第835回談話会発表要旨(2008年12月14日)

民俗文化財保護行政の現状と課題 現場からの報告

守る・伝える・育てる―群馬の伝統文化継承事業の試み―

板橋 春夫

 群馬県教育文化事業団は、平成十五年度に民俗芸能を中心としたインターネット情報「ぐんま地域文化マップ」を作成した。これは群馬県内の民俗芸能や祭り行事を一覧できる便利なデータであったが、経年のため掲載内容が実態に則さなくなっていた。そのデータ更新を含む新規事業として、平成二十年度に「ぐんま伝統文化継承事業」が四か年計画で始まった。本事業は「地域」「社会」「再生」をキーワードに、地域社会における伝統文化継承の活動支援を課題としており、知事部局の文化振興課が企画し、群馬県教育文化事業団が事業を推進している。「ぐんま地域文化マップ」の継続事業という位置づけがあるとはいえ、従来の常識から言えば教育委員会の文化財保護担当部署が主管すべき事業であろう。(私はその主管以前の問題として、かつて「ぐんま地域文化マップ」の作製に協力したという理由から本事業に関わることになった。)

 群馬県教育文化事業団では、文化庁補助事業の『群馬県の民俗芸能―群馬県民俗芸能実態調査報告書―』(群馬県教育委員会、平成九年)及び『群馬県の祭り・行事―群馬県祭り・行事調査報告書―』(群馬県教育委員会、平成十三年)を基礎資料として、県内市町村に「ぐんま地域文化マップ」掲載のデータ更新を依頼するとともに、新たに「復活・伝承危機・中断」の項目を設け、市町村に記入依頼を行った。その集計結果によると、県内の「民俗芸能」は、総数八五五件に対し、復活一一件、中断中一九七件、廃絶二三件であった。また「祭り・行事」は総数八四六件に対し、復活五件、危機二六件、中断中一一件、廃絶三六件であった。民俗芸能には「中断中」という事例が比較的多く、民俗芸能が存続の危機に瀕している実態が伺える。

 私は、「ぐんま伝統文化継承委員会」の委員として、実地調査の必要性を主張するとともに、実地調査にあたっては特に近年復活した民俗芸能に注目し、その復活の経緯をていねいにトレースすることを提案した。それは現在、中断や存続の危機に瀕している民俗芸能の保存会などの参考に供することを最大の目標としたからであった。そして、初年度にあたる平成二十年度「ぐんま伝統文化調査」は、その集計結果を踏まえて県内二四か所の民俗芸能を選定し、民俗学や郷土史に造詣の深い「ぐんま伝統文化調査員」八人が調査を行い、復活継承を果たした民俗芸能は詳細な復活ストーリーの聞き書きをしていただいた。

 それらの体験から三つの問題点を指摘しておきたい。第一は「後継者問題」である。その具体的内容はさまざまであるが、保存会の構成員が固定化し高齢化が進み、少子化の影響もあって新規加入者が減少し、伝統文化を維持できないという現状がある。それらの原因の根源を探っていくと、地域社会自体の存続問題に行き着いてしまうのである。県内の獅子舞の多くは、構成員の加入制限を取り払う措置によって当面の存続危機を延期しているが、そのことは決して抜本的な特効薬とはなっていない。いわゆる限界集落(六十五歳以上の高齢者が人口の半数を超え、社会的共同生活の維持が困難な地域)では、Iターンやムラ出身の若者の協力を得て凌いでいるのが現状であり、その形態は本来的なものではなく、祭りや行事の存続は時間の問題のように思う。伝統文化継承の現場では、変更や省略などさまざまな方策が採られるが、総合的抜本的な解決策を慎重に検討すべきである。

 第二に「人」の問題がある。復活継承に成功した事例の多くは、地域社会が伝統的な民俗芸能を大切なものと認識し、どうしても残したいという熱意を持ち続ける「人」が存在していた。伝統文化の継承に関しては、守る人、伝える人、生かす人がいるが、この「人」の存在が最も重要となる。第三には「お金」の問題がある。いずれの民俗芸能の場合も実施にあたっては経費の問題が横たわっている。たとえば出演予算がないという理由で神楽の上演ができない団体もあり、平成の市町村合併で助成金が減額になったという声も聞くし、用具の補修費が不足している団体もある。地域社会がその補修費を負担できないということは、伝統文化継承の上で大きな問題が生じていると言わねばならない。

