第835回談話会発表要旨(2008年7月13日)

第60回年会プレ・シンポジウム

〔趣旨説明〕「新国学談」再考へ向けて

コーディネーター 佐野 賢治

 昭和二十一年(一九四六)から翌二十二年にかけて柳田國男は「新国学談」と銘打った三冊の書物を刊行した。『祭日考』『山宮考』『氏神と氏子』である。『祭日考』では神社の祭り月を検証することで氏神信仰の変遷を追及し、『山宮考』では山が祖霊の留まる場所であるという信仰を山宮と里宮の祭祀形態を通して論証した。そして『氏神と氏子』では氏神の起源についてさらに論究を重ね、神社の起源は氏の神、すなわち祖先の霊を祭ることにあったと結論づけた。柳田の祖霊神学はここに完成したとされる。

 柳田國男の「新国学談」は、戦中戦後の混乱期にあって、氏神信仰を中心として日本人の信仰や文化の特質を追及するために構想されたものであった。本シンポジウムでは、六十年前に「新国学談」が提示しようとした問題意識を振り返り、「先祖」「供養」「祭り」の三点にしぼって探っていくものである。

 今回のプレ・シンポジウムでは「先祖」「供養」「祭り」に関して、いま民俗学が考えるべき問題はどのような点なのかについて、四人のパネリストの報告を受け、第六○会年会公開シンポジウム「「新国学談」再考」へ向けての問題意識を共有してゆく契機とした。

「新国学談」における「祭り」を考える

坂井 美香

 柳田國男は「新国学談」第一冊収載「祭日考」で、「日本で神道と謂ふべきは、もとは神社の祭たゞ一つであった。」〔全集一六 九〕と書き始める。柳田にとって「神社の祭」とは、神道そのものだということになる。そして「窓の灯」では「是からさき神道はどうなつて行くか、どうなるのが民族全体のために、最も幸福であらうか、」〔同 九七〕と問題を投げかける。

 なにゆえに柳田は祭りや神道にこだわったのか。「祭日考」は一九四五年十一月十八日から十二月二十五日の間に書かれている。書き始めの時期は、GHQによる神道指令(十二月十五日発令)もまだ出されておらず、占領軍の政策についてはっきりとした方針が掴めないままに、靖国神社や神祇院がその存在をどのように変え、どのように存続させるかを模索する時期であった。そして、GHQによる神道指令の発令後に、「祭日考」は書き終わっている。神道指令により、国家神道色が一掃され、国家の祭礼が行われなくなり、神社祭礼がもともとの年中行事としての祭礼のみとすることが求められた。柳田が説いた神社の祭の「最初のもの」を尋ねて行くべき〔同 九〕という主張は、部分的に他律的に達せられ、神社神道存続の可能性を得ることになった。その後、「山宮考」の執筆前後には、宗教法人令(一九四五年十二月二八日)が公布施行され、神社本庁が設立(一九四六年二月三日)され、神社は宗教法人として存続可能となった。

 つまり、敗戦後の混乱期に柳田が『祭日考』を発表した背景には、神社の存続が危ぶまれる社会状況があった。柳田は、「祭の日」を目安に古い形の氏神信仰を明らかにすることで、国家により定められた祭礼日を抜去し、国家神道から脱し、もとの神道の姿に戻すべきということを主張した。柳田にとっては、神社の祭り存続は神道の存続であり、日本固有の宗教としての神社神道存続を目的としたのだと思われる。

 それでは、祭りそのものをどのように考えていたのであろうか。柳田は「氏神信仰の古今の変遷を、専ら祭りの日といふ側面から尋ねて見ようとした」〔全集一六 七〕、「祭りの日の意義」を省みるべき〔同 三五九〕だというが、祭りの果たす役割について「新国学談」の中にあまり書いていない。ただ、故郷鈴ヶ森神社の祭りについては書いている。

