第841回談話会発表要旨(2009年5月10日)

2008年度 民俗学関係修士論文発表会

屋号と地域社会―近江の事例を中心に

柿本 雅美(佛教大学大学院)

 屋号とは屋敷を含めた「家」に対する、集落内のみで通用する家の呼称で、苗字の他に自家と他家を区別する。屋号はしだいに失われつつあるのが現状であるが、今日でも使用している地域も少なくない。

 これまで、屋号そのものについての研究はあまり行なわれておらず、屋号と地域社会を結びつけた研究も少ない。屋号の成立については、集落内に同苗字の家が多いため、これを区別するために成立したという説が一般的であるが、その論拠は薄弱であることが言える。これは、屋号の成立を概括的に論じようとするために生じる問題で、まずは具体的な実態から分析する必要があると考えられる。屋号は地域よってさまざまな性格や特徴、働きを持っているため、屋号を通して見えてくるものも地域によって異なるからである。本 発表では、屋号の成立から近現代に至る成立過程を検討し、分類にしたがって、屋号の成立について考察を行なった。さらに、家の呼称としての屋号と苗字の関係性を明らかにし、屋号がなぜ現在も使用されるのかということについても検討した。本発表では屋号を一般論的に扱うのではなく、屋号の分類に基づいて屋号を分析した。

 屋号の特徴を明確にするために、近江を事例として山村の甲賀市土山町大河原、湖岸の農村・高島市マキノ町知内、街道の町・愛荘町沓掛という全く性格の異なった3地域の事例を取り上げた。その上で、地域社会の中で屋号はどのように使用され、継承されているのか、地域社会における屋号のあり方を論じた。

 屋号の由来や命名に基づいた分析の結果、先祖の名前を使用したと考えられる「祖名屋号」、商売をしていたときの店名や商号が屋号となった「商売屋号」、従事していた職業に依拠した「職業屋号」、小字名などの地名を使用した「地名屋号」、本家・分家関係を示す「系譜屋号」、家印が屋号となった「家印屋号」、苗字が屋号となった「苗字屋号」に分類することができた。その結果、近江における主たる屋号は祖名屋号であることがわかった。また屋号の特徴として、屋号がいずれも屋敷ではなく、家の系譜につくという点である。家が転出、または断絶すると屋号は失われ、村内での移動の際には屋号を持って動く。また屋号の継承は、家督相続と同様にその家に受け継がれていく。

 祖名屋号はその成立を遡れば、近世における通名であると考えられる。通名は家督相続の際に襲名する名前であり、苗字にも比肩されるもので系譜を示すべき名前であった。近代になって、明治政府は近代的中央政権国家確立のために、平民に苗字を必称する義務を負わせ、通名の襲名も許さなかった。しかし、通名は家名としての役割や意味を持ち続け、祖名屋号として継承されている。そして、現在の祖名屋号と同じ民俗的意味を有していることがわかった。系譜を示す名前であった通名が屋号となったからこそ、近江の屋号は屋敷ではなく、家の系譜を指すものとして伝承されてきたといえよう。

 本発表で分析した地域において、苗字ではなく屋号が主に家を指す呼称として現在も使用されていることから、地域社会においては、苗字よりも屋号の方がより家を指す呼称として認識されていることが言える。苗字を公称できるようになったからと言って、家を指す呼称である屋号が生活の中で充分に定着していたため、わざわざ苗字に変更されることはなかったと推測できる。つまり、屋号を使用することで家を十分に特定できたため、新たに設けられた家の名の苗字を使用する必要はなかったということになる。

 苗字が家の呼称として常用されることによって、屋号は衰退してしまい、その替わりに苗字が家の名として認識されるようになった。以上のことから、先に屋号という家の呼称があり、あとから苗字という呼称ができたとすれば、同苗字や異苗字が多数あっても関係ない。苗字が家の呼称として一般化し定着すれば、屋号は衰退していくのだろう。同苗字が多い地域では苗字による家の特定が困難なため、苗字が家の呼称として定着しない。つまり、同苗字の家が多いため、苗字が家の呼称となり得ないのだ。

 苗字の必称によって、まず屋号に代わる家の呼称が誕生した。それまで重用されてきた屋号に加えて、苗字も家を示す呼称として使用されるようになったのである。苗字を使用し始めた時点で、屋号はいずれ衰退する可能性を持ったと言える。苗字の必称が実施されないままであったならば、近世において通名や屋号を有していた村落においては、現在でも広く屋号が使用されていたことが推測できる。苗字の必称によって、屋号は家を特定する役割、苗字に譲渡することになったと言えるのではないだろうか。

 そして、現代において屋号が使用され、必要とされるのは、これまで屋号研究で指摘されてきたように、同苗字をもつ家が多い村落において、それぞれの家々を区別するといった働きが挙げられる。これに加えて、屋号を使用することで、地域社会における人と人の繋がりを堅固にし、保持するという働きを持つためである。

松会を行うことと語ること―ある重要無形民俗文化財をめぐる言説と実践―

中村 琢(福岡大学人文科学研究科)

 私が調査を行った等覚寺地区は、福岡県京都郡苅田町の西端、北九州市小倉南区との境界付近、平尾台北東部から平野部の山口地区にかけての標高250〜500メートルの台地斜面に位置する。

 等覚寺地区は、現在は地名として残るのみであるが、地区全体が寺であった。そのため、明治維新のときに還俗するまで、地区の住人の全員が「坊号」を持っていた。宗派は天台宗修験であった。等覚寺地区が、天台宗修験に属していたころから続くと言える特徴的な儀礼が、等覚寺の松会である。

 等覚寺の松会は、数種類の「所作」と呼ばれる演目を行う言わば複合的な儀礼である。近年の内容は、流鏑馬、獅子舞、鬼会、お田植行事、鉞舞、長刀舞、幣切りである。現在の等覚寺の松会の中で、最も重要と言える「所作」は、精進潔斎して臨まなければならない「施主盛一掾vが担う幣切りであろう。

 ところで、この松会という行事が行われていた地域は、等覚寺ばかりではなかった。「豊前六峰」と呼ばれる英彦山を中心として、その周囲に展開する、求菩提山、檜原山、松尾山、蔵持山、等覚寺のある普智山において伝承されてきたとされる。「豊前六峰」には、福智山という山もあったとされるが、福智山には松会を伝承していたという記録は全く残っていない。現在でも、「豊前六峰」の各地区には、松会の断片とされるお田植行事や武具を用いた舞などが残されている。とくに、等覚寺地区は、こうした松会の要素の中でも、お田植え行事、長刀舞、幣切りを残しており、珍しいとされた。

 こうした松会の原型とされたのが、「豊前六峰」の中心である英彦山に伝えられてきた、江戸時代に書かれた「英彦山大権現祭礼松会之図」、通称、「彦山絵巻」などと言われる絵巻であった。研究史の中では、1970年代の後半に、この「彦山絵巻」を元に、各地区に残された松会の断片をつなぎ合わせると、松会の姿が明らかになるのではないかという仮設が示された。

