民俗学について

 民俗学とはどのような学問でしょうか。この問いに一つの答えを見つけ出すことは容易ではありません。時代によって、国によって、研究者ひとりひとりによって、民俗学のかたちもさまざまだからです。このコーナーでは民俗学に携わってきた研究者たちが、それぞれの視点から民俗学について考え、それをコラムとしてお届けします(不定期掲載)。

第2回「『民俗学とは何か』とは何か」

渡邊欣雄(中部大学)

 「××とは何か」と定義(つまりは限定)することが問われて久しい。「・・とは何かとは何か」という問いには、定義によってそれが個々人を越えた民俗学の公準であるかのごとく誤解され、歴代不変であるかのごとく誤認されることを恐れることが含まれている。だから「××とは何か」が先にあるのではなく、「××を○○にする」ことが、いまと言わず、以前から学問の創造であり、学問発展の動因であり、結果としての学説史になってきた。だから「××を民俗学にする」ことが、民俗学者と自認する者のレゾンデートルである。必要なことは「民俗学」を名詞として考えることではなく、動詞として考えることだ。

 わたしの民俗学研究を見てみたまえ。さまざまな民俗学の『学会誌』『専門誌』に載ったわたしの民俗学研究のキイワードは、それは30〜40年前に限るなら「機能契機」、「投票行動」、「社会的距離」、「世界観」そして「宴(会)」などだった。その後始めた「風水」研究も、まあ民俗学の対象と言えば民俗学である。わたしの研究以前に、上記のようなキイワードや単語あるいは研究対象が、民俗学として、その研究対象として存在しただろうか?  他学でやっていた研究もむろんある。しかしそれをわたしは若い頃から、「民俗学にしてきた」のである。かくしてそれらのわたしの過去の研究は、わたしの民俗学になってきたし、わたしの民俗学としての特徴である。

 これらの研究やキイワードが、わたし以前に民俗学研究にあったものもむろんある。たとえば『民俗知識論の課題』(凱風社、1990)で対象とした「民俗知識」。つまりは「folklore」を研究対象としたわけだが、それは以前にも「民俗知識」論としてあったし、用語としても用いられてきた。しかしわたしの研究内容が以前とはまったく違うことは、読んでいただければわかるだろう。こんな理論の創意工夫なくして、学問はありえない。

 民俗学は自国の「文明」との対峙・葛藤によって生じた。初めは文明化、機械化、科学化、都市化する現代生活に、「残存」する文化のサルベージ(救済)学として生じただろうが、「文明」と対峙・葛藤しているこの学は、「文明」の栄枯盛衰を視野に入れた民俗(人びとの文明的日常性)の創造とその伝承、伝統的・創造的科学知識をも含めた「民俗知識」の総体を対象にした国家学だと、わたしはそういう<信念>、言い換えるなら<主体化された戦略>を持っている。この<信念>が学界に共有されていると思わないでほしい。<信念>はわたしのものである。この<信念>にもとづいて、「××を民俗学にしてきた」だけのことだ。学問のボーダレス時代だと言われて20年。学問のディシプリンは、ウィトゲンシュタインの言うように、この<信念>を引き出しのラベルとした、オッド・ジョブ・ワード(ハンパ言葉)にすぎない。

(2010年11月掲載/所属・肩書きは執筆時のものです。)