衆文化)概念に代わって、新しい民俗学の対象領域の拡張に貢献することになる。これは、生活世界あるいは文化を、自然科学的客観性ではなく、行為の主体を重視し、解釈学的に理解するという人文・社会科学の大きなパラダイムの転換を反映したものであった。この民俗学における<民俗>から<日常>への認識対象のシフトは、当初、とりわけ労働者文化の研究において実践され、従来もっぱら研究対象とされてきた農民だけではなく、広い社会層のもつ文化に対象領域が拡大されることになった。

 さらに、主体への視点の移動によって、民俗学の関心は主体の<意識>の形成に向けられるようになり、そうした試みは、ハンブルク大学のA.レーマンを中心としたライフヒストリー研究等に見られる説話研究に端的に現れている。

 ドイツの民俗学の特徴の一つとして、民俗学の専攻をもつ各大学がそれぞれ独自の方向性をもって研究・教育活動を行なっている点がある。1990年代以降、民俗学は、他分野との差別化・コンセンサスを図る戦略的な意味もあり、前述のようにヨーロッパ民族学や文化人類学のような名称に統一されつつあるが、その研究領域は、物質文化から説話研究、コミュニティ・都市研究、メディア研究、ツーリズム研究等、方法論的には歴史的研究、フィールドワークに基づく同時代研究に及び、大学の講義要綱等から統一的なイメージを得ることが困難なほど多様化している。H.ゲルントは、このような多様性のなかで民俗学のアイデンティティがあるとすれば、それらがいずれも民俗学研究の伝統から派生したものであることだけだと指摘しているが、戦後のドイツ民俗学が、ナチス民俗学の負の遺産を克服し、なおかつ現在学としての再生をせまられるなかで、この多様性を獲得したことにこそ、民俗学のもつ大きな可能性が示唆されているように思われる。