 「新国学談」と同時期の一九四六年に発表された「農村と祭り」で、柳田の祭りについての考え方を知ることができる。氏神と祭りについて、「氏神さまは、自分達の生まれた家々と特別に縁の深い神様」であり、「村の氏神様の方は、新たに名乗りをせずとももうよく御存じで」あり、「祭を氏子たちの協同によつて営むといふこと、これが氏神の最も大きな特徴であつた」とする〔全集三一 二一八〜二二五〕。氏神は家や氏子と深いつながりがあり、祭りが村の協同を助けるものだったという。

 また、神社本庁二周年記念講演「神社と信仰に就て」〔一九四八年二月八日〕でも、柳田の祭りの役割に関する考え方を知ることができる。そこで柳田は「……何よりも緊急であると私が考へるものが二つある 一つには神道は如何にして、永続すべきかといふことであり、第二は如何にして神道は統一するかといふことである」と、神道の永続と統一という問題を解決せねばならないと民俗学の任務について述べる。次いで、「色々の神道説があるが、皆新しいものであり、信仰の永続には何ら役立つて居らず、たゞ祭りのみが信仰永続の手段であつた」と、祭りが神社への信仰の永続に繋がる唯一のものとする。そして祭りの働きについて「祭りといふものゝ最大の働きは共同の歓喜を与へるといふことと、同時にそれを次代にゆづる点である、日本の祭りはこの働きを持つてゐる、この共通永続の感銘は以心伝心で古来から続いてゐる」〔全集三一 四四五〕という。柳田は祭りを、共同の歓喜を与え、信仰を伝えるためのものと考えている。

 柳田にとって、祭や氏神の研究は、村人と氏神の繋がりを明確にし、祭礼の神事にも歓喜にも意義があるとし、信仰を伝え神社永続のために祭りは必要であると主張するためのものだった。ゆえに、「祭日考」では、古い祭りの上に新しいものが重ねられて明治に至ったとする仮説に基づき、社の共通点を探し、日本の明治以前の古い神社の祭日の特徴を捉え、祭月の意味を明らかにし、神社の統一と永続の必要性を説いたのである。

 最後に、楊梅の木について触れておきたい。『祭日考』の中に、柳田の故郷、鈴ヶ森神社の祭の記憶一ヵ所と、祭りの記憶と一緒になっている楊梅の木の回想二ヵ所を見ることができる。柳田が「新国学談」を書くにあたって、鈴ヶ森神社の楊梅の木の記憶や、神社祭礼の記憶が基層になっているように思う。荒れ果てた戦後日本の社会を眺めた時に、村の生活の中で果たされてきた神社の役割の大切さを考えたのではないだろうか。

先祖の民俗史料学

渡部 圭一

 本報告では、いわゆる新国学談三部作のなかで先祖というすぐれて精神的な世界がどのように立論されていったか、その史料操作と論理化のあいだに考察を加えるとともに、研究史における戦後の課題をふまえて展望を述べた。

 『祭日考』『山宮考』『氏神と氏子』はいずれも先祖を直接扱ったものではない。無名の霊へと融合していく「先祖」観の描写は『先祖の話』の方に明解であり、三部作はそれを神社という対象に二次的に拡大した成果といえる。『先祖の話』で位牌や戒名の存在が祖霊の思想と両立しないものと退けられたことからすれば(七七頁、ただし引用頁は定本により、巻数は略す)、三部作がまず直面した問題もまた、神社がすでに個別的で具体的な存在であること、たとえば、神社にも祭神にも固有の名前がついていることだったのではないか。いきおい柳田の分析は“無名の神”の析出に強く傾き、『先祖の話』とパラレルな展開をたどる。

 たとえば無名であるべき山宮の神へ、通り一遍の祭神名が比定されていることの作為は「つまらぬこしらへごと」である(『山宮考』、三二三頁)。記録上の古社の所在地名と祭神名の確定にいそしむ式内社の考証は恣意的で、「吉田家の懐柔策」でさえある(『祭日考』、二一五頁)。有名大社の勧請に由来する同名の神社群にしても、必ずしも名前に意味が込められているわけではないし(『氏神と氏子』、四一二頁)、新しい祭神はもとの氏神=先祖と並置(「相殿」)される存在にすぎない(同、四一七〜四一八頁など)。