 幣切りを残す等覚寺の松会は、1998年に、国の重要無形民俗文化財に指定された。この指定に前後して、等覚寺の松会は、苅田町による文化財行政の指導の下、変化していた。お田植行事に含まれる楽打ち(平成14年から)、鉞舞が(平成8年から)「復興」するとして加えられていたのである。これは、まさに先に挙げた「学問言説」の仮設であった「彦山絵巻」を豊前の松会の原型として捉えようとする試みを実践した事例といえよう。この「復興」は、等覚寺の松会の「民俗」の視点から見るといびつな「復興」である。なぜなら、等覚寺の松会の中では、少なくとも現在の段階では、伝承していなかったと言えるからである。そのため、この「復興」を知った当初の私は、この文化財行政の下における「復興」を、「真正」な等覚寺の松会の伝承を狂わせる「ニセモノ」作りを行っていると、批判的に見るようになっていた。しかしながら、さまざまな記録から、等覚寺の松会の変遷を見てみると、意外なことに、文化財行政の介入なしにも、さまざまな変化を経てきたことが明らかになってきた。代表的なものが、鬼会である。この鬼会は、そもそも近世期まで、寺社であった等覚寺において正月に行われていた修正会の結願の儀礼として行われていたものである。この鬼会を、等覚寺地区の住人が松会の中に「復興」していたのである。

 こうした状況を踏まえると、「真正」な等覚寺の松会と、「民俗文化」にはなかった、文化財行政による「学問言説」による「復興」とを比較し、批判的に見ることが容易ではなくなってくる。むしろ、「民俗文化」というものが、時代状況などを踏まえながら、常に変化していくということをもっと自然に受け容れざるを得なくなってくるのである。しかし、この変化は、慣習などに由来する一定の制約を受けている。こうしたことから、私は、変化を前提に、ブルデューの「ハビトゥス」概念を下に、「民俗文化」を見ていく他はないと考えるに至った。この「ハビトゥス」概念を「民俗文化」に当てはめると、「民俗文化」に対し、原型を定め、固定的に見ることが難しくなる。つまり、「民俗文化」は、時代状況などに応じて、常に変化するものということになるからである。

 ジェームズ・クリフォードは、「近代」が本質的なもの、起源というものを崩壊させたという「消滅の語り」という従来のまなざしに対し、「生成の物語」というまなざしを提案した。つまり、「近代」という時代状況に合せて、「生成」しているという見方も可能なのではないかと述べるのである。こうした「生成の物語」といったことを踏まえ、等覚寺の松会のような伝統的な民俗儀礼を見るならば、儀礼は、消滅していくのではなく、各時代状況に合せながら、「生成」し、変化していると言えるのである。

祭りにおけるジェンダーの動態―本郷地区の祭りをめぐる実践より―

河口 綾香(福岡大学大学院人文科学研究科社会・文化論専攻修士課程)

 北部九州の祭りでは女人禁制の習俗が見られる。女人禁制とは、女性の生理的特質を忌みと称して祭場や聖地などの特定の空間への立入りを禁じるものであるが、このような習俗が残る一方、今日祭りを取り囲む環境は大きく変化している。特に少子化による担い手不足は祭りの存続を難しいものにしており、女性を参加させることで存続を図る地域も増えている。しかし、女性は従来祭りに参加を許されなかったのであり、女性の参加の過程には様々な葛藤や努力が見られる。性(gender)に関する選択は多様性を持っており、一概に男女平等などの理由で女性の祭りへの参加を捉えることに懐疑的である。

 また、調査者や記者という存在は、調査地の人々にとっては異質な他者である。我々は調査や取材という名目で普段入ることの出来ない領域に踏み込むこともあるが、女性調査者にとって女人禁制をはじめとする性の問題は避けて通れない問題である。

 女性と祭りに関する研究の多くは、宗教や社会構造の面から女性の不平等性を指摘する研究や、沖縄の女性祭祀などに焦点が当てられてきた。また、研究対象も多くが地域の女性であり、女性調査者を対象として分析したものは少ない。

 本論文は、地域の女性がいかにして性が関わってくる領域へ参加(越境)していくのか、また、外部者(特に女性調査者)の性がどのように扱われ、性が関わってくる領域を越境していくのか、福岡県みやま市瀬高町本郷という一地域社会全体の枠組みの中で描くことによって新たな視点からの性に関する民族誌の構築を試みるものである。

 まず、本郷における対人関係の在り方に注目すると、そこには二つの「ウチ」「ヨソ」「ソト」の使い分けと「加点方式の対人評価システム」が存在している。「ウチ」の人間だけではなく、嫁や養子や転入者といった「ヨソ」や「ソト」も、本郷におけるしきたりや暗黙事項を学び実践すること(=「本郷すること」)で「ウチ」の人間(=「本郷人」)として位置付けられるのである。しかし、近年「ウチ」の「ヨソ」化ないし「ソト」化、「ヨソ」の更なる「ヨソ」化が増加し、祭りへの不参加や存続の危機を招いている。「本郷人」にとって祭りは、単なる「収穫感謝」や「年一度の伝説の親子の対面」といった祭りの由来にとどまらず、祭りは「ウチ」の人間を認識するための場であり、祭りに参加することは家や男たちにとって名誉の象徴なのである。祭りの衰退は「ウチ」の人間を認識する手段の消失だけではなく、「本郷」という共同体及び「本郷」という秩序の在り方の崩壊を意味している。こうした共同体の危機に対して人々は「まちづくり」という近代的実践を用いて崩壊しつつある秩序を回復しようとしていた。人々が語り、実践する行為と意味が「近代」の意味を含みつつも「伝統性」を流用した形で地域の秩序を再生産している点で、彼らの取り組みは「伝統」の再生産であり、男性社会の再生産といえる。しかし、それは女性運動家らが指摘するような差別構造の再生産ではなく、「伝統」/「近代」という、相反する原理を用いつつも、手探りで共同体の危機に対処しようとしていた姿であった。しかし、それでも限界が生じ、2009年より神輿を子どもに引かせる案が出された。これは従来祭りに参加できなかった者、特に女の性を持つ者が参加(越境)することを意味している。しかし、その越境の対象は「女性」ではなく「女の子」であること、祭りを続けるためにやむを得ず越境させるのであって「男女平等」という女性の自立を念頭に置いたものではなかった。また、越境の場は「まつり」と認識される場のみで、「神事」の場ではなく、開放される場の管轄も、宮座組織=「伝統」ではなく、「まちづくり」という(「伝統」を内包した)「近代」的な組織であった。こうした二重性を帯びた「公共圏」の成立の中で「ウチ」の女性は越境していくのである。

 次に、外部者(筆者)の性の扱いに注目する。調査地の人々と祭りに関する経験を共有することで、筆者は「福大の女ん子」という完全な外部者から、性別が抜け落ちた「調査者」と位置付けられ特定の領域への越境を許される存在となった。しかし、更なる経験の共有に加え私的領域での交流が進み「ウチ」化することで「本郷公認の調査者」の位置を得る一方で「ウチ」の論理を実践すべき者(=「河口綾香」)として見る視点が発生した。時と場面と相対する人によって筆者を捉える視点が複合し、特定の領域への越境が許可/制限される現象が起こっている。更に、行政やマスメディアなどの外部者の性の扱いに注目し、そこでは外部者が持つ権力性/非権力性、内部性/外部性、「伝統」/「近代」などの要素が複雑に関係していることが見出せる。

 性の境界は、当事者と地域の人々が各々に持つ様々な社会的要素がぶつかり合う相互交渉の中で動態的に変化しているのである。

祭囃子の民俗学的研究

高久 舞(國學院大學大学院文学研究科)

 芸能は、衣食住などのように、生命を維持するために欠かせないというものではない。しかし、芸能は私達の生活の中に過去から現在に至るまで形を変えながらも存在している。いったい芸能とは人々の生活においてどのような役割を担っているのであろうか。こうした問題意識を持ちながら、芸能の変遷を辿っていこうと思っているが、修士論文で江戸祭囃子を取り上げたのは、伝承している団体数が多いこと、近代以降に発展してきた芸能であるため変遷を辿りやすいと考えたからである。

