第837回談話会発表要旨(2008年11月9日)

寺社参詣をめぐる庶民文化 ―歴史学・民俗学・地理学の視点から―

「寺社参詣をめぐる庶民文化―歴史学・民俗学・地理学の視点から―」によせて

西海 賢二

 近年、寺社参詣の研究動向をめぐってさまざまな方向性が見出されつつある。しかし、研究の趨勢は歴史学、地理学からのアプローチが多く、民俗学からは停滞気味である。そのあたりを反省しつつ今回の談話回では歴史学(大山をはじめとする関東地方の山岳信仰など)、地理学(歴史地理学からの東北地方の鳥海山信仰など)、民俗学(関東地方・四国・九州などの巡礼・遍路・不動信仰など)の報告をもとに、近世以降の寺社参詣研究の新たな展開を試みた。

 報告者の選定は歴史学・民俗学、地理学からいずれも三十代の今一番活躍されている三人にお願いをした。それも選択にあたって三人が歴史学や文化人類学、地理学を専門にしながらもいずれも日本民俗学会に興味をもち会員である方々に登壇していただけたのは幸いであった。

 原淳一郎氏は江戸時代の旅とくに相模大山信仰、成田山信仰、江ノ島信仰、川崎大師、淡島信仰などを題材にして、とくに近世の旅行史をふまえて学位論文として2007年9月に『近世寺社参詣の研究』(思文閣出版)を刊行された方で、近年では「金沢八景参詣と在地出版・江戸資本」(青柳周一・高埜利彦・西田かほる編『近世の宗教と社会T 地域のひろがりと宗教』、吉川弘文館、2008年5月)「寺社参詣における書物の機能―鎌倉参詣と『新編鎌倉志』−(『旅と日本『発見』−移動と交通の文化形成力―』国際日本文化研究センター国際研究集会報告書、2008年)などをまとめられており、近世以降の旅世界における知識人同士の知識受容、出版文化の発達、書物の受容の問題を手がかりにして報告したものであり、これまで歴史学での新城常三氏の『新稿 社寺参詣の社会経済史的研究』(塙書房 1982年5月)で提示された貴族、武士、民衆の参詣を焦点にその社会経済上の根拠、信仰内容などを総合的に論証した著作のなかでも等閑にされていた部分に着目したものであり1990年以降歴史学のなかで一つの潮流となっている「周縁」というものを江戸近郊と出版資本の問題との絡みで論じたものであり貴重な報告であった。

 中山和久氏は文化人類学、社会学をベースにしつつ民俗学を展開されている方で、研究テーマは「巡礼・遍路の宗教民俗学的研究、民俗学におけるデーターベース利用の研究」を関東地方、四国、九州北部、山形県などを調査地(研究地域)として2004年11月に『巡礼・遍路がわかる事典』(日本実業出版社)刊行されて方で、近年では「異人歓待の源泉について―四国遍路における接待を事例として―」(小松和彦還暦近年論集刊行編『日本文化の人類学 異文化の民俗学』法蔵館、2008年7月)「四国遍路の初期展開―醍醐寺への着目―」(『巡礼記研究』第五集 巡礼記研究会 2008年9月)などをまとめられており、近世から現代までの巡礼や遍路などを通してこうした人々を受容した地域社会の構造を特定の宗教者や接待という行動様式から、さらには接待する行動が「供養」としてもつ意味などを論じたものである、これまでの庶民の社寺参詣という行為を違った側面からアプローチされ新たな方向性を見出したものとして評価されるものであろう。

 筒井裕氏は宗教地理学、文化地理学、民俗学をベースにしながら地理学を展開されている方で、研究テーマは宗教地理学、信仰圏、山岳信仰、神社組織、修験集団、官国弊社、神社運営を通じて「信仰圏の形成要因」や社家、修験集団、官国弊社、営繕活動、式年造営を通じて「近代における神社運営組織に関する研究」を進めており、とくに秋田県の鳥海山大物忌神社吹浦口ノ宮における長期のフィ―ルド調査から、近年では「昭和中期における鳥海山への物資運搬―吹浦口ノ宮を中心に―」(『日本民俗学』240号・2004年)「昭和初期における国幣中社大物忌神社吹浦口ノ宮の特殊神事」(『日本山岳文化学会論集』2号・2005年)などをまとめられており、大物忌神社に所蔵されている膨大な社務日誌などを分析され、日誌から参詣者、講組織の形成や信仰圏、合力などの仕事内容から鳥海山修験者の神札の調整や配布問題に新展開をみせたものとして貴重な報告であった。