 こうした神社の社号や祭神名の固有名詞の消極的な扱いは、その背後に、信仰の“自然”に対する操作的で介入的な“人為”の領域を両極化する論理をもっている。信仰とは操作しえない、またするべきでない自然な意思であり(『敬神と祈願』、四五一頁など)、神社を名づけようとする吉田家・神社政策・有力社寺や式内社などは、そこに干渉する恣意そのものとして相対化されるのである。

 氏神論における二つの意思のせめぎあいは、先祖祭祀論では仏教以前をめぐる問題として馴染み深いものだが(『先祖の話』、一〇六頁など)、位牌や墓といったような現に名前をもつモノの夥しい存在が微妙な人為の領域、あるいは不自然な領域として宙に浮き、無頓着な資料化にとどまることもまた示唆的である。よく知られた先祖代々之墓をめぐる失考の一件にも、この種のモノ・媒体をうまく論理化できない思考形式のありかたがよく出ている。逆に、媒体そのものを精査し、媒体からの発想を進める行き方に可能性を見いだせないだろうか。

 戦後の先祖論は現にそのような進み行きを示してきたともいえる。その基調のひとつは術語としての「先祖」の危機、つまり家としての集合的祖霊ではなく個々の私的情愛の領域を扱うメモリアリズム論への傾斜であり、もうひとつはそれにともなう資料的なリアリティの移動であった。とくに社会学における一九七〇年代以降の代表的な先祖論が、視覚的で物理的なモノ資料、あるいは墓・仏壇や墓参などの量的データを重視してきたことは興味ぶかい。家社会とその祭祀を見失いかけた社会学は、歴然たるモノとしての仏壇や墓に繋がって先祖論に踏みとどまったともいえる。

 かくして観念としての先祖はいまや所与のものでなく、モノをとりまく時と場ごとに明滅的な存在になったというべきだろうか。もとより伝統的な村落社会のフィールドワークにあってさえ、たとえば墓標の緻密な調査研究の経験にたてば、個別の墓標群の存在と概念化された先祖像とは明らかに矛盾する(竹田聴洲、谷川章雄)。墓標や位牌をつねに祭祀や観念との単純な対応関係で捉え、なんらかの所与の観念の客観的“史料”源として読み解こうとする態勢は、必ずしも充分な精度をもたない。ここには史料論としての反転の余地がある。

 祭祀や観念といった特定の意味内容の復原のためのモノ資料の利用ではない、モノ資料からの自立的な分析にむけて、近年の研究例はいくつかの手がかりを供する。墓標の客観データ化にとどまらない記録や編集の軌跡をたどり、あるいは地域の歴史認識のなかに墓標や過去帳の価値を位置づけるような作業がそれにあたる(田中藤司)。およそ現代社会において、先祖という観念のありかはあやふやであり、墓標や位牌等といった特定のモノと家と先祖との所与の繋がりをもたなくなっているはずだ。

 かかる状況の先祖は、おそらく常にではなく、ある種の生活や言葉の文脈のなかで、ときには歪なかたちで顕在化するだろう。モノからの視点は、媒体がいかなる状況にあって、どのようにして社会を繋ぎとめ、信心を求め、観念を喚起してくるか、その文脈を精査するのに向いている。「何らかの聖なる存在」(森岡清美)としかいえないところまで先祖と先祖論が追い詰められているとしても、生者からの一方的な情愛などというものではない、向こう側から拘束してくる観念のはたらきはなお注視に値する。

供養する近代家族

田中 藤司

 柳田国男の学問姿勢が現実社会への対応を前提にした政治的なものであったことは、周知の事実である。だが大正後半から昭和初期の柳田の積極的な政治参画に比して、のち政治評論を途絶して以降、アジア太平洋戦中の発言は民間伝承の会から外には出ない感がある〔田中 二〇〇〇〕。敗戦後に柳田が論究した祖霊信仰論による神社再興と教育という主題は、結果的に実りを得ることがなかったかもしれないが、ふたたび現実社会への対応をめざすものだったことは確かだろう〔坂井 二〇〇八〕。民俗学の課題と柳田の営為を同一化する必然はないが、そこから学びとれるものは少なくない。今日の民俗学に可能な現実社会への対応とは何かを考えたい。