 しかし、実際に江戸祭囃子を研究していくにつれ、伝承されている系譜や技法についての文献資料は乏しく、団体ごとの口伝や実際の音からその系譜を遡っていかなくてはならないことが明確となった。従来も、江戸祭囃子を体系的に研究しようとする試みはみられ、その系統分けが行われてきた。その際に指針の一つのとなっていたのが、江戸祭囃子の流派を中心としての類型化であった。しかし流派の関係は必ずしも明確ではなく、同じ流派でもアレンジの違いだけとは言い難い差異がみられる。そのため同じ流派を一括りにして考えることは、かえって系統を明らかにしていくうえで、大きな障害となっているのではないかと思われた。そこで江戸祭囃子の変遷過程を追い、その系統を明らかにするために、伝播に着目しつつ、流派の系統について考えようと思う。

 江戸祭囃子の伝播の特徴は、一つの系統にいくつかの経路が存在していることである。一子相伝のように直系的ではなく、幾つかの系統が派生し、分派して伝播している。だがこうした江戸祭囃子の伝播の過程は、三つのケースに整理することができる。

 まずケース(1)は、習得した囃子を地元で広めるものである。多くの囃子連は隣村の一箇所ほどに伝えているに過ぎない。東京都内の囃子連の多くはこのケースである。

 ケース(2)は、地元に広めるだけでなく、更にその周辺にも広める場合である。その際特定の人物もしくは囃子連が大きな影響力を持つ場合があり、一気に囃子が広まっていく現象も見られる。

 ケース(3)は、同じ師匠から習い覚え、継承を明らかであるケース2に相当するにも関わらず、囃子の内容と流派名のどちらか一方のみが変化して伝播する場合がある。違う流派を名乗っていても演奏の内容が同様であったり、同じ流派を名乗っていても演奏の内容が異なったりする囃子連である。

 ケース(3)のような現象がなぜ起きるのかを探るために、東京都八王子市の祭囃子を取り上げた。八王子市では、目黒流を名乗る囃子連が非常に多い。その要因として挙げられるのが町における目黒流に対するステイタスである。かつて町の山車で演奏していたのは、近郊農村の囃子連であった。「表の五町は皆目黒。裏町は知らず」という言葉が残っており、当時は表町と呼ばれていた町のみが目黒流の囃子連を乗せることが許されていた。こうした規制がなくなってからも八王子市の人々の目黒流に対する認識は残っており、自らの町が豊かであることを主張しようとして、目黒流を名乗る囃子連が多いのだと思われる。

 このように八王子市では、祭囃子は町会の顔であり他の町会に対抗するための役割を担っていたように思われる。つまり少なくとも八王子市においては、流派は音楽の類型としてだけではなく、自らのステイタスを象徴するような人々の認識と深く関わっている。そのため、ケース(3)のように、違う流派を名乗っていても、演奏の内容は同じであったり、同じ流派であっても演奏の内容が異なっていたりしている。

 三つのケースから、留意すべき点を二点挙げたい。
まず、伝播伝承の過程において伝承者に意識されている演者が存在することである。今回挙げた祭囃子では集団性だけでなく特定の個人名が重要視され、飛躍的に発展するきっかけとなっていた。芸能における優れた演者へのまなざしと記憶のもつ意味を改めて問い直す必要があるのではないだろうか。

 二点目は流派に対する人々の認識である。流派は伝播の過程で自分達のアイデンティティーを確立するためにより強く意識されていったのだと考えられる。流派を意識することはどのような意味があるのか、流派意識が在地化されていった過程を祭囃子から探っていくことができるのではないだろうか。

 祭囃子は単に習得した囃子をそのまま伝承しているのではなく、個人や地域のあり方によって音曲的にも変化し、それに流派名が加わることによって、そのあり方は更に複雑になっていく。そのため、祭囃子を研究するためには流派だけに捉われるのではなく、音曲などの囃子の内容をもう一度解体して捉えなおす必要があると思われる。音楽の類型と同じレベルで流派を捉えるだけでは、祭囃子の全体像は見えてこないと考えるからである。それと共に流派に対する人々の認識の点からも、祭囃子を捉えなおす必要があると思われる。

 芸能はそのまま伝承されていくのではなく、継承されながらも一部は創造され、一部は失われる。今後は人々の認識や認識の変化がどのように投影されているか探りながら、芸能の変遷を辿っていきたいと思う。

冥婚習俗の台日比較研究

孫 瑩珊(國學院大學文学研究科)

 冥婚とは、死者と死者、または死者と生死者との結婚である。この習俗は中国大陸、台湾、日本、韓国などで行われており、本研究はそのうちの台湾と日本の冥婚習俗についての比較研究を行い、それぞれにおける冥婚の特色を明らかにすることを目的としている。今回の発表では、台湾の冥婚習俗を取り上げ、日本との若干の比較を行いながら、台湾における冥婚の特色や死者祭祀について明らかにした。

 台湾で行われている冥婚を、当事者である男女の生前の関係と、その男女の生死を基準に分類、類型化すると、当事者の男女は、生前にはまったくの他人同士で、しかも男性が生者で女性が未婚死者の場合が顕著である。つまり、未婚女性の死者が生きている男性と結婚をするという型が一般的であることが判明し、こうした冥婚に到る経緯としては、(1)死者が親族の夢枕を立って結婚願望を告げた場合。(2)原因不明の病気や事業の失敗などの障害が家や男性に起こり、その原因が未婚女性死者にあると考えたり、宗教的職能者から未婚女性死者の障りだと判定されたりしたことによる。(3)占い師に運勢を見てもらい「二人の妻を娶る運命」などの判断による。(4)婚約・恋愛関係にある男女の両方あるいは一方が死亡したことによる。冥婚の事由としては、夢や障り(祟り)、運勢判断、さらに未婚者への憐憫などが主なもので、(1)(2)などの場合には、冥婚相手を探すときに遺族たちは金品や豪邸の写真などを赤い熨斗袋に入れて道路に放置し、これを拾った男性を年齢や婚姻状態を問わずに未婚女性死者と結婚してもらう方法などがとられている。

 台湾の冥婚研究は、従来、冥婚の儀礼が中心であったが、発表では、冥婚習俗のもっとも重要な点は、これによって家族関係が変化したり、祭祀されてない死者霊が祖先祭祀の対象者の一員に加えられたりすることであることを指摘した。冥婚による家族関係の変化というのは、死者為大≠フ思考に基づき、男性が既婚者である場合には冥婚による女性死者が前妻として扱われたり、男性は生きている妻との間にできた子どもの一人を、冥婚をした女性死者の養子とする場合があったりするということである。子どもの1人が冥婚をした女性死者の養子となるのは、その子どもによる祭祀が継続的に行われることを意味する。

 台湾における理想の死とは、結婚して子どもをもうけ、高齢となって死亡することである。よって未婚女性の死はこうした倫理からの逸脱と考えられている。男性の場合は、未婚者であっても死亡した場合には家での祭祀は行われるが、未婚女性の場合は、不潔なものとして位牌が家屋の最も目立たない場所に置かれたり、位牌を宗教施設や納骨塔へ送り出されたりしている。つまり、冥婚が未婚女性死者に多いのは、父系社会、儒教的男権社会における死者祭祀、祖先祭祀の規範が基盤となっているといえる。