 本事業の目玉の一つであるインターネット情報「ぐんま地域文化マップ」は、検索機能を充実させてニューアルを果たした。また、二四か所の民俗芸能の詳しい調査報告や民俗芸能・伝統行事一覧を掲載した『ぐんま伝統文化調査報告書』も刊行された。群馬の伝統文化継承事業の試みは、行政の限られた予算をいかにして有効活用するかという知恵の出し方やセクショナリズムの問題、そして民俗芸能の最前線における保存継承に関わる本質的支援のあり方などを考察する上でも、全国に先駆けた重要な試みの一つに位置づけられると思う。(報告書に関する問い合わせ先/群馬県教育文化事業団 〒371-0801前橋市文京町二―二〇―二二、電話027-224-3960)

失われていく意識と組織 〜桑名市・上尾市の祭り行事の継承をめぐって

関 孝夫

 一般論として、無形民俗文化財の伝承者の意識の低下や組織の崩壊によって、その保存が難しくなるのは当然のことである。しかし、これまで10年の傾向と今後の10年を考えると、無形民俗文化財の保護行政は極めて重大な局面と迎えるのではないだろうか。それはいわゆる限界集落だけの問題ではない。ここでは三重県桑名市の桑名石取祭の祭車行事と埼玉県上尾市の大山灯籠行事を例に、失われていく意識・組織と文化財保護について考えてみたい。

 桑名石取祭の祭車行事は、石取祭車と呼ばれる独特な形の祭車で知られ、平成18年度には国指定重要無形民俗文化財に指定された。祭車は、十二張と呼ばれる提灯を高々と掲げ、本体の後部には大きな太鼓と鉦を下げ、この鉦鼓を打ち鳴らすのが大きな特徴であり、地元では「日本一やかましい祭り」を標榜している。

 鉦鼓の打ち鳴らしは、青年会と呼ばれる年齢階梯組織が中心になって行われるが、この組織の参加意識は高い。青年会に入る前の組織を少年会とか少年少女会という。ここに参加する少年たちは、鉦鼓を打ち鳴らす青年会を羨望のまなざしで見つめている。また青年会を卒業した後に加入する中老会も鉦鼓を打ち鳴らす技術は高く、これもまた憧憬の対象となっている。青年を取り仕切る青年連盟は、揃いの衣装から「白半纏」と呼ばれるが、これもまた権威と誇りが感じられる役割となっている。全体的に祭りに参加できるということは一種の特権意識のようにも考えられており、祭りの参加者の意識は極めて高い。

 一方で組織については問題がないとはいえない。参加意識は高いが、町内に担い手が少なくなっているのである。祭りの時期だけ実家に帰って参加したり、近隣市の青年が伝手を頼って「外人部隊」といわれながら参加し、青年会の中心になる事例も見られている。また、こうした問題から祭りの組織の崩壊に対する不安やそれに伴う参加意識の変化について、危惧の念を抱いている人々は少なくない。

 上尾市の大山灯籠行事は、神奈川県伊勢原市の大山阿夫利神社を信仰する代参講・大山講の関連行事として行われてきた。かつては40箇所を超える市内のほとんどの地域で大山灯籠が確認できたが、現在では半減している。大山阿夫利神社の山開きの期間中に大山講の講社の地元で献灯する行事と考えられるが、現在では大山講自体が本来の代参講としての機能がほとんど失われ、大山灯籠の行事だけが残っているという状況である。このため大山灯籠の行事について、実施している人たちは本来の意味を知らなかったり、大山講との関連すら伝承がない例も見られている。

 大山灯籠行事を行っていても、大山講がなくなっている例がほとんどで、町内会、氏子、農家組合など様々な組織に移管されている。場合によっては、代表者がいないような隣近所の班や、ムラ組織の持ち回りといった組織の掌握が難しい例すらある。このように低い意識レベルである上、組織も脆弱であり、減少の状況を見ると今後の展望は厳しいものがある。

 桑名石取祭について、保存団体の意識は高い。しかし、上尾市の大山灯籠行事についてみれば、保存団体の意識はあまり高いとはいえない。こうした意識の低下について、文化財保護行政では、指定や登録を行うということで、当面のカンフル剤というような意味での梃入れは可能であろう。特に地方、市区町村の文化財保護行政で積極的に推進していく施策である。本来の意義が失われても、「文化財」としての評価は、保存団体やその構成員の継承する意識の高揚に有効に働く。また、地域の中で「少なくなった地域の伝統行事」という評価していくというのもよい方法である。