 二〇世紀中葉の社会科学を席巻したのは「近代化論」である。日本においては、家や先祖、神社、村、伝統的コミュニティを払拭すべき過去の残存とみなす「封建遺制」仮説がその中核にあった。当時の柳田の立論には、この大勢への対抗姿勢が見える。ここでは議論を尽くせないが、なぜ反動的にも見える先祖と氏神を軸にした祖霊信仰論が繰り出されたのかを推測する手がかりになるのではないかと考える。戦後民俗学が継承したのは、通過儀礼をへて死者・先祖が神に昇華するという祖霊化モデルの仮説であって、祖霊信仰論そのものは受け継がれなかった。政治課題としての祖霊信仰論は、戦後民俗学には重すぎた。

 私の報告に課された「供養」の語は、こんにち仏教の功徳のニュアンスを忘失し、死者追悼の儀礼を指すようになっている。現代の供養を、広く祖先祭祀と言い換えて議論をすすめたい。柳田の祖霊信仰論は、祖先祭祀を社会・コミュニティとの関連で検討したものだ。

 プレシンポジウムで「先祖」報告を担当した渡部圭一氏が、祖先祭祀研究の展開をきわめてシャープに整理している。柳田の「無名の神」志向と対照して、近年の研究の即物化トレンドを指摘した。私の業績をも即物的研究の系譜に位置づけて紹介いただいたことを感謝している。私には氏ほどの精密な整理は無理だが、異なる角度から私見を素描しておきたい。

 戦後民俗学において、祖先祭祀をめぐる社会分析は、大きく分けると二方向で成果をあげた。一方は、機能構造主義人類学に学んだ家族・村落類型論と象徴論という、いわば無時間的な分析である。親族属性で構造化する分析は、調査データから固有名をはぎとる手法である。柳田は自身の学問を歴史研究だと位置づけていたが、その手法・論理は通常の歴史学の時間感覚からは大きく逸脱していた。だから、歴史研究よりも、象徴解釈のような無時間的な研究スタイルにこそ親和的だったともいえる。

 もうひとつが、渡部氏の指摘したモノ資料の歴史性に着目する方向である。いわば民俗学の「歴史化」である。民俗学の歴史化は、大きな課題である。思弁的な仏教思想史に対抗する仏教文化史研究として登場した仏教民俗学は、既存の民俗学に対して方法的なカウンターとなった。文献史料や金石文を活用し、近世社会史のなかの仏教儀礼を追究する作業は、柳田における「仏教以前」という時代設定を否定し、祖先祭祀は歴史的に探究されることになった。ただし、そのさいにも超歴史的な祖霊化モデルは生き続けた。戦後急速に成果を蓄積してきた近世村落史研究・歴史考古学等との連携のためにも、民俗学的探究には注意深くバイアスを意識の上に引き出す作業が要求されよう。だが、柳田の歴史研究がもっていた、民俗学以外の学問とは異なる時間感覚をも手放すべきではない〔田中 二〇〇七〕。

 いまや供養・祖先祭祀は、家族の範囲に特化されている。家族の性格を歴史的に問う必要がある〔田中 二〇〇一、二〇〇三〕。祖先祭祀は社会に従属して変化するという見方は根強い。コミュニティから離脱した近代家族を分析する「近代家族論」の成果を参照することで、「社会変化」の語で一括されがちな社会・歴史的背景を再検討したい。

 社会変化従属説は、じゅうぶんな社会分析をおこなっているのか、という疑問が私には強くある。プレシンポジウム報告において、既存の人口統計の数値を操作することで私がこころみたのは、「核家族化」など安直なマジックワードのひとり歩きへの抵抗である。明確な結論を提示できないまま小さな確認を繰り返してみて、そこからぼんやり浮かびあがるのは、家族・親子・血縁者のつながりが同居別居に左右されないほど強化されている可能性である〔田中 二〇〇一〕。同居の範囲では家族を規定できない事実のなかに、現在の「供養」が存在しているのである。