 未婚女性死者の位牌が宗教施設や納骨塔へ送られるというのは、こうした家から排除された未婚女性の死者霊が、「不潔」の象徴から「聖」に転化し、女神として祭られる場合があるからである。それは「姑娘廟」「仙姑廟」「仙女廟」「聖媽廟」「有應媽廟」「大衆媽廟」などと呼ばれる道教廟宇の存在である。「姑娘廟」「仙姑廟」「仙女廟」は単一の女性神を祭り、「聖媽廟」「有應媽廟」「大衆媽廟」は、多くの場合、複数の女性死者を共同的に祭っている。

 単一の未婚女性神の廟宇は、その建立経緯を六つに整理できる。(1)未婚女性の障りが原因で神として祭られるようになった障り型。(2)生まれた時から既に一般の人々と違う特異な体質や能力を持つ女性が未婚のまま亡くなって女神として祭られる帯仙(仏)骨型。(3)死亡した未婚女性が誰かの夢に顕れて廟を建って欲しい≠ニ告げる夢見型。(4)自分の若くして死んだ娘を不憫に思って廟宇を建立するという不憫型。(5)洪水などの災害で漂着してきた遺体や位牌をもとに建てられた遺体・位牌漂着型廟。(6)未婚女性が生前または死後に人々を助けたり、幸せな生活を齎したりしたことで、廟宇を建立して感謝する功績記念型。こうした6つの経緯があるが、いずれも未婚女性死者を神として祭るのは適切な祭祀を貰えない恐ろしい未婚女性死者の魂への恐怖を土台にしている。

 発表の最後に、台湾と日本の冥婚習俗についての比較を行った。沖縄では何らかの関係を持つ、ともに死者である男女の冥婚が行われているだけで、この型は台湾にもあり、台湾の冥婚は沖縄に比べて多様である。また、日本の東北地方では男性死者の冥婚が多く、しかも冥婚は人形や絵馬などの形をとっており、沖縄や台湾とはまったく異なっている。冥婚の目的は、台湾・日本とも慰霊解冤や祖霊昇格で一致しているが、台湾では冥婚によって死者霊が祖霊へ転化するという意識が強い。また、冥婚には台湾と日本とも宗教的職能者の介在が共通して見られ、冥婚儀礼については、沖縄では女性死者の位牌または遺骨を男性側へ移転する傾向があるのに対し、台湾では位牌のみ移動となっている。冥婚を行う当事者については、台湾と東北地方は同じく若者による冥婚が中心であるのに対し、沖縄では離婚した女性が、年月を経て先夫のもとへ戻るような冥婚となっている。性別に関しては、台湾と沖縄は、女性死者が多いのに対し、東北地方では男性死者の冥婚が多い、などが指摘できる。

盆における諸精霊の祀り方について―神奈川県下の「砂盛り」習俗を中心に―

倉金 聡美(成城大学大学院 文学研究科)

 神奈川県下の特徴的な民俗のひとつに、「盆の砂盛り習俗」がある。「砂盛り」は屋内の盆棚とは別に、カドグチに作られる小さい土壇で、この傍らで迎え火・送り火が焚かれる。現在はおおむね「先祖を迎える場所」と言われていることが多いが、何のために作るのかはっきりと伝承されているわけではない。

 先行研究では、「砂盛り」は古い形式の盆棚の一種であり、かつては無縁仏のための祭壇であったのではないかという点について論じられてきた。しかし「砂盛り」が古い習俗で、無縁仏の祭場であったとするには論拠となる事例が乏しく、断言はできないのが現状である。

 本研究は、新たに県内各事例の検討や「砂盛り」の分析を行い、また県外の盆行事との比較を通して、「砂盛り」習俗の特徴や性質を捉えることを目的とし、さらに「砂盛り」を通じ精霊の祀り方について一考察を試みたものである。

 「砂盛り」の主な形状は、30〜40センチ四方、高さ20センチ程度に土砂を盛り固めたもので、壇上にオガラや線香、竹筒を立てたり花を挿したりする。さらにナスとキュウリで作った牛馬と、里芋の葉にサイの目に切ったナスをのせたものを置くのが一般的とされている。形状や呼称は県下の各地によって若干の差異があるが、この「砂盛り」の傍らで迎え火・送り火が焚かれることは県下で共通している。

 これまでの研究では、「砂を盛り固めて土壇を作る」ということは「砂盛り」の基本的な定義であり、そのため神奈川県の中でも「砂盛り」をしない、しかし類例が見られるとされてきた地域がある。三浦市や藤沢市や茅ヶ崎市の一部で、盛り固めるというほど砂を盛り上げない、あるいは砂を全く使用せずに地面に直接花などを挿すという事例である。しかしこの点を除けば、設ける場所も使用するものも「砂盛り」とほぼ同じであり、同種類のものと考えられる。本研究では広義の「砂盛り」として、砂を用いない事例をも含めて「砂盛り」を再検討してみた。

 では、そうした「砂盛り」を構成するものの中で、必要な要素とは何か。「牛馬」「花」「線香」などの項目に分け、各市町村史や筆者の調査をもとに、何がよく見られる要素なのかを比較した。その結果、一般的とされているナスとキュウリの牛馬は県東部に多く、県西部ではあまり見られなかった。一方で線香はほぼ全ての「砂盛り」に用いられ、造花・生花、そしてオガラも同等の扱いをするものとして含めるならば、花もまたほぼ県全域で使用されていた。「砂を盛る」ことを度外視するならば、「砂盛り」に重要な要素とは、花および線香であるといえるのではないか。

 また、「砂盛り」の伝承や儀礼などを比較すると、現在の県下の「砂盛り」には、若干異なった次の2つの性質が見受けられる。ひとつは、通過点としての役割が強い「砂盛り」である。神奈川県内の大部分で見られるもので、「砂盛り」の上にナスとキュウリの牛馬が置かれていることが多い。仏は迎え火を目印に訪れ、この場所で牛馬に乗って屋内の盆棚へやってくるといい、「砂盛り」はあくまで一時的な休憩所である。その一方で、何らかの精霊を祀る場としての「砂盛り」が秦野市などで見られる。この地域では牛馬が「砂盛り」の上に置かれることはほぼない。しかし、盆の期間中は毎夕近所の家の「砂盛り」に線香をあげて回ったり、毎日供え物をしたりと、ここに宿る何かを祭祀している性格が強いといえる。

 県外の盆行事を見ていくと、カドグチでの祭祀は精霊迎えと結びついており、本仏・無縁仏を含めて外から訪れる精霊が祀られるものである。無縁仏の祭祀については、屋外で祀る事例は比較的西日本に多く見られる。

 特に、静岡県で広く行われている「花立て」の習俗に注目したい。これは庭先や玄関先などに生花やシキミ、サカキの枝などを挿した竹筒を立てたもので、線香立てや供え物が付随することもある。花を立てるという点、この前で迎え火を焚くという点は「砂盛り」と共通している。そしてこの「花立て」や「花立て」の前の供え物は、無縁仏のものとされる所が比較的多く見られるのは、注意すべき点である。

 まとめると、「砂盛り」は盆にやってくる精霊を迎えるためにカドグチで行われる祭祀の一種であり、その構成からは「迎え火を焚く場所に花を立て、線香を上げる」場所という側面がうかがえる。これは静岡県の「花立て」との類似しており、そう考えるならば「砂盛り」もかつては無縁仏の祭場であったのではないかと推測できるが、それを示す事例は少なく断定は難しい。神奈川県内の「砂盛り」の現状を見るに、現在はその意味合いに若干の差異が認められ、無縁仏の祭壇に近いものが見受けられる地域もある、といえる程度である。また、県下の「砂盛り」の差異を変化や伝播の過程と見ることは難しい。砂を盛ることが付属的な要素であるとして、「花を立てる」習俗が先にあり、何らかの要因によって砂が後に付加されたものであるという可能性について、今後は考えてみたい。