 本来とは異なる「貴重な文化財」「貴重な伝統行事」という新しい意義の登場は、その後の無形民俗文化財の行方に別の意味での問題を抱えることにもなる。しかし、意識低下から消滅の危機を回避するという意味で評価せざるを得ないのではないか。

 次に、組織についてはどうだろうか。これについては一見して活況を呈している桑名石取祭も組織力の低下が否めない。大山灯籠も同様に、将来の方向性については疑問である。

 石取祭は、祭りを行う特権意識が感じられるほどの意識の高さがあるが、地元の組織の崩壊が始まっている。石取祭を行う町内でも、旧市街地で神社のお膝元の旧市街地から、その崩壊は始まっている。小さな町域、実家から離れる若年層、転入者のない現状などが原因である。1町では祭車を維持できなくなる町内、祭りの要である青年会長を「外人部隊」が務めるのも旧市街地である。また、順調に行われるように見えても、祭りの時期だけに実家に戻る子や孫が支えている以上、さらにその子、孫の世代まで、この意識と組織を維持していけるのであろうか。

 大山灯籠の場合はいうまでもなく、既に組織は崩壊し、講自体が無くなって、それに類似する団体に帰属していく方向である。大山灯籠の場合は、それでも伝承地に伝承者がいる。しかし、桑名石取祭の場合、将来は祭車と行事を行う場所だけが残り、これを行う人は町内にいなくなっていくことは考えられる。

 都市の祭りであるから、なんとなく納得してしまうが、民俗芸能に置き換えた場合どうであろう。例えば、三匹獅子舞の伝承地に伝承者がいなくなり、これをまったく異なる地域の人たちが伝承を受け、まったく異なる場所で演じる場合、それは無形民俗文化財といえるであろうか。現実に、学校が主体となって民俗芸能を伝承する場合、必ずしも伝承地と学校の通学区は一致しない。場合によっては、伝承地には伝承者がいなくなり、隣接する地域の伝承者ばかりになってしまうという状況も想定される。こうして考えてみると、無形民俗文化財の伝承地から離れた形で伝承するということの検討も必要となってくる。

 これからの10年のスパンの中で、急速に無形民俗文化財の意識の低下と組織崩壊が起こり、そのあり方が曖昧になっていく可能性が高い。このことについて民俗文化財の保護行政はどのように考え、どのように対応するべきなのか、あまり答えを用意していないように感じている。今、「民俗」や無形民俗文化財の概念自体の考え方も含めて、保護の手法や施策について見直す必要があるのではないか。

伝承の場を見つめる

米田 実

 民俗学の危機がいわれて久しいが、民俗伝承の危機そのものに対しての関心は、学会をはじめとして従前かならずしも高くなかった。ところが、近年植木行宣氏らをはじめとして民俗文化財の保護行政の場にある人々による発言が、まとまったかたちでいくつも出されるようになったことは、伝承の場に直面し、試行錯誤しながら仕事や研究を積み重ねてきた人々の共有する危機感が、きわめて大きなものになっていることの証であろう。民俗文化財は保護行政という枠組みのなかで、幅広い民俗伝承のなかに顕在化するものであるが、そこには民俗伝承一般のかかえる問題、そして民俗文化の特質が特徴的にあらわれているといえよう。

 しかし、現場にあればあるほど、従来の民俗学の視点や、民俗伝承に対する解釈・評価がその保護のためにはあまりに非力であること、場合によっては誤りとなることをも体験的に知っている。共同体として維持されてきた民俗伝承の多くは、「もと」があるものであり、共同体を永続されるためのシステムとして受容され、選択され、変容のうちに今日にいたった極めて歴史的な存在であり、そのような存在であるからこそ、民俗伝承は地域社会にとって「過去を顧みる」ためだけではなく、「未来へ生きる」のために伝承されてきたのであり、今日まで続いてきたのである。保護行政の場では、担い手の「何のためにやっているのか」という問いに対し、それをきちんと示すことがなによりも大切な仕事となるのではないか。そのためには地域史や担い手の歴史認識に対する深い理解がなければならないと考える。