寺社参詣をめぐる庶民文化−歴史学の視点から−

原 淳一郎

 新城常三氏の『社寺参詣の社会経済史的研究』が刊行されてからすでに四十年以上が過ぎた。同書は多様な視点と課題提起を含むものであったが、その後の寺社参詣研究はおもに道中日記研究という形で継承されてきた。おもなものを挙げれば、伊勢参宮(山本光正、小松芳郎、桜井邦夫、小野寺淳、高橋陽一)、西国巡礼(田中智彦)、出羽三山(岩鼻通明)、善光寺(西海賢二)といったところであろう。これに加えて道中日記1点を扱った史料紹介的な論稿は数知れない。情報が決して多いとは言えない道中日記を分析するということは当然のことながら、数量的分析によるルート解明が議題の中心となったため、歴史学だけでなく地理学との連携のうえに成立していた。また解明されたルートの解釈という点においては、物見遊山か信仰かという二分法がとられ、人類学や宗教学的な分析へと移行していった。報告者はもはや二分法は無意味で、多様な点において、どのような点が信仰的なもので、どのような点で物見遊山色が強いかを見極めるかが今後の方向性だと主張した(拙著『近世寺社参詣史の研究』)。

 ただし近年では道中日記を別の目的で使用する例もある。道中日記は情報が少ないながらも、実際に旅をした人間だからこそ知り得る情報が含まれており、数十点の道中日記の情報を総合すれば、何らかの歴史像を描くことも不可能ではない。こうした点で明らかにされたのが、旅のシステムであり、御師の接待の具体像や、金比羅渡海船の実態などであった。

 また近年のもう一つの特徴として、温泉史や名所論の高まりがある。これらは元来観光地理学で行われていたような名所や門前町の成立過程を追う研究手法と近いものがある。ただし近世史固有の政治的権力、宗教史、思想的状況の問題から解き明かそうとしており、本質的には旅研究や寺社参詣史とは違うものである。

 こうした研究の厚みにより、旅の実態の研究はきわめて進んできている。今後もまだまだ新しい史料が発掘される可能性も秘めている。しかし依然として西日本からの伊勢参りや西日本での地域的参詣の事例の薄さは否めない。そして何よりも静態的な歴史であるという点は反省材料であると言わねばならない。

 これまでの寺社参詣史は実証的な研究が多かった。ただしこうした静態的な歴史は、あくまでも前提であることもまた認識しなければならない。つまりいかにこの成果を近世史研究に位置づけていくか、ということが今後問われる課題である。

 これを改善するために当面目標とすべきは、@きちんとした時代的把握、A寺社参詣の大衆化の背景説明である。
とくにAの視点は今後もっとも重要になると考える。従来の研究では、すでに寺社参詣が大衆化した18世紀後半以降がおもな研究対象となってきた。そのため寺社参詣が何故近世において大衆化したかという最大の謎が残されたままであった。もちろんこの視点は新城常三氏において説明されているところも多い。しかしまだまだ残された、あるいはもっと突き詰めるべきテーマは残されている。そしてAと格闘していくなかで、自然と@の問題も解決されていくだろうと考えている。何故なら大衆化の背景に説明を施すためには、必然的に時代的変容を捉えなければ始まらず、したがってその前提として時代把握をしっかりとしておかなければならないからである。

 寺社参詣の大衆化の背景を考察する場合、例えば、@寺社の経済基盤の民衆化、寺社と信者を仲介する御師・先達の登場、Aイエ(直系型家族)の成立と幕府による檀家制度の成、B交通制度の整備、C庶民生活の向上と余剰生産物、D頼母子講的な講(参詣講・代参講)の発達、E身軽な旅を約束する輸送手段(飛脚・為替)の発達、F出版文化の発達、など多くの事柄が挙げられる。こうした点の多くは、社会経済史的な問題である。したがって必然的に新城氏が提起されていた課題も多く含んでいるとも言える。

