第839回談話会発表要旨(2009年1月11日)

シリーズ・さらば「民俗学」―新しい《民俗学》の再構築に向けて―(2)

概要

 日本民俗学会と海外諸国の民俗研究者や団体との国際交流の実現に向けて、国際交流担当理事企画によるシリーズの第2回目の報告を行います。フィンランドとロシアの民俗学を取りあげます。本学会は海外との本格的な国際交流を進める方針を決め、今期理事会から、そのための海外情報を積極的に会員に提供すべく、談話会の機会を利用して発表報告を企画しています。今後も引き続き、海外民俗学事情に関する発表報告の企画を考えていますが、原則として来年度からは、国際交流担当企画による独自の発表報告会として、談話会とは別の機会に行う予定にしております。みなさんの積極的なご参加をお願いいたします。 (国際交流担当理事・渡邊欣雄)

フィンランド民俗学における言語・人種・宗教 − ポスト・コロニアル/ジェンダー批評の視点から

岩竹 美加子(ヘルシンキ大学)

 フィンランド語がフィン・ウゴル語という非印欧語に属すことから、フィンランドは言語的にヨーロッパの他者である。シュレーゲルやフンボルトなどの19世紀言語学者は、世界の言語を屈折語(印欧語)と膠着語(セム語、またフィン・ウゴル語もこの部類に入る)に分断し、前者を理性的であり、科学的、芸術的表現に適した言語として、後者を科学的レベルに未到達であり、神話的、機械的な言語として構築した。さらに、言語・文化・人種の一致という19世紀的理解からは、印欧語の話者 は「アーリア人」、非印欧語の話者は「非アーリア人」という分類がされる。フィンランド人は「非アーリア系」、「モンゴロイド系」民族などとして、差別的視線に置かれた。

 フィンランドでのフィン・ウゴル語及び文化研究は、こうした19世紀的な比較印欧語研究、文献学的知の枠組みを内部化し、その延長上に構築された。サイードが『オリエンタリズム』で示したように、ヨーロッパ中心主義は文献学的知に根ざしているが、フィン・ウゴル語、文化研究はその知に立脚している。

 フィンランド民俗学の金字塔的存在として叙事詩『カレワラ』(1835,1849)がある。それは、エリアス・レンロット(Elias Lönnrot 1802-1884)が1828年から1845年にかけて、総計11回、現在フィンランドと国境を接するロシア領のカレリアを訪れ、土地の人たちから収集した詩歌を編纂したものである。『カレワラ』は、フィン・ウゴルのグループの中でも、フィンランドと地理的、言語的に近いカレリアに向ける関心の集成である。フィンランドは、12世紀頃から1809年までスウェーデンの一部であり、1809年から1917年まではロシアの自治大公国だった経緯がある。独立に向ける思いの中で、国民国家が必要とする独自の歴史を持っていないことは重大な問題であったが、『カレワラ』を太古に遡るフィンランドの神話的、シャマニズム的過去を語ると位置づけることによってそれは解決された。

 ロシア領のカレリアはロシア正教の地であり、福音ルーテル派のフィンランドにとって宗教的には他者であるのだが、フィンランド文化揺籃の地、「フォークロアと『カレワラ』のふるさと」などとして想像され、牧歌的、美しいなどの意味づけがされてきた。また、すでにレンロットの時代から、「大フィンランド」という拡張主義の思想が存在し、それは1920年代から1944年までの間、フィン・ウゴル語の話者をソ連の圧政から解放、フィンランドの旗印の下への統一を目指す政治的運動に発展した。そのより直接的な目的は、カレリアのフィンランドへの統合であり、フィンランド人研究者による『カレワラ』の軍事的解釈とフィンランドの軍事政策は一致していた。

 カレリアの視覚的表象で中心となってきたのは、ロシア正教の墓地、墓のかたわらで慟哭する女、老人、自然の風景である。フィンランドとカレリアの関係のジェンダー化は19世紀末には始まっている。カレリアには婚礼や葬式の時に女性が慟哭する習慣があったが、民俗学的関心の対象となったのは、婚礼よりも死に際しての慟哭である。研究者のカテゴリーで「哭きうた(itkuvirsi)」と呼ばれる、「泣き女(itkijä [nainen])による慟哭は、近代的な自己抑制のない感情の噴出であり、女性的な文化を表象するものとなった。『カレワラ』(英雄的叙事詩、フィンランド)の男性化と「哭きうた」(死の儀礼、滅びる、カレリア)の女性化という植民地主義的ジェンダー化が起こったが、そこには日本と日本統治下の韓国とも似た関係を見ることができる。たとえば、柳宗悦が韓国の民芸を(さらに韓国を)女性として語り、嘆く、滅びるなどの言葉を使って対象化したことは批判されている。

