第865回談話会要旨(2012年11月11日=民俗研究は文字文化をどう扱うか)

※『日本民俗学』273号より転載しました。引用等につきましては「日本民俗学会ウェブサイトご利用上の注意」をご確認ください。

里山伏の聖教典籍からみるホウイン(法印)の文化活動と村びと

久野俊彦

 里に住む山伏を会津地方ではホウイン(法印)という。その活動には、宗教活動・文化活動・経済活動があり、多数の聖教典籍を所蔵していた。多様な聖教典籍に支えられた地域の文化とその影響下の民間伝承を含んだ文化的事象を「聖教典籍文化」ととらえることにする〔久野 2012b〕。近世には聖教や古典籍が地方の多くの修験道寺院に存在したが、一般には明治期に解体され散逸していったものが多い。福島県南会津郡只見町域では、近世に刊本が購入されたり書籍を借りて写本が作られたりして読書が行われていたことが、宮内貴久氏の研究によって明らかにされている〔宮内 2004〕。本報告では、法印がおこなった文化活動を、只見町の本山派修験の小坊である吉祥院〔宮内 2004〕・龍蔵院〔久野 2010,2011〕に残された以下の聖教典籍の事例からさぐり、書物を保持して抜書や書留をする行為と生活文化との相互関係について考察したい。

(1)書物の購入・移動・共有

 吉祥院の『役行者霊験記』(享保6年刊)は寛政6年(1794)3月に龍蔵院の法印行鶴が京都で求めた版本である〔宮内 2004〕。吉祥院豊恭と龍蔵院行鶴はその月に京都から葛城に入峰した。法印は医師と思われる村人から、『医事或問』(明和6年(1769)刊)を京都で買ってきてほしいと依頼された。法印が書物を買っていたことを村人は知っていた。

 近隣の修験の寺院の間では書物が移動していた。『水天供次第』『十八道糸玉抄』は、南会津古町の円成院から龍蔵院に移動した。『役行者霊験記』は龍蔵院から吉祥院に移動した〔宮内 2004〕。村人の間にも書物が移動していた。龍蔵院の『ぶんしやう物語』(寛文11年(1671))『さんげ物語』(無刊記)には、村人の名が記されていた。『庭訓往来註』(明暦元年(1655)刊)は、南会津郡の針生村・布沢村・楢戸村の村人を経て龍蔵院に至った。『諸宗宝鑑』(無刊記)には、7冊とされた書物を法印と村人が分け持っていたことが記されている。『中臣祓瑞穂抄』(万治2年(1659)刊)は、法印の所望によって村人が寄贈したものである。書物の所有者名と「何所へ参るともお返し下さるべし」という書込は、閲覧と貸借の習慣を示している。書物は地域で共有されていたのであり、法印の坊はいわば村の図書室であった。

(2)抜書と書込による学問的修養

 法印は知識書・文学書の抜書を所有していた。龍蔵院には[能楽・字尽・論語抜書][節用集抜書][伊勢物語註抜書][慶安年中俳諧・(和歌)六家集抜書]が、吉祥院には『和歌六部抄(抜書)』『和漢朗詠集題詠(抜書)』がある。抜書は写本・版本から必要なものを抜書した手控えのノートで、綴葉装(ノート綴じ)で綴じられている。抜書によって、多様な知識を吸収してそれを実用化した。抜書の写本は、手帖・ノートの文化である。これらの中には中世の私家集・歌論書などの和歌書が見られる。和歌は修験の必修であり、まじない歌のウタヨミは和歌の知識や技芸に支えられていた〔久野 2012a〕。

(3)手習い筆子の教材の書留

 法印の坊では村人の子弟に手習いを教えていた。龍蔵院の『庭訓往来註』(明暦元年(1655)刊)は版本だが、『庭訓往来』(無年記、行鶴写)は龍蔵院の法印が書き与えた手習い本である。龍蔵院の『万用子供之手習』(天保3年(1832)写本)には、南会津郡内の村名や村人の名字を手習いする章があり、これは地域で必要な知識を書き留めて教材化したものである。吉祥院には筆法技術書『筆庭伝授』(文化14年(1817)写)があり、寺子屋を営んでいた可能性がある〔宮内 2001,2004〕。龍蔵院には躾書『万躾方之次第』(延宝6年(1678)写)がある。法印は手習いの師匠であり、村の子弟教育を聖教典籍が支えていた。