 「砂盛り」の発生や普及に関与したものがあるかという点の調査と、全国の盆行事の詳しい検討、特に「花立て」との関連についてはより詳細に調査や分析を進めるべきであり、これからの課題である。加えて、今まで「砂盛り」にだけ着目され行われてこなかった、盆行事の流れを踏まえた「砂盛り」の調査をする必要があるだろう。

墓地の変容にみる死をめぐる感覚と心意

岡田 真帆(筑波大学大学院人文社会科学研究科)

 1990年代以降、民俗学では人の感覚を文化的に分析する取り組みが行われている。これまで“個人の感情”として研究対象から切り離してきた分野に文化の介在を認め、集団に共有化され、集合化された感性として捉えなおす試みである。民俗学の墓制研究は、両墓制研究を筆頭にして展開してきた。現在の両墓制研究は石塔や土地区画を基準にもち、人びとの信仰的側面を正面から取り上げることは少ない。しかし従来の両墓制研究がその根幹に据えてきた「死穢忌避」観念は、明確に議論されないまま、暗黙裡に成立要因として掲げられてきた経緯がある。

 「死穢忌避」観念について、高取正男は論考のなかで概念の再検討を訴える。この「死穢忌避」観念をもう一度紐解くと、歴史的に形成された「死穢を忌む思想」と「本源的な死の畏怖」とが一つの観念に入り混ぜられて、研究に使用されてきた問題点が浮き上がる。従来の「死穢忌避」観念に埋没していた「本源的な死の畏怖」を発掘し、墓制から見つめ直す作業が必要である。これにより、墓制を取り巻く感覚の存在が明らかとなり、心意の領域へ結実する調査研究が可能となる。本稿は以上の点から、墓制を通して心意を明らかにする研究姿勢を提言する。墓制と人々の精神文化を切り離す見方が強まるなか、日常生活の次元から実態として死をめぐる感覚が墓制に存在することを明らかにしたい。

 本稿は香川県観音寺市柞田町大畑地区と室本町室本地区を調査対象地とする。かつて両地区は両墓制を営み、昭和50年代以前まで土葬が行われていた。現在は火葬が導入され、埋葬地には石塔が林立する。土葬時期にはオセッポウや肝試しなどの慣習が行われ、埋葬墓地が利用されていた。オセッポウは村落の少年団が行う慣習であり、悪戯をした子供が罰として埋葬地へ肝試しに行かされる。埋葬墓地のサンマイは石塔墓地よりも「恐ろしい」とされている。“恐ろしさ”には、埋葬墓地の自然環境や景観、埋葬されているという意識が働く。火葬が導入されると埋葬墓地に石塔が林立するようになり、恐怖心も薄れていく。百々手神事や御門弓神事と呼ばれる神事の場面では、災いが起きないようにと配慮された「死の穢れ」が特に注意される。

 土葬から火葬へと葬制が変化すると、ナノカマイリなどの慣習が行われなくなった。ナノカマイリは埋葬後1週間、毎晩埋葬した場所を遺族が訪れる慣習である。これは土葬時期の死者の死亡を確認する意味があり、火葬の導入によって“死”の在り方が変化したことを明らかにする。土葬時期には墓参りや墓掃除に、埋葬場所を記憶することが行われた。埋葬された死者は個別性をもって人びとに記憶されていった。火葬が導入された現在は、かつての埋葬場所にその死者の実名を刻んだ記念碑的石塔を建てる現象が起きている。

 以上の論を踏まえると「死の穢れ」と「恐ろしい」という感覚は、まったく異なる性質を持つことが指摘できる。「死の穢れ」の根底には災厄を不安に思う意図があり、血縁や日数などの人為的な基準によって把握される。理知的であり、人為的に操作あるいは制御することができる性質を持つ。対して「恐ろしい」という感覚は直感的であり、人為的に操作することができない。村落社会において育まれてきた感性であり、埋葬墓地を“恐ろしい”とする。土葬から火葬へと移り変わり、墓地が変容するとその“恐ろしさ”も身を潜めていった。土葬時期の混沌とした埋葬墓地の状態から整地された「きれい」な状態へと墓地が転化したことが要因の一つである。

 また葬制の変化によって、死者の在り方が変化した。土葬時期の死者は曖昧な“死”の状態があり、死がはっきりとしない「不確定な時間」が存在する。土葬時期には身体性と個別性を帯びていた死者も、火葬導入以降、その性格が希薄となった。火葬導入後の死者は埋葬墓地において、あまり存在感を持たなくなった。その一方ですでに埋葬された遺骸に対する執着は高まりを見せている。この執着の高まりは、それまで地盤としてあった、遺骸に身体性と個別性を認める“死”の在り方が作用していると考えられる。

 “恐ろしい”という感覚は、土葬時期の両墓制において実態として存在する。埋葬墓地と石塔墓地は日常生活の行動のうえで、明確に区別される。“恐ろしい”という感覚は村落に共有される感性であり、日常生活において涵養されていく。葬制による“死”の在り方が“恐ろしい”という感覚を支え、それが日常生活において発現する契機となる。“恐ろしい”という感覚は、「本源的な死の畏怖」に位置づけられるものである。土葬時期の埋葬墓地には特定の“死”をめぐる感覚があり、心意の視点から探求することが求められる。墓制には“死”をめぐる感覚が、現実の日々の生活のなかに存在している。本稿はこの実在する感性を認めることから始め、心意研究への第一歩としたい。

現代の通過儀礼−成人式を事例として−

久保田 恵友(佛教大学大学院文学研究科)

 現在日本において、一月第二月曜日(二〇〇〇年以前は、一月一五日)の「成人の日」に行われている、記念式典である「成人式」は多くの人が人生(一生)において一度のこととして、着飾って参加をしている。また、これと正反対に、この日を特別に祝うことがない、式典には参加をしないという人たちも勿論存在している。

 一見当たり前に行われていて、古い伝統に則ったような儀礼として見られる「成人式」だが、その歴史はまだ誕生してから六〇年も経っていない。多くの人が参加をする「成人式」とは、どのような儀礼なのだろうか。そこで成人式の前史、成立に関する動き、成立して以降を時系列に概観し、成人式は「通過儀礼」なのかということを考察することを本研究の目的とする。成人式は人の一生でどのような通過点なのか、どのような関わりを持っているのかということから、現在の通過儀礼としての成人式はどのような儀礼であるのかということを論じる。

 本論考の対象地域は京都市と旧本能学区を挙げることとし、調査方法として成人式について論者が設定した幾つかの項目を質問としたアンケート方式による調査、そして旧本能学区での聞き取り調査を行った。

 成人式はこれまで主題として研究された数は少ないが、それについて言及した研究者の多くは、それまでの成年式が時代を経て変化したものという扱いをしているが、しかし論者はそれは違うのではないだろうかと考える。それは成人式が成立をした成立過程が、戦後に民間で自発的に行われた複合儀礼を母体とし、少し遅れて国で議論がなされて決定がされた祝日と合体し、その祝日のうちで記念式典として行う式典礼として出発したものであるからである。