 供養・祭祀という文化が家族の性格を規定しているのではないかという仮説を置くことで、近代日本の親子関係と祭祀との影響関係は双方向的であるとの見通しを示した。供養をめぐる民俗学・文化史研究は、社会変化の跡づけに終わるのではなく、社会構想のヴィジョンにつながる方向性をもつだろう。柳田が問うたコミュニティ再興の構想のような、実践と結ぶ社会分析へと展開することは夢想ではないと考える。

《文献》

  • 坂井美香 二〇〇八「柳田國男、『新國学談』のころ」『歴史民俗資料学研究』一三
  • 田中藤司 二〇〇〇「孤島苦の政治経済学」柳田国男研究会『民俗の記述』岩田書院
  •  同   二〇〇一「定年帰郷」『国立歴史民俗博物館研究報告』九一
  •  同   二〇〇三「墓」暮らしの中の民俗学3『一生』吉川弘文館
  •  同   二〇〇七「死を記念する/記念しなおす」『民衆史研究』七三

「祭り」が問われるとき

福持 昌之

はじめに

 柳田國男の学問が、日本の社会が直面した諸問題に対する「問題意識」と密接に結びついていたことは周知のことである。そのなかでも特に、戦中戦後の混乱期を通して、日本人の心のありように対して指針を示したといえる三冊の「新国学談」は、それを象徴する、大きな仕事であった。当時と違い、約六〇年後の現在は民俗学も発展を遂げ、研究の対象や方法、問題意識も広がりをみせ、より精緻で実証的な研究成果の蓄積がなされてきた。また、民俗学は他の学問が辿る道と同じく、個別細分化が進んできたともいえる。六〇年といえば還暦。民俗学が学問として果たす役割を考え直すことで、学問的な求心力を再生させる好機なのかもしれない。

 ここでは、柳田の問題意識や取り組みの姿勢を現代的にも通じるものとしてとらえ、滋賀県の事例をもとに地域の伝統的な祭りを支える地域社会のおかれている状況について考えたい。

祭りと地域

 祭りは、地域の結集の表象である。祭りの存続が危ぶまれるとき、省略、変容、統廃合、廃絶などが射程におかれ、さまざまな正・負の要因が秤にかけられる。戦後の物心ともに混乱していた時もそうだったが、現代も祭りをとりまく環境は厳しい。近年、「意味のないものにはお金をかけない」という風潮が広まり、祭りの催行もその根拠が問われはじめたように思う。それは、寺社の護持、祖先のため、観光資源の育成、まちづくりなど、その性質や方向性は一様でない。ただ、地域住民が納得する理由が見つからない場合、次第に求心力が失われ、祭りは崩壊に進む。あるいは目的を見失ったまま惰性で続けられていた祭りが、あるときを境に急速に崩壊する。

 一方で、祭りは、それ自体が地域の魅力のひとつである。祭りの催行に意義を見出せなかった地域は、確実に地域の求心力の核をひとつ失う。今の日本が元気になるためには、それぞれの地域が活性化していく必要があるといわれる。それは物質的なライフラインの充実だけではないはずである。確かに、生活に便利な環境を整えることは地域の活性化に重要である。しかし、「ふるさと」というような強い想いに支えられなければ、本当の地域の活性化はありえない。日本全国どこでも均一の便利な社会というものは、いつでもより便利な土地へ移住可能な社会でもあり、個々の地域の活性化はありえない。

 地域社会が活性化するためには、その地域が歩んできた歴史のなかでじっくりと育まれてきた自然環境や社会環境、そして精神的な拠り所を、個性として大切にしているかどうか、が問題であろう。

自治組織の弱体化

 今、地域が抱えている問題は二つあり、そのひとつが地域の自治組織の弱体化である。

 愛知郡愛荘町では、役場が収集にあたる家庭ごみは、自治会ごとに集積所を取りまとめ、役場に届けることになっている。しかし、自治会に入っていない住民もおり、役場に直接交渉して、集積所を新設させようとすることもある。彼らの言い分は、自治会への加入には法的規制がないから入らない、住民税など町税は納めているからごみ収集という役場のサービスは受ける権利がある、というものである。こういった主張をするのは、町外から転入してきた人であり、このようなトラブルの原因は不動産業者が地元自治会と十分協議をしないまま宅地開発をし、入居者は自治会加入の必要性を知らされないまま住み始めたということが考えられる。しかし、売却した後に、必要な調整をしなかった地権者(おそらく地元住民)にも責任の一端はある。