  こんな時期にあって、民俗伝承を糧として学んできた民俗学徒が、民俗伝承はもはや絶えてしまったとでもいうような高みにたち、異文化として解釈することに流れ込んでいくような様相は、一種のディレッタンティズムに見え、むしろ「由緒論」などから社会の構造や人々の心意の変化を明らかにしている近年の近世史研究などに、「民俗」の本質を見る力を感じる。そもそも「柳田民俗学」にしても近代日本における一種の由緒論であった。

 社会の急速な変化に加え「平成の大合併」、折からの不況による地方財政の悪化などによって、民俗文化財の保護をめぐる状況は混沌の度を強めている。残る伝承と絶える伝承がはっきりとしてくる今日、限られた力と時間をどう振り向けていくのかは、現場で働く者だけでなく民俗学徒に課せられた大きな課題である。

地域博物館における民俗継承へのかかわり 〜 萩博物館の場合 〜

萩博物館  清水 満幸

 報告者は、地方都市の博物館に生活文化担当学芸職員として勤務し、地域の民俗の記録、民俗関連情報の集積、それらの資料化、そして展示や各種普及活動を通じて民俗の顕在化にあたっている。また、文化財保護行政にも関わりを持ち、民俗の文化財指定や保護にもあたっている。

 そのような中で、民俗や地域の変容・滅失に直面し、民俗学を学んだ博物館学芸職員として、民俗や地域の継承にどのような貢献ができるかということで日々苦悩していることが、今回の報告の背景にある。

 地域の博物館と学芸職員には、様々な役割が求められる。先ずもって求められるのは、民俗を含め地域の現在を切り取り資料化することであろう。地域の情報センターとしての役割を期待され、最近では民俗継承者において不明・不詳となった民俗の、蓄積資料をもとにした再構築を求められることがしばしばある。

 調査研究を行う機関としての役割も求められ、継承されている民俗について、他所との差異や全国的な位置づけ、更にはそれらについて、民俗学の成果をもとにした一般的な解釈や解説を期待されることがしばしばある。

 また、行政の一部署・機関としての役割も求められる。行政的な課題解決のために、例えば観光・産業・地域振興を進めることを目的とした民俗の翻訳や、民俗継承者において行政の補助制度等を利用する際の調整を試みることも多い。

 民俗や地域を継承していきたいと考える人や団体などから助言を求められることも多く、能力と立場を超えることを認識しつつ、できる限りの対応に努めている。

 萩市においては、報告者が関わってからでも、この20年余の間に様々な民俗の変容が見られた。萩博物館、及びその前身の萩市郷土博物館では、上記の役割を念頭に活動を続け、それら民俗の継承に少なからず関与してきた。例えば、継承される民俗の継続的な記録と資料化を行うことで、継承者における他者の目の意識や記録されることへの意識を喚起した。その結果、継承者において現状の見直しや継承への動機付けが進んだ。また、民俗学の成果を基にした一般的な概説や他所の事例紹介を行うことで、継承者において自身についてある程度の客観視が進み、継承する民俗の意味や意義の再認識が行われた。

 博物館では、民俗継承者の継承に向けての選択を観察、尊重し、例えば結集の場や機会、楽しみを求める心意を汲んで支援するとか、場合によっては囃すことも行ってきた。それらは、継承者と行政の間の橋渡し的な役回りを含め、地域の博物館ならではの民俗継承への関与となった。

 この間の自らの活動を振り返ってみると、地域の博物館が、民俗や地域を継承する上で大変重要な装置になり得るという思いを強く持つ。また、民俗学の成果が、民俗や地域の特徴を浮き彫りにすることに寄与し、継承者にとっての民俗や地域の再認識につながったことも指摘できる。

 ただ残念なことに、民俗継承の装置となり得る博物館や相当施設、担当の学芸職員は極めて少ない。地域に博物館を設置し、民俗を顕在化する学芸職員を配置することが、仕組みとしては調っていない。先ずもって地域の博物館が民俗や地域を継承する装置になり得るという認識が希薄であり、行政内部での位置付けも曖昧なものとなっている。

 文化財保護行政についても然りで、都道府県の文化財保護に関わる部署によっては、民俗担当の職員が配置されていない所もあり、ここでも民俗学の成果が民俗文化財の保護に役立てられない構図が認められる。最も身近に民俗の変容や滅失に直面する市町村においても、それらに対応する部署を設け、職員を配置している所は少ない。

 また文化財保護の現場では、いわゆる優品にあたる民俗の保護で精一杯の感があり、その他大勢にあたる民俗の顕在化や変容を続ける民俗を注視するという姿勢を構えるゆとりを持てないように感じる。