 しかし報告者はこうした社会・経済における歴史的規定性の一方で、それだけでは割り切れない部分もあると考えている。それは端的に言えば思想・文化である。換言すれば、どういう目的で人は旅をするのか、あるいは旅が大衆化することによって思想・文化史的にどのような影響があったのか、ということである。これについても、現在近世史で盛んである思想史、書物史などの成果を踏まえたうえで、A旅の思想史的研究と、B寺社参詣における書物の受容、C書物の社会への影響などテーマとしてがあるように考える。Aは、史料的制約からいわゆる文人層の紀行文を素材とせざるを得ないが、こうした文人層の旅との比較から、庶民の旅の特性が描き出せるだろう。Bは旅をする際に、どういうものを読んで旅に出ていたのか、ある書物がどのような意図で作成されて、流布され、どのような人に読まれたのかという問題である。これもやはり庶民の実態を明らかにするのは難しいが、現在ある特定の書物や、特定の人物を題材に、地理的教養をいかに形成したか、あるいは旅をする際にどのような書物が参考になったのか、という視点で研究が始まりつつある。Cは、ある特定の書物が世に出たことによる、対象とされた地域構造への影響、地域の個性の発見、地域間差異の解消などの分析である。

 こうした思想・文化史的アプローチは、その対象がある一定の文化レベルをもつ階層に限られるきらいはあるものの、決して社会経済史的アプローチと不即不離ではあり得ない。この両輪でもってより豊かな寺社参詣史が描いていけるのではないだろうか。

寺社参詣をめぐる庶民文化〜民俗学の視点から〜

中山 和久

0.寺社参詣に対する民俗学のまなざし

 一般に「参詣」とは寺か社に赴いて拝する行為である。日本においては古くから実に膨大な数の人々が、相当の費用と時間を投入して、肉体的・精神的な苦労も厭わず、各地の寺社へと参詣してきており、無宗教と言われる現代においても寺社は無数の参詣客を集めている。

 では、なぜ人々は参詣するのか。人々は参詣に一体何を見出しているのか。先人たちはなぜあのような儀礼システムを構築したのか。また、人々は参詣をどのように活用してきたのか。参詣にはどのような民俗の知恵が秘められているか。そして、今後、私たちは参詣の知恵をどのように活用していったらよいのか。

1.民俗学における「寺社参詣」概念の分析枠組み

(1)「庶民」

 様々な含意を付与されて使用される用語であるが、参詣を分析する民俗学の立場としては、人々の中からいわゆる権力者・宗教者を除いた存在を考えたい。 権力者・宗教者による参詣は古くから数多くの記録が残されているが、それらの中には庶民による参詣も垣間見える。天仁2(1109)年10月25日、熊野に参詣した藤原宗忠は石上の多介(岩神峠)の王子社で熊野への途上の盲人に食糧を与えている〔中右記〕。13世紀の『古今著聞集』にも盲人が熊野社へ祈請した話が出ている〔上巻〕。

(2)「寺」または「社」

 「寺」とは、@仏像の安置所、A僧侶の学問修行所、B民衆の聞法所、のいずれかである。@における「仏像」とは、美術品と解釈することもできるが、一応は仏という超自然的存在が籠(宿)っている物体と理解すべきだろう(←開眼・御霊抜き)。

 「社」とは、神を祭るための施設や建物で、@神社、A宮、B祠、C杜、のいずれかである。注連縄を渡した磐座や胎内潜りの岩の裂け目なども、それを包含するより巨大な山塊(いわゆる霊山)をCの範疇に含めて理解することもできる。また、霊山への登拝についても、寺の奥之院や社の奥社・奥宮へ赴いて拝することと解釈すれば、「参詣」概念の範疇に含まれると定義できる。

(3)「赴いて」

 この語は方向性と移動を含意するものの距離や遠近には言及しないが、参詣の「詣」は「イタル」と読み「行き着く」「達する」という意味を持つことから、参詣には寺社へ至る道中における相応の負担が含意されていると理解すべきだろう。