 ある自治会長は「自治会長は、順番であたるようなものであり、住民の支持を得て選ばれた者ではない。役場との窓口として対応はするが、住民の意見をまとめるとか、代表することは無理。書類に会長の判を押しても、地域の総意であると考えてもらっては困る」という。順番であたったとはいえ、自治会長には古くからの住民で、五、六〇代の信用のおける人物から選ばれる。そういった人たちでさえ、地域の自治は、十分には機能していないと吐露している。

 一方で、地域の結集力の強さを感じさせる事例もみられる。湖東町大字小八木は、集落が秦荘町大字香之庄との境界に接して立地している。若夫婦や分家など、オモヤから離れてシンヤを建てる際、その場所が香之庄の地先になることもあった。集落としては小八木に連なっているため、自治会の所属も小八木で、住民登録も湖東町で、住民税は湖東町に納め、土地・家屋にかかる固定資産税だけは秦荘町に支払っていた。これは慣例として五〇年ほど続いてきたが、湖東町が八日市市などと合併し東近江市になった際、「公職選挙法上、選挙権を与えられない」ということになった。

 この旧の自治会への越境加入は、地域とは行政上の区分ではなく、自分の所属やアイデンティティを示すという意思がうかがえる。しかし、香之庄の人たちから見ると、自分たちの地先に住む人が小八木の自治会に所属したままだということは、自治会への加入を強制できなかった、ということになる。これまで特に問題はなかったのだろうが、それを見過ごす風潮が、新しい住民が越してきた場合に強制力が働かないことの温床になってきたのではないだろうか。つまりこのことは、地域の結集力を示すと共に、結集力を壊すという両面のことがいえる。

地域の宗教儀礼の希薄化

 もうひとつの問題は、地域の宗教儀礼の危機である。

 関西で一般的な地蔵盆は、滋賀県でも盛んであるが、湖東地域はまた、浄土真宗の盛んでもある。弥陀一仏の信仰を持つ浄土真宗は他の信仰を嫌い、地蔵を祀ることもしない。住職や年配の門徒から「ほんとうは地蔵盆のおまつりは、したらあかんのやけどな」という声も聞こえる。もともと若衆の若年層(中学生)が担っていたが、子ども会(小学生)の行事として定着したことから、続けられてきたが、今後さらなる少子化が進んだときが正念場を迎えるだろう。

 地域や神社には、神社本庁のいう一般的な祭祀のほか、固有の神事(特殊神事)がある。地域によっては、行事の数が多いことが負担となり、より強い理由のあるものに統廃合されていく。このとき、「本来おこなうべきもの」という理由により、本庁祭祀に習合されていく傾向がみられる。

 地域の特徴はむしろ特殊神事にみられるもので、どこの地域でも全国共通の神事が粛々と進められていることが地域にとって良いことであるとは思えない。

 柳田は、戦後の混乱期に生じた信仰の動揺が落ち着くためには数十年かかると言った。それから六〇年たった今も、状況は異なるとはいえ、やはり問題をはらんでいるといえる。

まとめにかえて

 地域が抱える問題に、民俗学はどのように対処していくのか。柳田は、三冊の「新国学談」を発表していた時期に、積極的に審議会などの委員をし、また社会科教育にも力を注いだ。「新国学談」は、今の物価に換算すると一万円弱の価格であった。これでは一般の人は買わないし、その思想を広めるには限界がある。書籍による有識者向けの発信と平行して、委員としての発言や、各地での講演を通して、広く一般にその思想を伝えたのではないだろうか。

 考古学については、ほとんどの市町村に専門職が配置されており、その成果が一般に還元さやすい体制が整っている。それにひきかえ、民俗学が一般に発信する力はまだまだ小さい。「在野の学」の素晴らしさも保ちつつ、社会に聞こえるだけの大きさの声を持つことも重要だと思う。