 これらのことについては、監督指導機関からの助言や指導、日本民俗学会としてのコミットを期待したいというのが現場に身を置く人間の正直な心境である。

 地域の生活者であり、かつ地域の博物館の職員である自身の中では、民俗学の目的の一つとして、民俗や地域の継承に寄与することをあげたい。学問として民俗を追求することに止まらず、民俗の継承や再認識を促すような取り組みが話題となるようなことが、今後増えることを期待したい。

無形の民俗の保護をめぐって

長谷川 嘉和

はじめに

 文化財に建造物や美術工芸品の有形文化財と伝統工芸や伝統芸能などの無形文化財があるが、これに準じた考え方(注1)によって、民俗文化財を有形の民俗文化財と無形の民俗文化財に分けるべきではないと考える。もともと重要文化財はモノそのものに価値が具わっており、重要無形文化財は無形の技であって形として残せないものである。ところが、民俗文化財は有形部分と無形部分が不離一体の関係で存在しており、本来分けることは出来ないものである。そうしたことから有形部分か無形部分のどちらかに価値が認められた場合、「民俗文化財」として総体で指定すべきであると考えている。その意味で、国の「民俗文化財伝承・活用等事業」は有形または無形で指定されている場合、その指定から外れたもう一方の無形または有形部分の保存に対しても補助することになっており、「民俗文化財」が有形無形一体のものとする考えに沿ったものと理解している。

 その上で、あえて無形の民俗の保護について問題にするのは、有形部分はものとして残るが、無形部分は放置すれば消えてなくなるからである。文書や録音、映像による記録作成は出来るが、すべてを記録し尽くせるわけではない。たとえば道具を使うコツや物事を察知する感など経験から体得するものは記録から落ちてしまう。長期にわたる修行や鍛錬によって培われるモノは、体得した人から人へ伝えられねばならない。

 現在、民俗文化財の保護で問題となっていることは、@少子化および過疎化による民俗文化財の担い手の減少、A生活様式、生産活動の変化に伴い伝統的な民俗の支持基盤である地域共同体ともいうべき地域社会の崩壊、B伝統食の伝承などがあげられる。世界的な運動となって広まりつつあるスローフード運動、すなわち伝統食の保存伝承が、食の安全や健康志向と関係して重要になりつつある。

1 少子化および過疎化による民俗文化財の担い手の減少

 少子化対策は行政の仕事になっているが、文化財保護の所管からは外れる。芸能の他出を防ぐ目的で長男に限られていた演者の資格が平等主義から男子全般に広がり、少子化に男女同権や男女共同参画も後押しして女子も加わるようになったが、地域へ入って現状を見ると、何も山村に限らず平地農村においても子どもがほとんどいない、小学一年生から六年生まで合わせても数人だけということがめずらしくない。子どもの絶対数が足りない。

 滋賀県彦根市の湖辺のある集落では、同齢組織である「連中」が現存し、宿親と宿子の関係および連中仲間の関係は生涯継続される。戦争直後のある時期には同い年が二〇人以上いた年もあったのが、今では三学年合わせても数人しかいないため連中が組めないでいる。この連中は子どものときは地蔵盆、成人してからは祭りの大太鼓を担ぐ役を担うが、連中が消滅するとムラ行事も変化させざるを得なくなる。

 結婚すると親とは別に暮らすことが田舎でも珍しくなくなって、地域を出て住居を構える。また、挙家離村して町へ移り、田舎には人の住まない空き家が虫食い状態に残されている。そして農村には出産適齢人口が極端に減少している。

 まして山村は、職場までの距離が遠く、交通不便の地にあるため、早くから町へ出て暮らすことが行われてきた。そして、定年を迎えて親の家へ戻るのであったが、町にいるときに生まれた子供は盆正月や祭りのときに親に連れられ帰郷するぐらいで、親の故郷に対してそれほどの愛着を示さず、定年を迎えてもなじみのない故郷へ移住することは見込めない。このため、山村は六〇才以上の高齢者が過半を占めるに至っている。それが限界集落となり、区長(自治会長)を務める人の年齢が七〇歳を越えることも稀でなくなってきた。七〇歳代は地域ではまだ若いとされる。