 つまり、これまで行われてきた成年式という儀礼の現在における状況について理解をする場合に、従来の通過儀礼の「変化」・「変容」・「持続」、もしくは「生成」・「変容」・「消滅」という言葉で説明することはできるであろう。しかし、本論文で述べた成人式という儀礼については、それだけにとどまらず新たな通過儀礼の「作出」ということを考える必要があるのではないだろうか。「作出」ということは、「それまでの民俗行事を、一つの雛型としている、もしくは全く異なった経緯等から生み出され、現在人生儀礼として定着をしているもの」ということで語句を設定しており、成人式の場合これに当るのではないであろうか。

 以上を踏まえて、成人式とは「戦後通過儀礼」であるとしたい。戦後通過儀礼とはそれまでの通過儀礼を離れた、現代社会を生きる人々にとっての新たな通過儀礼である。

 このことから、成人式という戦後に新たな生み出された儀礼はそれまでの通過儀礼的要素は有している。しかし、それまで行なわれてきた成年式などと異なり、様々な要素が混在し年中行事とも習合した、言うなれば戦後通過儀礼というべき儀礼であると考えられる。

世間話の役割と場の機能−怪異譚を中心とした民俗学的一考察−

嶋野 安耶(神奈川大学大学院)

 本論文では、怪異譚を事例とした世間話が、人々にとってどのような役割を果しているのか、またそれらが話される場にはどのような機能があるのかについて考察を試みている。

 具体的な方法としては、調査地を神奈川県相模原市に選定し、アンケート調査によって同地域に在住している人々から「相模原における怪異の話」を収集し、それを世代別・新旧住民別に分析することで傾向を探った。その結果、話の内容とその伝達経路について新旧住民による違いはほとんど見られず、世代間において大きな違いがあることが明らかとなった。また話の内容には、それを話す人々の置かれている時代背景が反映されていると言えた。

 次に、話の役割に関しても世代ごとに違いがある可能性を踏まえ、各世代の人々にアプローチを試みこの点について考察を行った。その結果、どの世代においても同じ怪異譚を共有する人々によってある集団が形成され、また下位世代では怪異譚がある集団の結束力を強固にする役割を果していると考えられた。

 以上のことを考察するにあたり、この他にも世代と話の関係性がいくつか明らかになった。まず1つ目は、上位世代の人々がそれらの話を聞いた頃には、話に何らかのメッセージ要素が加えられて下位世代に伝えられていることが多く、話そのものに意味があったと言える。しかし世代が下るにつれ、それらは同世代を中心として伝達されることが多くなり、話そのものではなく、「話をする」という行為が意味を持ち始めたと考えられる。伝達経路について、上位世代では話が大人から子どもへと伝えられ、それは世代を超えて「伝承」されていたと言えるが、下位世代になるほどそれらは同世代間のみ、またメディアを媒体として伝えられることが多くなり、空間的に話が伝えられていく「伝播」のかたちがとられるようになる。中には下位世代から上位世代へといった、「逆の伝承」が行われる場合があることも明らかとなった。

 2つ目は、これらの話が伝達される場の違いについてである。上位世代では年中行事や儀礼といった「ハレ」の場が選ばれることがあったが、下位世代では人々の日常生活上に位置付けられる「ケ」の場が一般的であった。

 そして3つ目はもうひとつの「場」の問題として、話に登場する対象としての「場」が人々にどのようにとらえられているのかについてである。今回収集した「相模原における怪異の話」は、実は相模原だけでなく、そこに登場する地名や人物名が変更されることで日本中、もしくは世界中に流布しているものがあり、その対象は入れかえ可能な不特定なものであると言えた。しかしそれを信じて話す人々にとって、それはまぎれもなく相模原の「ある場所」において起きた怪異であり、特定性の強いものであった。このように対象としての「場」という視点から世間話を見ると、それは世代に関わらず、不特定な場所について語る昔話と特定な場所について語る伝説の中間的な位置付けになるのではないかと考えられた。

 また怪異の伝達される場には世代による違いがあるという点から、それらが話されていた「ハレ」の場として秋祭りの休憩場所、「ケ」の場として公園を例に挙げ、それらの機能について考察を行った。その結果、かつての「ハレ」の場は世代や所属を超えた人々が交流をはかる場として機能していたが、現在においては何らかの共通点を持った同世代のみの交流の場となっていることが明らかとなった。また「ケ」の場として例を挙げた公園には、時間帯によって異なる目的を持った様々な世代の人々が集まってくるが、ここでも世代を超えた交流はなく、何らかの共通点を持った同世代の人々が交流をはかる場となっていた。このように、現在の「ハレ」と「ケ」の場において話される話や人々の行動には大きな違いが見られなくなり、どちらも排他性のある同様な機能を持つ空間になりつつあると言えた。

 こうしたことから、話が世代を超えて伝わらない理由として、話にその世代の置かれている時代背景が反映されていることと、どのような場においても異世代間の交流が少なくなっていることが考えられる。今後も異世代間における交流がなくなり続けるのであれば、話が下位世代へ口頭で伝えられることがなくなってしまうかもしれない。しかし現代においてはメディア、特にインターネットの普及により、全世界で同じ情報を瞬時に共有することが可能となるため、今後口頭による伝達とは異なる方法で話が世代を超えて伝えられていく可能性がある。こうした方法の場合、インターネット上で見知らぬ者同士が話を共有することがあるため、新たにその役割について考えていかなければならない。

 以上の点から、今後の民俗学におけるハナシの研究には、インターネットなどメディアによる伝達について考察することが必要不可欠となるだろう。

怪談の形成―「怪」と「談」の様相と実践―

田村 真実(筑波大学大学院人文社会科学研究科)

 本論の目的は、怪談を「談」の視点から捉え、怪談が多様なメディアの中で、時代や社会、人々の間で立ち現れる様相を明らかにし、怪談の共有について考察することである。本論のキーワードである「形成」という言葉には、怪談が生成される過程と、怪談の共有化という2つのプロセスを捉えようとする意図がある。後者においては、従来の怪談を扱った研究においては十分に分析されてこなかった。例えば、柳田國男や今野円輔によって怪談の話題となっている現象を対象とした心意の研究が行われ、学校の怪談研究は学校制度がもたらす緊張の緩和に生成の背景を扱ったものである。これらは、怪談が語られる「場」についての具体的な分析に乏しい。怪談が何故語られ、どのように共有されているのかといった問題は、時代相やメディアも視野に入れて怪談を捉える必要があると考える。

 そこで、「口承」研究の視座から高木史人(「怪談の階段」一柳廣孝編『「学校の怪談」はささやく』、青弓社、2005年)が提示した「談」という概念を拡大し、怪談を「怪」と「談」に区分し、「談」の視点から怪談が共有されていく過程を検討した。高木の概念はある一時点における「口承」の観点から捉えた話の動態であるが、怪談が共有される過程には書物や電子メディアなど様々な伝達手段があると考えられる点、また怪談を共有する人々の背後にある時代相や社会を具体的に捉えるべき点をふまえ、以下のように定義した。

 「怪」は、不思議や怪しいといった人々の認識上に現れる観念的事象を指す。「談」は、対面的・非対面的コミュニケーションによって「怪」が共有される過程である。対面的コミュニケーションは、ある一定のグループ内で共時的に行われる。顔を向き合わせて相手の顔を見ながら話すことにより、豊かな感情の動きが生まれ、一体感を持って「怪」が共有されていく、双方向的なコミュニケーションである。非対面的なものは、写本や木版・活版印刷、電子メディアといった「書かれたもの」や、資料館における展示を介して行われるコミュニケーションである。このような「談」の観点からの共有を考えるにあたって、書かれた怪談である〈稲生物怪録〉を対象に、「談」の各時代における具体的な様相を考察した。さらに、新潟県十日町市松代地区における企画展示を通した「談」の実践を行い、調査者を含めた当地域の怪談についての「談」が如何に展開するかを検討した。