 フィン・ウゴルはヨーロッパの過去なのだが、フィランド語・文化・人はその中では先進である。フィンランドは、フィン・ウゴル的世界(民俗、前近代、未開)とヨーロッパ的世界(文明)の仲介者であり、『カレワラ』など限られたチャンネルを通してシャマニズム的、神話的過去と繋がって、自己の近代性を確保している。フィン・ウゴル的世界は両義的で、自己であり他者、過去であり現在、周縁であり中心といった矛盾した意味あいを持つ。

 民俗(学)は国民国家(或いはネイション)の制度の一つであり、さらに自己の近代性を確定し、差異を創出するため構造的に他者を創出する仕組みでもあると考えられる。近代が植民地主義的近代(colonial modernity)である以上、民俗学的知識にも不均衡な力関係が刻まれる。ここで示した視点から、フィンランドと日本の民俗学の間に類似を見ることも可能である。日本もフィンランドも共に、西欧により前近代、ヨーロッパの過去などと位置づけられたが、他者を創出することによって自己の近代性を確保した。日本のポストコロニアル批評は、日本が西欧的植民地主義的知識と実践を内部化、再生産したことに対する批判の視点を持つ。その視点からは、フィンランド民俗学的知も批判の対象となるだろう。さらに、ここで論じたことは必ずしもフィンランド民俗学に限ったことではなく、他の民俗学にも通じる問題である可能性がある。ここでは、国民国家(或いはネイション)の制度として、共に超えるべき問題を考えるというスタンスからフィンランド民俗学の一端を示した。

ロシア民俗学の歴史と特色

コジューリナ・エレーナ(慶應義塾大学大学院社会学研究科研究生)

はじめに

 「民俗学」はロシア語には「フォリクロリスチカ」(フォークロアを研究する学問)と訳される。一九世紀の終わりにヨーロッパから取り入れられた「フォークロア」の概念は、長い間、民衆の言語と芸能の伝承という意味で理解されていた。日本の民俗学研究が含む信仰や習俗は、ロシアでは、エスノロジーの領域に入っていた。ソビエト時代には、フォリクロリスチカはやはり民間文芸を研究する学問として言語学と文芸学の枠組みにおいて位置付けられていた。しかし、フォリクロリスチカの特殊性とエスノロジーとの密接な関連性を強調していたソ連の学者もいた。

 ソビエト時代は、フォークロア理解の方法論的根拠を形成するのは、マルクス・レーニン学説だとされていて、史的唯物論の見地からの研究しか認められていなかったというのも特徴的である。

 ロシアの民俗学は、固有の理論と方法論を形成し、文芸学の方法論も広く取り入れてきた。そのエスノロジーとの繋がりもだんだん強くなってきて、現代においてのフォリクロリスチカの学問は日本の民俗学に近い形で存在していると言える。さらに、歴史分類的や構造分類的アプローチ、記号論と民族言語学という現代的な方法が取り入れられている。

最初の採録と研究

 ロシアフォークロアの研究・採録史は、一八世紀の半ばに遡る。この頃には、知識階級の関心は、スラヴ地域だけでなく、世界各地の民衆の伝統文化や俗信に向けられ、神話事典のようなものがたくさん出版された。一八世紀の半ばから一九世紀の初めにかけて出版された様々な採録集の大部分はまだ民俗学的なものではなく、改作や創作を加えたものだった。

フォークロア研究の展開

ブィリーナ(ロシア英雄叙事詩と民謡)

 1804年に『キルシャ・ダニーロフ集』という本格的にブィリーナと民謡を集めたものが初めて出版された。十八世紀の60年代にウラル地方か西シベリアで採録された作品が含まれている。キルシャ・ダニーロフというウラル地方出身者が作ったものと言われる。1830年代から1850年代にかけてP.V.キレエフスキーによってブィリーナをも含むロシア民謡などのフォークロア資料の収集が行われた。その成果は『キレエフスキー収集の民謡集』(1860‐1874)に収められている。民謡は民俗学者だけでなく、音楽学者や文学者にも注目されてきたが、民俗学研究の特徴は歌の歌われる場や行事・儀礼などとの関係を重視することであった。