 こうした地域では、継続されてきた民俗行事を保護することは、すでに行政の枠を越えているが、それを承知の上で、何とか残す手だてを模索しているのが現状である。

 保存の第一は後継者の養成である。一時的にせよ町から移り住んできた新住民の若者など地元の人ではないが、民俗芸能などに関心のある人たちに働きかけて新たな伝承者に加わってもらうことがある。これが民俗行事や民俗芸能を民俗として伝承することに当るのかは議論の生じるところである。もともとは、その地に生まれ、宮座などの出生届を出した子弟が年齢階梯に伴い、順に祭りや芸能の役を務め上げるものであるからである。たんに芸能だけを残すのであれば、プロの芸能集団に習い覚えて伝えてもらえばすむことかもしれないが、はたしてそれは民俗芸能といえるか。

 消極的な保護手法としては、文書や映像による記録がある。廃絶することを想定し、将来復活の参考ともなるべき記録を目指すなら、詳細な記録作成が必要となる(注2)。あちこちから伝え聞く民俗芸能の休廃止が、記録作成を行うのに猶予ならない事態へ至っていることを物語っている。埋蔵文化財と違い、消滅してもどこからも保存運動の声が上がらないのが民俗文化財である。人知れず静かに終焉の時を迎えつつあり、記録作成は一刻の猶予もない時期に至っている。

2 生活様式、生産活動の変化に伴う地域社会の崩壊

 滋賀県教育委員会では、平成十四年度から十八年度まで五か年間をかけて自然~信仰調査を実施した。これは山や大木や岩など自然物に神性を認め、山の神や野の神、水の神などを祭る行事を自然~信仰行事と位置づけた調査事業である。自然~信仰は、ムラ(自然村)よりも小さな単位、組、カイト(垣内)、講などで実施されており、村祭りなどと異なり少人数の合意で簡単に休廃止できるものである。二十一世紀以降、こうした行事は消滅が著しく、調査して記録を保存することで素朴な民俗信仰の実態を把握しようとしたものであるが、併せてつぎのような期待も含んでいた。

 県から委嘱を受けた調査員が現地へ出向いて観察調査をし、その成果がのちに県から刊行する報告書に掲載されると、地元では毎年繰り返してきた、代わり映えのしない行事がそれほど貴重であったのかと、地元民が自らを再認識するきっかけになればよい。こうした行事が継続されている間は地域共同体ともいうべき地域社会がまだ幾分か機能しているとみるべきで、地域共同体を維持するためには、山の神行事などムラビトが互いの顔を見て話をし酒を酌み交わす機会が必要である。そのために民俗信仰(民間信仰)や年中行事などの継続を期待したのである。それで調査の合間に、行事を担っている人へ行事を存続することの重要性を語るようにした。口込みによる広がりを期待したが、はたしてどうであったろうか。

 農村の住民がサラリーマン化し、町の住民と同様、隣人と出会うことなく日常を過ごすようになった。隣が何をやっているかさっぱりわからないこともある。農業の作業形態がすっかり変化し、上の田から順に水を入れて田植えをする必要もなければ、結いや手間借りをして助け合うこともない。農家は自家の都合のよいときに好きなように農業をすればよい時代である。隣近所を気にして過ごす必要はなくなったが、お互いを気に懸けることも薄らいだ。農村でも自分勝手に暮らすことができるようになった。その分失いつつあるものも計り知れないと思われるが、まだ軽重をはかりかねている。

 先に述べた彦根市の同齢組織「連中」は、数え年十三〜十四才の子どもが二学年合同して仲間を組み一人の宿親を決める。その後、入り婿した人もたいていが同齢者の組へ加えてもらう。仮親と子ども、仲間同士は実の親兄弟と変わらぬほどのつきあいを生涯続ける。ところが近年は、遠方の私立高校へ入学したのを理由に連中から脱会した例があるという。連中として助け合う仲間の絆より、ムラ行事などに出役することをわずらわしく感じる時代になった。

 ところで国は重要無形民俗文化財の指定とは別に「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」を毎年いくつか選択している。指定と選択とはどこで線引きされているのかよく承知していないが、ここでは選択に限定し、とりわけ県域を越えた選択について考えてみたい。