 〈稲生物怪録〉は、三次藩(現在の広島県三次市三次町)の武士の子息である稲生平太郎(武太夫)の屋敷に怪異が起こった話が、江戸中期以降に起承転結を備えた物語として成立した書物の怪談である。江戸後期から現代に至るまで、書物・講談・出版物といったメディアで伝えられる中で、それぞれの時代相を反映して怪異・武勇・郷土・妖怪といった「談」が生じた。また共通する「談」(武勇)も、戦時下の戦意高揚や情操教育、地域の起爆剤など内容の違いがある。また、取り上げられる書物が異なり、時代が下るにつれて書物の一部である妖怪画を元に「談」が展開する。「書かれた怪談」の多様な受容のあり方と、話に対する意識が多様に変化していることがわかる。

 新潟県十日町市松代地区における「談」の実践では、「妻有地域の怪談」の展示を行うことで「怪」の共有化がどのように行われるのか、研究者と作家、観覧者の「談」の2点で捉えた。前者は、何を「怪」とみなすかという点で相違が生じ、両者で一致しなかった。また後者のうち、展示を見た地域住民は「怪」の提示によって、過去に聞いた話を思い出し、新たな「談」として再生すること、実感のこもった「怪」が再認識され、繰り返し認知されていることがうかがえた。地域外から来た観覧者は、展示全体に関する「談」、筆者の解説に関する「談」、話に関する「談」が生まれていた。展示による「談」では、怖がりつつも面白い、親しみがあるという「妻有の怪談」が形成された。展示による「談」の実践からは、地元の人々と地域外の人が如何に対話を図っていくかという現代農村問題につながる可能性を秘めている。対話を積み重ねることで、地域の人々が自身の生活を見直し、新たな側面を見出すことにつなげていく実践的方法としての「談」である。また一方で、これは研究者が切り取った「民俗」が如何に作用するかという問題もはらんでいる。常に自分自身の立場を明確にしつつ、対話の中で、どのような共有を図っていくべきかを自覚的に検討して進める必要がある。

 怪談は人や時代層によって様々に捉えられ、それぞれの「談」が重なり合うことによって形成され、共有化されている。共有する人々は「談」の中で恐怖したり、半信半疑で聞いたり、学問的関心を持ったり、誇りを見出したりと多様なまなざしをもって怪談を捉えているのである。

生人形と衛生博覧会 −『人体』をめぐる技術と視線−

竹原 明理(大阪大学大学院文学研究科)

 大正〜昭和初期にかけて、衛生について国民を啓蒙する衛生博覧会(衛生展覧会)が全国規模で開催された。人体解剖模型やムラージュ、標本といった人体や病気に関する展示のほか、衣食住、さらには動物に関わる多くの展示が行われていた。一方、生人形とは、生身の人間そっくりに作られた等身大の人形である。幕末・安政年間に勃興し、主に都市における見世物として伝説や神話、事件など、文字や口承で民間に広まっていたさまざまな話を複数体の人形を組み合わせて立体的に物語化して見せ、明治中頃まで流行を喫したが、次第に見世物としては低迷し、博覧会や博物館、百貨店における展示装置として用いられていくようになった。

 さて、衛生博覧会を扱った小説や先行研究において、生人形と衛生博覧会は人体解剖模型を軸として、ほとんどがエロ・グロのイメージで描かれてきた。明治初頭に生人形師が人体解剖模型製作に関わったことや、見世物興行でしばしば裸体の生人形が出たこと、「胎内十月」という女性の妊娠の像を生人形を用いて見せたことなどがこのようなイメージを喚起していると思われる。しかし、従来の研究において、その後、医療器械業者の台頭によって生人形と人体解剖模型の医学方面での技術的な関連性が終息を迎えたことは問題とされておらず、実際に生人形が衛生博覧会の中でどのような展示装置として機能していたのかなどは検討されてこなかった。また、生人形研究において衛生博覧会を正面から取りあげたものはない。

 このような状況をふまえて、修士論文では、生人形と衛生博覧会の関係性を問い直す試みを行う。まず、生人形師による人体解剖模型製作の社会的意味を検討し、また、見世物としての人体解剖模型が生人形の延長線上にあるものとして観衆に受け止められつつも、教育的な言葉が附されていくことで、生人形とは差別化されていくさまを明らかにし、衛生博覧会の前史の様子を探る。また、生人形師が義足や義耳を製作したことにも触れ、近代において生人形製作技術が多様な広がりを持ちながらも、実用的でないという限界から継続的な実践とはならなかったと考える。こうしたことから、衛生博覧会が開催される頃には、生人形製作技術の医学方面での展開は見られなくなっていた。衛生博覧会は、人体解剖模型などの出品によって中心的な展示を支えた医療器械業者の存在なしに語ることはできない。

 だが、大正・昭和初期に衛生博覧会が開催されるにあたって、生人形が無関係となったわけではない。生人形は衛生を視覚化するため、特に人体解剖模型やムラージュが示した人体の様相を補完する展示装置として、さまざまな人体像を観衆に提示する役割を果たしていた。それは、必ずしも従来言われてきたようなエロ・グロの様相ばかりではない。不衛生な人体像(トラホームの感染経路、性病患者など)の展示もある一方で、衛生的に模範的な人体像(衛生的衣服の紹介、夫婦・家族像、トラホームの予防法、育児方法、正しい姿勢、髪の結い方、医療現場など)の展示もあった。これら生人形を使用した展示こそ、病気の状態や予防法など医学的な情報を示すだけでなく、人間の属性による衛生/不衛生を可視化する装置として機能していたといえる。

 戦後に入る頃には、衛生博覧会はほとんど開催されなくなるが、防犯の展示と組み合わさることで衛生の展示は啓蒙というよりもより見世物性を強めたものとなる。次第に見世物興行社が介入し、官製のものとは様相が異なったエロ・グロの要素が強い展示が行われていく。こうした見世物興行としての衛生博覧会では、性犯罪や性病といった性に特化した展示に生人形が用いられた。だが、ここでの生人形は衛生や防犯を啓蒙するというものではなく、見世物興行を盛り上げるための装置としてであり、生人形師がこのような人形ばかりを製作していたわけではないことをここでは強調しておきたい。

 衛生博覧会と生人形を取り巻くエロ・グロのイメージは、むしろ人体解剖模型などの医学模型という存在から来ている。特に高村光太郎の言葉に見られるように、生人形のリアルさは人体解剖模型の不気味さに通じるものとしてとらえられている。

 だが、高村の美術論が語る人体解剖模型が持つ不気味さの生人形への還元は、生人形と衛生博覧会の実際的な関係性を明らかにする時には有効ではない。逆に言うと、生人形と衛生博覧会を語る後世の研究者さえ、この観念にとらわれてきたとも言えるかもしれない。大正・昭和初期の衛生博覧会における実際の展示では、生人形はほかの博覧会や博物館、百貨店における生人形展示と同様、展示テーマ(衛生)の視覚化を実現する展示装置として、多様な人体像を示していたということが本論から確認できるだろう。

神職の宗教実践と地域性に関する研究 −宮城県本吉郡南三陸町の戸倉神社を事例として−

渡邉 久美子(東北学院大学大学院文学研究科)