昔話

 ロシア昔話を始めとして民俗学資料と口承文芸資料の本格的な収集を初めて行ったのは1845年に創設されたロシア地理学協会である。協会の呼びかけに答えて、全国各地の様々な職業の人々が資料を送ってきた。収集の結果は、ロシア昔話の最初の学術的資料集、『ロシア民衆昔話』(全八分冊、A.N.アファナーシェフ編)(1855‐1858)の出版だった。一九世紀の後半には、ロシア地理学協会の他にも、人類学会、民族学会や郷土誌研究会のようなフォークロア関係の組織が設立された。ロシア昔話、特に魔法昔話という分類の研究者で、ロシアの中だけでなく、世界的に有名なのは、V.Ya.プロップ(1895‐1970)である。彼は魔法昔話の登場人物の行為を単位にして物語の分析を行い、すべての魔法昔話の構造が一つであると結論付けた。その構造はイニシエーションやシャーマンの儀礼における異界への旅を意味し、話の起源もそういう儀礼に求めるべきと主張した。

革命運動と民俗学

 1837年に、内務大臣ブルードフが「すべての県や地方都市がそれぞれ通報を発行し、そこに歴史、文学などの記事のための非公式の欄を設けるよう」と指示した。その指示に答えて、例えば、北ロシアのオローネツ県では『オローネツ通報』が刊行されるようになった。最初に『通報』の刊行を担当したのは、オローネツ県のペトロザヴォーツク市に政治犯の罪で流刑されていたS.A.ラエフスキーだった。十九世紀の50年代から60年代にかけて、ロシアの革命運動が特に活発になったため、庶民の習慣やフォークロアを研究することで、民衆の考え方を理解しようとする試みが行われていた。『祖国雑記』『ロシア通報』などの雑誌に様々な県の民衆の世帯風俗を報告する一連の記事が掲載された。革命運動に関わっていたP.N.ルィブニコフも反政府的な活動に参加していたという罪でペトロザヴォーツク市に流刑された。彼はその地で官僚として勤めていて、地方官司になることができた。職務で地方を巡回すると同時に、昔の風習やフォークロアの採録活動も行い、四冊からなる採録集を発表した。その出版はフォークロアの研究者たちにセンセーションを巻き起こし、オロネッツ県の村々に大勢の研究者が赴いた。

一九世紀のフォークロア研究の学派

神話学派:ロシアフォークロアはインド・ヨーロッパ語族に共通した古代神話と史実が合わさってできた神話の残存物

借用・伝来学派:ロシアフォークロアは西欧と東洋の民族から借用したものか、伝来したもの

歴史学派:ロシアフォークロアはロシア民族の歴史を反映したもの

現在のロシアフォークロア研究の方向性

 蓄積されたフォークロア資料の公刊

 古い資料集の再出版やコンピュータによる分析を基に分類と索引作り調査

 フォークロアの地域的差を明らかにする研究

参考文献一覧

  • 赤坂憲雄 2000『海の精神史―柳田国男の発生』小学館
  • 井桁貞敏 1974『ロシア民衆文学』(上・中・下)三省堂
  • 伊東一郎編 2005『ロシアフォークロアの世界』群像社
  • 大木伸一編 1967『ロシアの民俗学』岩崎美術社
  • 貝澤哉 2008『引き裂かれた祝祭―バフチン・ナボコフ・ロシア文化』論創社
  • 加藤九祚 1976『天の蛇 : ニコライ・ネフスキーの生涯』河出書房新社
  • N.クラフツォフ編 1979『口承文芸―ロシヤ』(中田甫訳)ジャパンパブリッシャーズ
  • 桑野隆 2002『バフチン : (対話)そして(解放の笑い)』岩波書店
  • 齊藤君子 2008「ロシア口承文芸学の現在の課題」【シンポジウム】『声・歌・ことばの力―口承文芸および学会の使命と今後―』日本口承文芸学会第三二回大会での発表
  • 坂内徳明 1991『ロシア文化の基層』 日本エディタースクール出版部

インターネットサイト

  • フォークロアとポストフォークロア:構造、分類、記号論:http://www.ruthenia.ru/folklore/ (2009年1月8日アクセス)