 その負担とは、費用、時間、苦痛、疲労、不便さなどである。移動が身体エネルギーや家畜エネルギーに依拠する場合は遠隔性、炭素エネルギーや原子力エネルギーに依拠する場合は長期性を伴うとも理解できる。

 いずれにせよ、参詣には、これらの負担を乗り越えさせる何かがある。

(4)「拝する」

 礼拝や供物の奉納など寺社において神仏に働き掛ける様々な儀礼が基本であろうが、神仏への祈願を伴わない「拝見する」といった範疇も視野に収めたい。 参詣は日本において礼拝の連続性を伴うことが多々あり、そうした参詣は特に「巡礼」や「順礼」などとも表現されてきた。

2.寺社参詣の力点

(1)名目

 旅に出たり物見遊山や遊里に行く許可(往来手形の取得や共同体成員の同意など)を得るための建前や方便というが、道中記や名所図会には名所旧跡や茶屋、芝居小屋など寺社以外の諸施設が掲載されている。名目としての必要以上に寺社に興味・時間・金品・労力を払っている可能性がある。庶民による寺社参詣はある程度の実態を伴っていたのではないか。

(2)寺社の聖性

 庶民による寺社参詣における「寺社」の焦点は仏または神を拝する場所は、民俗では畏怖の対象を「物」とも表現され、「物」は中古~中世に寺社の意を帯びており、「参詣」とほぼ同じ含意を有する「物詣」「物参」という語彙も派生した。

@特別な願い 鎮守や檀家寺への参拝では叶えられなかった祈願・救済。より強力な現世利益を与えてくれる特別の神仏(機能神仏や守護神仏など)に、より強く働き掛けることができると信じられる場所へ。霊験譚を伴う縁起。熊野や身延や四国遍路。御札や御影。

A始原への回帰 本山・本寺・本社・本家。祖神仏霊。他界=擬死。遊山。

B物見/見物 神仏の祭祀場に限られない広義の聖性(輝き・魅力・美‥)。

光を観る。美術館としての寺社。花の寺巡礼。参詣させる側の働き掛け3による「一度行ってみよう」。土産。

(3)寺社への道中

 寺社の遠隔性や参詣の長期性に起因する、「どこへ行くか」ではなく、「どこを行くか」「いつ行くか」「誰と行くか」という問題がある。

@道程 世間を知る(往復で異なる道を取る)。艱難辛苦を乗り越える(可愛い子には旅をさせよ)。

A非日常 神仏によって担保される日常からの解放。おいそれとは行けない → 参詣周期。

 a)一生に一度;人生儀礼。御忌。

 b)数年に一度;縁年。

 c)一年に一度;年中行事。

 d)一月に一度;月参り(参詣?)。縁日。

B講/同行 深い交流。新しい出逢い。

(4)寺社での礼拝

 納経・納札・御詠歌・朱印などは参詣の目的となりうる。そして、これらの民俗は多数回参詣(三十三度、百回、重ね印など)や多数所参詣(千社札、八十八ヶ所など)と密接に関係。

 多数回参詣では回数を重ねることに価値が見出されがちで、そこから一種の階級性(大先達、金札、術の伝授など)が生じ、参詣自体を自己目的化しうる。

参拝行動にみられる地域的差異とその形成要因 ―鳥海山大物忌神社の登拝講に注目して―

筒井 裕

 日本の人文地理学的分野においても、巡礼・参拝に関する研究は盛んに行われてきた。近年、とくに人々の参拝行動にいかなる地域的差異がみられるかを解明する試みがなされている。その手法のひとつになっているのが、信仰圏研究である。これは、宮田登の岩木山信仰圏の論考に刺激を受けた地理学者―岩鼻通明・松井圭介・金子直樹―が、信仰対象(山岳・社寺)と居住集落の間の距離に応じて人々の参拝行動が異なり、その様子を同心円的モデルで表現できるとしたものである。しかし、上記の研究は、なぜ参拝行動に地域的差異が生じるのか、その要因を考察するまでには至っていない。