(4)由緒と名づけの書留

 龍蔵院は会津の系譜集『会津四家合考(抜書)』(宝暦5年(1755)写)、中世南会津の領主『山内氏系譜』(享保10年(1725)写本)をはじめ、南会津地方の村人の系譜を所有し、楢戸村の『諸家由緒書留』(無年記、写本)に村人の家の伝承を書きとめていた。龍蔵院の『実名鑑』(文化6年(1823)写本)は、村人に対して『韻鏡』(慶安元年(1648)刊)の平仄による実名いみなを与えた記録である。村人は名字や実名を藩や武家の支配者には名乗らなくても、村の生活で使用する名字と実名を持っていたことが、手習い書や名づけ書によって明らかになる。

(5)説教・唱導の書留

 龍蔵院には説教書があり、密教と神道が習合した御流神道の説教台本がある。『胎内十月図』(元和2年(1616)写本)の奥書の会津藩からの指示では、小前の百姓にも申し聞かすべきものであるとされた。御流神道の説教書『護身法御流神道談議本』(延宝2年(1674)写本)・『御流神道直談鈔』(享保10年(1725)写本)・『護身法大事』(写本、無年記)がある。行鶴が口語で記した説教書である『光明真言勧化』があり、村人への積極的な唱導がうかがえる。

(6)吉凶・まじないの書留

 龍蔵院の[陰陽雑書抜書A](永禄6年(1563)写)は平安時代成立の『陰陽雑書』の抜書伝本である。紙背にこの地方の水害の書留があり、長年参照して日の吉凶を見てきた形跡がある。法印が陰陽道の知識と技術を持ち、吉凶を見て村人に生活の指針を与えていた。

 龍蔵院の呪術書には民間療法・民間薬・災厄除けが記されている。『弘法大師作法』(万治3年(1660)写本)の修法のなかには、ウタヨミの呪法が記されている。『諸呪衆聚覚』(無年記写本)には指を丸くして狐火を見る狐の窓のまじないが記され、『狐附秘密加持』(無年記写本)にその図がある。刊本の経典の表は理論的教学的側面であり、経典の紙背に写されたは写本は呪術・祭文の世界である〔小池 2010〕。公伝としての経典の裏に、多様な実践的・呪術的知識が法印によって私注され、それが村人に直接的につながっていた。

《参考文献》

  • 宮内貴久 2001 「音読から黙読へ」『広報ただみ』368、只見町(『只見とっておきの話』只見町(2010)に再録)
  • 宮内貴久 2004 「書物の流入と文化 ―読み・書き・そろばん―」『只見町史 第一巻 通史編一』只見町
  • 小池淳一 2010 「修験道書に見る宗教知識の位相」『国際研究集会 東アジアにおける宗教テクストの表層文化』国立歴史民俗博物館
  • 久野俊彦編 2010 『修験龍蔵院聖教典籍文書類目録』国立歴史民俗博物館
  • 久野俊彦 2011 「奥会津の修験龍蔵院における修験道聖教典籍の多様性」林雅彦・小池淳一編『唱導文化の比較研究』岩田書院
  • 久野俊彦 2012a 「修験道儀礼の和歌と修験者の和歌技芸―地方の修験道聖教典籍の調査から」錦仁編『中世詩歌の本質と連関』竹林舎
  • 久野俊彦 2012b 「奥会津から見る日本の聖教典籍文化 ―地域における里山伏(法印)の文化活動―」『説話文学研究』47

家譜を読む子孫たち ―琉球王府士族の門中―

武井基晃

 本報告では、文字記録およびそれに関わる人々について、以下の3つの視点から考える。すなわち、(1)モノとして文字記録を見た場合それはどのような特徴を持つか、(2)文字記録に書かれている内容・得られる知識はいかなるものか、(3)文字記録から得た知識を人々はどのように受け止めてどう行動するかの3点である。これらについて、沖縄県での調査をもとに今日、琉球王府時代の士(サムレー)の子孫に当たる人々――士族系の門中――が祖先の記録である家譜などをいかに管理し、そこから得た祖先についての知識をどのように活用しているかについて、具体的な事例を挙げて考察していく。