 選択された無形の民俗文化財は、そのほとんどが都道府県内で伝承されているもので、たいてい地名を冠した名称になっている。わずかに複数都道府県にまたがるものがあり、もっとも古いものは、昭和二十九年十一月に選択された「正月行事」と「年齢階梯制」である。以後昭和三十三年まで「木地屋の生活伝承」「田植に関する習俗」「背負運搬習俗」「狩猟習俗」「傀儡子の舞及び相撲」「おしらあそび」と続くが、そのあと約二〇年あけて昭和五十二年に「盆行事」となる。ここまでが頭に地名の付いてない選択で、その多くは十県近くにまたがる。昭和六〇年に「白山麓の焼畑習俗」、平成二年に「南奥羽の水祝儀」、同三年「関東の大凧揚げ習俗」、同四年「東海地方の大凧揚げ習俗」、同六年「山陰の大凧揚げ習俗」、同十二年「北関東のササガミ習俗」とある地域に限定した選択が続き、これ以後は県域を越えた選択がなされていない。「イタコの習俗」「紡織習俗」「水車習俗」「火鑚習俗」「辻堂の習俗」「焼畑習俗」「漁撈習俗」などは地域を限定して県ごとに選択されている。

 昭和五〇年の文化財保護法改正で重要無形民俗文化財の指定が可能になり、毎年指定と選択が続けられているが、指定と選択が同じスタンスで行われているように見える。その結果、一度選択したものが指定に格上げ?されることもあり、選択は「准指定」とみなされる。

 ところで、選択して記録作成すべきものは上記のような習俗だけで完了したのであろうか。山の神や田の神行事、葬送儀礼や祖霊祭祀、墓制なども急速に変化消滅の一途にある。記録保存すべきテーマは全国に限りなくあるのに、こうした広域的なテーマなぜ避けられているのであろうか。四七都道府県すべてで実施された、「民俗資料緊急調査」(昭和三十七年度〜三十九年度)、「民俗文化財分布調査」(昭和四十九年度〜昭和五十九年度)の成果はどの程度生かされているのであろうか。また、すでに選択された「正月行事」以下、地名を冠していない諸習俗の所在地となっている都道府県はどのような根拠で選ばれたのか、そのほかの都道府県にもそれぞれに地域的特色を持った習俗があると思われるがそれらは都道府県で対応するべきとされているのであろうか。

3 伝統食の伝承

 ファーストフードの急激な広がりに危機感を懐きイタリアで始まったスローライフ・スローフードの運動は今や世界的規模になった。滋賀県では、平成六年度から八年度まで三か年をかけて県内六三地点での伝統食調査を試みた。その結果判明したことの一つに、伝統食を自ら調理して食べるのは高齢者に限られ、三世代家族の場合、若夫婦と孫たちが好むメニューは洋風化した肉中心の料理で、年寄りが作る伝統食には手を付けないという話者の嘆きであった。このまま推移すれば、十年後あるいは二十年後には伝統食の調理法を伝承している人たちがほとんど姿を消すことが予測された。

 伝統食は、一時期に集中して大量に収穫される食材をいかにおいしく食べるかから生み出され、祖先以来工夫と改良を繰り返してきた食生活の知恵の結晶ともいうべきものである。これを何としても消滅させてはいけない。滋賀県では、少しでも伝承をはかるために平成十年六月十九日付けで「滋賀の食文化財ー湖魚のなれずし、湖魚の佃煮、丁稚羊羹、日野菜漬、アメノイオ御飯ー」を無形の民俗文化財に選択した。

 「滋賀の食文化財」だけでは内容がわかりにくいので、あとに滋賀県の代表的な伝統食を象徴的にメニューとして示したので、意図するところはすべての伝統食の保存伝承にある。なれずしでは鮒鮓が一般的に知られているが、フナ以外にもアユ、モロコ、ハス、ウグイなどもなれずしにする。また、川魚をあえて湖魚と称し、琵琶湖水系の魚介を煮炊きして、また大豆などとたき合わせて食べる習俗がある。湖辺に住み着いた人々は、石山貝塚や粟津湖底遺跡に見られるように、古くから琵琶湖の魚貝を食用としてきた。近江商人と関係つけて説明される丁稚羊羹は滋賀県の菓子の代表であり、日野菜漬は地名の付いた漬物の代表例である。アメノイオ御飯は、琵琶湖固有種であるビワマスの炊き込み御飯のことで、マス飯などとも呼ばれるが、文化財に選択したときは一部の人にしか知られていなかった。

 しかし、食文化が文化財になったことに対する驚きは予想以上に大きく、当時まだ珍しかったカラー写真で一面に掲載した新聞もあり、多方面からのこれに対する問い合わせや取材はその後五年間続いた。