 以上の問題点を受け、本報告では、秋田県と山形県の県境に位置する鳥海山を五穀豊穣神「大物忌神」として祀る鳥海山大物忌神社の崇敬者の参拝行動に、どのような地域的差異がみられるかを明らかにするとともに、これらの成立要因を考察することとした。同社は鳥海山山頂の「本殿」、そして山麓部にある里宮機能を果たすふたつの口ノ宮(「吹浦口ノ宮」・「蕨岡口ノ宮」)の三つの神社からなる。発表者は、二〇〇〇〜二〇〇一年にかけて、鳥海山大物忌神社とその信仰圏(秋田県由利郡・山形県庄内地方)で現地調査を行った。その結果、同社には、夏季に本殿に参拝する「登拝講」と呼ばれる地縁的組織が八三団体存在することや、これらの1.組織の結成状況・2.呼称・3.参拝先・4.祈願内容の四点について地域的差異がみられることを確認した。

  1. 組織の結成状況 登拝講は、秋田県西目町から山形県朝日村にかけて分布する。これらは鳥海山周辺ではあまり組織されないが、最上川以南―とくに鶴岡市・藤島町周辺―では、その分布密度が非常に高くなる。よって、後者は人々の山岳参拝に対する関心が非常に高い地域だと考えられる。
  2. 呼称 「登拝講」という呼称は、鳥海山大物忌神社が本殿参拝を行う集団を総称する際に用いる呼び名である。各団体には独自の呼称があり、これらには二つの命名パターンがある。ひとつは特定の山岳名を冠する手法で、もう一方はそれを用いないものである。秋田県由利郡・山形県遊佐町では団体名に「鳥海山」と冠するが、酒田市以南では、鳥海山と出羽三山に関する名詞を組み合わせる傾向がある(例「鳥海講・月山講」など)。また、酒田市から鶴岡市にかけての地域では特定の山岳名の使用を避け、自集団を「山参り」と呼び、参拝対象を「山」と包括的に捉える習慣がある。
  3. 参拝先 由利郡・遊佐町の団体は鳥海山のみに参拝する。これに対し、酒田市から鶴岡市にかけての地域では、鳥海山と出羽三山にほぼ同時に代参者を送る。Aと合わせて考えると、鳥海山周辺では鳥海山に特化した信仰活動を、その遠方となる後者においては、鳥海山と出羽三山を「山」として包括的に捉え、かつ、同時に参拝する点から、両者を「同格視」した信仰活動を展開していると指摘できる。
  4. 祈願内容 全ての登拝講は参拝先で五穀豊穣を祈願する。ただし、鶴岡市以南では水田に害虫が飛来しないよう、虫除もあわせて祈る傾向にある。

 では、上記のような地域的差異が生じた要因とは何か。以下に、(А)登拝講の結成状況(1)、(B)山岳の神の位置づけに対する認識(2・3)、(C)祈願内容(4)についてそれぞれ記す。

  • 登拝講の結成状況 鳥海山大物忌神社所蔵の文書を分析した結果、近代以降においても、現在の酒田市以南の地域では在地の神職が登拝講を統率する習慣があったことが判明した。彼らは同社に「国先導」として登録され、氏子の依頼に応じて本殿までの案内役を務めた。神社側は参拝してきた国先導に対し、一定の案内手数料を授与した。このような神社側と国先導との経済的関係が、酒田市以南の地域に登拝講組織の維持・定着化を促したものと考えられる。
  • 山岳の神の位置づけに対する認識 登拝講への聞き取り調査と神社文書の分析の結果、由利郡・遊佐町周辺では、近代以降も鳥海修験が年間約二〜四回もの高頻度で檀廻活動を行っていた事実や、地域住民が農業用水を鳥海山水系から得ていたことが明らかになった。これに対し、酒田市以南では、鳥海修験の活動頻度が相対的に低いこと、在地の神職が鳥海山・出羽三山両者の「里修験」的な役割を担っていたこと、地域住民がおもに月山水系から農業用水を得ていたことがわかった。よって前者の地域は後者に比べて、人的・自然的条件ともに、鳥海山信仰が強固に浸透しやすい条件下にあったと言え、その結果、鳥海山が人々の信仰対象の中心に置かれたものと結論された。
  • (C)祈願内容 鶴岡市以南で虫除祈願が行われるのは、同地の沿岸部に丘陵部・山地が展開しており、これが害虫の多発を誘引する要因のひとつになっているためと推察される。