 まず(1)について、琉球の士の家譜の成立と制度の概略をまとめ、沖縄戦での焼失を免れた家譜が今日どのように子孫や教育委員会によって管理されているかを述べる。戦後、子孫の関心は家譜に記された琉球時代の祖先と今日の門中成員が系譜上いかにつながるかに寄せられ、必要に応じて系図をつなぐための加筆が行われてきた。これにともない、漢文で書かれた家譜の内容を理解するため翻訳・解説版の刊行を含む文字記録の再刊行が門中の事業として行われている。戦後の複写・製本技術の進歩が、書き残されてきたものを改めて書き残すというこの行為を後押しした。また士族系門中における系図に向ける意識の高まりには、いわゆる門中化で成立した士族以外の門中が王家(伝説上も含む)にまでつながる系図を作り出したこと〔小熊 2001〕が影響していると考えられる。

 次に、家譜に何が記録されているか、ひいては門中成員たちがどのような知識を家譜から得ているか(=(2))というと、代々の大宗や小宗の名前や生没年、継承の記録、小宗家(支流)が大宗家(正統)から分かれた世代と名前(以上は今日の祖先祭祀で各人が拝むべき対象と密接に関連)、家名(士は采地の地名を家名として用いたので現在に続く苗字をいつから名乗ったかの記録)、墓地・葬地、王族より賜った品の記録などである。さらに男性それぞれの王府における出世の記録もあり、これについては家譜から作成したグラフを提示する。このほか嫁の実家や娘の嫁ぎ先〔山城 2010〕、養子の行き先など親族関係の拡がりも記録から知ることができる。

 このように子孫自身が保管さらには複写・再刊行し、読めるようにつながるように読解が進んできた家譜だが、得られた知識がどのように受け止められ、子孫たちがどう行動するのか(=(3))については以下のような事例から考えたい。

 家譜に記された継承の中に沖縄における位牌継承上の禁忌が見つかった場合、王府時代にまで遡って系譜の修正――シジタダシ(筋直し)――が行われることがある。場合によっては今日まで続いた門中の解体につながり、祖先が犯した間違いに頭を悩ませる門中も多い。ところが実際にはこの禁忌のほうが後代に成立したもので、王府に許可された継承であるにも関わらず、父系の血筋を執拗に重視する後代の禁忌に当てはめられてしまい問題視されている状況にある〔小熊 2009〕。こうした状況に対して研究者が説明できることは少なくない。

 また、誰が家譜を読んでいるのかも本報告では重視する。一般に若者や女性は門中の行事には参加したとしても祖先の記録については存在も知らない。家譜の知識に関心を寄せるのは男性の年配者が多く、この中には門中内において家譜および知識の管理者の役割を務める人がいる。そうした人は宗家の人とは限らず、個人的に門中の歴史に関心を寄せる人や、系図の更新の担当を押し付けられた人も含む。

 そしてときには、家譜に書かれていない情報の補足が行われる。どのように祖先や大宗・小宗とつながるかが祖先祭祀に直結することはすでに述べたが、門中の下位集団の系譜作りは自らの記録が家譜に記されていないことへの失望、正統の系図とどうつながるか分からないことへの焦りから始まる。それを補うための新しい説が提案される際には、門中内の家譜・知識の管理者による厳しいチェックを経なければならない。

 以上の通り、過去から現在への変遷と当事者の思考・行為を考える民俗学の立場から、文字記録を読み、内容を伝え、必要に応じ改めて編み直すという伝承行為について考察する。

《参考文献》

  • 小熊誠 2001 「記録された系譜と記憶された系譜 ―沖縄における門中組織のヴァリエーション―」『都市と境界の民俗』吉川弘文館
  • 小熊誠 2009 「門中と祖先祭祀」『南島の暮らし』吉川弘文館
  • 武井基晃 2007 「歴史調べ活動による伝承の収斂 ―伝承者の好奇心を事例に―」『民俗学論叢』22
  • 武井基晃 2012 「系図をつなぐ ―屋取集落の士族系門中による系図作成の実例―」『沖縄文化研究』38
  • 山城彰子 2010 「家譜資料にみる近世琉球における士の離別 ―女性に焦点をあてて―」『琉球アジア社会文化研究』13

職人巻物から考えた文字文化

宮内貴久

 福島県奥会津地方の大工は、一人前と認められると巻物を伝授するという民俗がある。これまで大工の系譜関係・儀礼書について調査研究を進めてきた。その結果、(1)福島県大沼郡金山町の田邊杢之進という大工が、宝暦年間に水戸の大工大畑彦左衛門から伝授された『番匠十六巻一流之大事』という大工儀礼書が伝授されたこと。(2)同巻は現在でも奥会津地方の大工の間で伝授されていること〔宮内 2002〕。(3)同巻と同じ内容の巻物が、埼玉県秩父郡皆野町、徳島県阿南市、石川県金沢市にも存在していること。(4)同巻は三輪神道の系譜を受け継ぐことを明らかにした〔宮内 2009〕。また、福井県越前市で『日本番匠記』という内題を持つ大永5年(1525)の銘を持つ巻物が『日本番匠記』系本であること、大工自身が積極的に文字知を獲得していることを明らかにした〔宮内 2008〕。