 滋賀の食文化財を若い世代へ伝えるために中学校と高校の家庭科(食物)担当教員を対象にこの五品について調理講習会を二班に分けて二年間行った。また、小学五年生用の家庭科の副読本に一頁を割いて紹介されるなど次第に広がりを見せている。民間団体の滋賀の食事文化研究会では依頼があれば会員を伝統食調理の講師として無料で学校の授業や調理講習会へ派遣し、公民館などで開催される調理教室でも食文化財が取り上げられるようになってきた。かつて大勢の人が集まるときなどに作られたアメノイオご飯は、五品の代表例で唯一商品化されていない調理であったが、これをメニューに加えたレストランが誕生し、最近東京のテレビ番組で取り上げられるなど、浸透がはかられている。

4 民俗文化財保護とその波及効果

 民俗文化財保護の問題は、過疎の農村だけではない。都市祭礼として行われている大規模な祭りにおいても課題を抱えている。ドーナツ化現象により市街地が空洞化し、夜間人口が減少する。店舗兼住居であったのを店舗だけにして、住民は郊外へ転居し、元の住居へ通勤する。京都祇園祭では、ほとんど住民のいない鉾町が生じているという。滋賀県長浜曳山祭でも曳山をもつ町内へ移り住むと、入居に際し町組へ払う負担金が必要で、自治会費とは別に祭礼経費が戸数割りで掛かる。このため、転出する人はあっても新たに転入するひとはほとんどないという。祭りを支える人口が徐々に減少し高齢化しつつある。

 都市の大規模な祭礼は、観光行事となっていて集客力があることから観光サイドからの助成もあり、中断することは許されない。むしろ、さらに観光化されていくことが懸念される。

 たとえば、三重県桑名市の石取り祭りは、鉦や大太鼓を力一杯打ち鳴らすことで知られているが、祭りの途中で太鼓の皮を破った場合、応急措置をして祭りが続けられるように、短時間で仮修理をする優れた太鼓屋が桑名市およびその周辺には存在するという。また、桑名市周辺にも石取り祭りが数多く存在する。このように祭りが継続されていることは太鼓屋も廃業することなく継続できることを示している。

 こうした祭りを維持するには、それを裏で支える塗師、錺師、指物師、扇師などといったさまざまな職人や伝統産業が必要となる。祭りに参加する人の衣裳、祭りに使用する楽器、小道具、大道具(大きい物では山・鉾・屋台・神輿など)に至るまで新調もしくは修理する技術が備わってなければならない。蒔絵師の技術を保存するには優れた蒔絵筆を製作する筆師がおり、筆師へはよい毛を供給する必要があるが、彦根市芹川あたりで捕獲されたネズミの毛がよいとされ、ネズミを捕ってなめしておく、というふうに職人たちが用いる用具や材料の供給が連鎖的につながっており、そのうちのどれが欠けてもいけない。毎年新調する物から数年もしくは数十年間使用に耐える物まで、つねに需要に応える体制がバックヤードにあって始めて祭りは執行できるのである。

 祭礼を保存することがそれにまつわる諸職、いわゆる民俗技術の保存に結びついており、こうした相関関係は文化財保護の上から重要視すべきで、伝統産業全体へ及ぼす波及効果は少なくないといえよう。

《注》

(1)文化財保護法では、当初、民俗資料は有形文化財、民俗芸能は無形文化財に含まれていたのが、昭和五〇年の法改正で民俗文化財に統合されたことから、有形の民俗文化財と無形の民俗文化財に分けて指定する条文になったと考えられる。現在も無形の民俗文化財を無形文化財と誤記されることは珍しくなく、一般の人にとって、「重要無形民俗文化財」と「重要無形文化財」とはほとんど区別が付かない。その違いを説明できる人はごくわずかといえよう。

(2)滋賀県では、民俗芸能や民俗行事の映像記録を作成する場合、踊りの場面や行事の次第だけでなく、準備段階の縄の結び方から祭り用具の製作方法、踊り衣装の着付けの手順まですべてを撮影するようにしている。このため完成した映像作品が数十時間に及ぶこともある。

《参考文献》

  • 長谷川嘉和 二〇〇三 「その後の滋賀の食文化財ー無形民俗文化財に選択して以後ー」『滋賀の食事文化』第一二号
  • 文化庁文化財部伝統文化課 二〇〇八 『無形文化財民俗文化財文化財保存技術指定等一覧』