 大工の間で巻物を伝授するという民俗が他地域にもあるのか? 三輪神道系統の大工儀礼書が他にもあるのか? この2つの疑問について調査研究を進めている。前者に関しては幕末頃まで伝授された地域はあるが、現在でも伝授されている地域は管見では奥会津だけである。後者に関して、現段階での成果を報告したい。

 石川県金沢市の加賀藩大工棟梁を務めた清水家文書には「三規式秘密」神道大工十八通大事印信がある。清水家は現在の大手ゼネコン清水建設であり、三輪神道との関係があった点は興味深い。

 和歌山県和歌山市の根来大工棟梁鳥羽家文書の「番匠拾八通之切紙」は、(1)寛永15年(1638)に書写された文書であること、(2)根来寺の棟梁家である鳥羽家が所蔵していたこと、(3)「神道番匠之大事」が文政6年(1823)が鳥羽邦明に伝授されていることが特筆される。

 和歌山県和歌山市の丹生家文書の「御流神道」は安政3年(1856)に丹生冨道に伝授された。同文書は宝永3年(1706)、享保6年(1721)、文化5年(1808)に書写されている。

 秋田市立図書館蔵東山文庫所蔵「経営之巻番匠秘書」は冊子本で、三輪神道における建築儀礼次第の記述に加えて陰陽道書『内伝』造屋編の内容が含まれている。

 高野山大学附属図書館では、三輪神道系統の大工儀礼書は「大工印信一八通」が基本であり、番匠十六巻一流之大事」は省略されたものであることが明らかになった。また真言密教の秘法を伝授する過程が記された日記から、「大工印信一八通」が修行の後半で伝授されることが明らかとなった。

 京都大学附属図書館所蔵の「大工拾八通秘傳一巻極書」は寛政4年(1792)に藤原清蔵に伝授されたものであるが、伝来などは不詳である。

 静岡県島田市の岡村建設が所蔵する大工文書は元禄8年(1695)に書写されたものである。同家は智満寺のお抱え大工で京都から移住したという伝承がある。寛文12年(1672)の銘がある儀礼書の一部も所蔵されている。元禄8年の銘がある文書を昭和58年(1983)年に書写している点が特筆される。

 長崎県立歴史文化博物館所蔵山口麻太郎資料に「大工口伝呪法」がある。同史料は長崎県壱岐の史料で、巻末に「肥前國松浦郡名護屋之住人三吉了 于時慶長十六辛亥三月日心翁書之」とある。慶長16年(1611)に肥前国松浦郡名護屋の大工が伝授された巻物であり、管見では最古である。

 儀礼書に記されている呪い歌では「霜柱氷の梁に雪の桁雨の垂木に露の葺き草」が火伏せの歌として全国的に分布している。大工儀礼書にも記されている。長野県長野市の文書に、上棟式の祝詞に同歌が記されていた。このことにより、大工儀礼書に記された歌が、実際に上棟式という儀礼の場で歌われた事が確認された。国歌である君が代が「造作之大事」の呪い歌であることも共通している。

 三輪神道系統の大工儀礼書は、近世初期の銘を持つ文書が全国各地で発見することができることから、近世初期から広範囲に流布したと考えられる。しかし、流布していく経緯、高野山あるいは三輪神道との支配関係など不詳な点が数多くある。今後の課題としたい。

《参考文献》

  • 宮内貴久 2004 「田邊杢之進の系譜と活動 ―番匠巻物を中心に―」『民俗建築』第125号、日本民俗建築学会
  • 宮内貴久 2006 「番匠巻物 ―書き伝えること・呪物・文字意識―」『奥会津地方の職人巻物』神奈川大学日本常民文化研究所
  • 宮内貴久 2008 「日本番匠記系本の展開 ―福井県越前市小野谷の事例から―」『歴史と民俗』24、神奈川大学日本常民文化研究所
  • 宮内貴久 2009 「奥会津地方の番匠巻物 ―系譜・由来・呪い歌―」笹原亮二編『口頭伝承と文字文化 ―文字の民俗学、声の歴史学―』思文閣出版