 本稿は、修験を出自としている神職を対象に、彼らや地元の人びとの語り、地域の生活や歴史的展開に基づいて、今日我々が目の前にする宗教実践の民俗的特質について明らかにすることを試みたものである。

 修験やその系譜を引くとされる神職の存在は、民俗学や関連する諸分野において、地域の信仰生活を理解する上で重視され、従来の研究では、彼らの行う宗教実践を近世との連続性という点から着目し、分析が行われてきた。

 しかし、神仏分離や修験道の禁止を経て100年以上経った今日、単に修験の名残として、彼らの行う宗教実践を位置づけて良いのだろうか。この点を検討するため、修験が持ち伝えた法印神楽の伝承地として、本田安次『陸前濱之法印神楽』(1934)に紹介された宮城県本吉郡南三陸町の戸倉神社の事例を取り上げる。戸倉神社の神職家は2軒で地域の信仰生活を担っており、それぞれ近世以来の修験をその出自としている。歴史的展開を史料に基づいて見ると、藩政時代には羽黒修験の管掌にあり、安永3年(1774)の段階では、現在見られるように2軒の様相を呈している。明治4年(1871)には、修験から神職へと復飾し、明治初期から明治20年代半ばまで周辺神社の多くを兼務、地域において中心的な存在であった。そして神社が国家管理から離れた戦後以降は、神社本庁の所属神社として今に至っている。

 このように歴史的な変化に対応してきた戸倉神社の神職家が、年間を通じて携わる行事を見ると、神事に際して行われる「打ち鳴らし」と呼ばれる儀礼がポイントである事が明らかとなった。

 「打ち鳴らし」とは、神職が神道的な歌を歌いながら、胴と呼ばれる太鼓を打って奏でる奏楽である。一見すると、この儀礼は修験時代の残存であるかのように見える。しかし、果たしてそうであるのか、地元の人びとや、「打ち鳴らし」を実践する戸倉神社の二人の神職の語りをもとに検討を試みた。すると、「打ち鳴らし」は、そこで生活する人びとにとって「神事そのもの」という感覚を持たれ、神職は「出来なければ一人前と認められない」と語り、その習得を図っているのである。

 では素養として習得していなければならない「打ち鳴らし」を神職はどう位置づけ、実践しているのか。彼らは、神職資格を取得するため、神社本庁が指定する同じ神職養成所で祭祀を学び、他の神社での経験を経たのち、帰郷、「打ち鳴らし」は地元で習得している。彼らの語りから検討すると、一方は、「打ち鳴らしが出来ないとご祈祷が出来ない」とこれを習得、自分の知識や経験から、神道祭祀の一つとして解釈を加え、その意義を理解しようとしている。もう一方は、同じく地域固有の神事として「打ち鳴らし」を再定義し、実践している。しかし、神事を学んだ神職養成所や、これまで勤めた他の神社での経験との違いから、地元における神事に違和感を持ち、地域固有の神事として定義を図りながらも、自らが学び、経験してきた「本来」とするところの神事とは、そぐわない慣習に対し、どう実践するかという点で葛藤していたのである。

 両名の「打ち鳴らし」や、地域で慣習的に行われてきた神事に対する対応や、違和感を理解するために、神社本庁で定めている「神社祭祀規程」と戸倉神社の神事を比べてみると、規程とは大きく異なっていた。ここで注目したのが、『神社本庁規程類集』に記されている神社本庁憲章のうち、第8条の4にある「一社伝来の故実、慣習、由緒は、尊重するものである」という条文である。彼らの対応や、違和感は、一社伝来の故実慣習としての「打ち鳴らし」や神事をどう自分の中で位置づけるか、と言う点から生じていると考えられる。彼らが実践するところの祭祀においては規程より、慣習や自らの経験が優先されていた。すると問題は、「打ち鳴らし」を単に修験の問題として位置づけていいのか、と言う点である。

 『陸前濱乃法印神楽』をもとに、修験が演じていた頃の法印神楽を見ると、当時は仏教的色彩を持ち、「打ち鳴らし」もその中にあった。しかし、今日に至っては、仏教的な要素は見られず、また語られることもなかった。このことから、従来の民俗学がそこに見出そうとしてきた修験時代の要素は見られず、前近代を引き継いでいるかのように見えながら、厳密にみれば、新たにつくられた神事の形態と言える。

 民俗学が、民俗を実践する人びとの視線にたってものを考えていこうとするならば、彼らの語りから見えてくるのは、これまでの研究が見ようとしてきた修験の名残ではなく、あくまで神事の一要素として実践しようとする姿であり、「打ち鳴らし」は近代、そしてより厳密に言うならば、現代の神道の一つの宗教実践にほかならない。

 いずれにしても、過去の残存として、民俗の理解を推し進めようとするならば、地域の人々の暮らしとの間に、ますます距離が出てくるのではないか。まずは、彼らが民俗をどのように位置づけ、実践しようとしているのか、地域の歴史的背景にも注意した上で検討すべきではないかと、今回取り上げた事例は物語っているように思えてならない。

「癒し」と「救い」のダイナミズム―宗教集団「信行会」を事例として―

栗田 英彦(東北大学大学院・日本学術振興会)

 信行会は、四国遍路への集団参拝を主な活動とする新宗教教団である。滋賀県長浜市に本部施設を持ち、滋賀県・岐阜県・福井県にあわせて計九支部を抱えている。

 創立者の内藤欣法(きんぽう)氏は大正初期に肺結核に罹患し、病いと死の苦しみから天理教をはじめとする様々な宗教に関わるようになる。最終的に、欣法氏の肺結核は四国八十八ヶ所巡拝を通して回復していくが、その道程で弘法大師の「お告げ」をもらったとされている。それ以来、彼は「おうかがい」(弘法大師の声を聞き人々の悩みや相談に答えるという一種の託宣)と四国遍路への勧誘を通して信者を集め始め、昭和二十九(一九五四)年に「信行会」の名で宗教法人登録をしている。現在は、欣法氏の孫の太勸(たいかん)氏が会長をしている。

 信者数約三千人ほどであり、決して大きな教団ではない。信行会についての先行研究は今のところ皆無と言ってよいだろう。しかし、四国遍路が生み出した民俗宗教の一つの形態として信行会を研究する意義は十分にあると考えられる。

 信行会では「お大師さんの教えは現世利益」とされ、様々な実践により、病気平癒を初めとした「現世利益」が求められている。例えば、信者の多くは身体的不調の治癒や健康維持を願って「お加持水」や「千枚通(せんまいどおし)」(4.3cm×1cmほどの薄い和紙でできた護符)などを飲用する。四国遍路を通して、身体的・精神的不調が癒されたと言う信者も後を絶たない。

 こうした現世利益的傾向はしばしば民俗宗教や新宗教諸教団に特徴的だと言われてきた。そうした現世利益はキリスト教が担うような「本来の救済」としばしば対立するものと考えられ、「本来の救済」が普遍的・超越的・禁欲的であり、全人格的な信仰によるものとされるのに対し、現世利益は呪術的・個人的・道具的・欲求充足的であり、断片的・一時的な信仰にすぎないとして否定的なニュアンスがこめられることが多い。このようなまなざしに対抗するため、いく人かの研究者は新たな捉え方を示してきた。例えば、対馬路人・島薗進・西山茂・白水寛子ら新宗教研究者は、こうした見方を「近代文化の根強い偏見」と批判し、新宗教における救済状態を「現世的で、身体感覚的で、時には官能的でさえあるが、それは生命の全面的な解放と開花において実現される」として「生命主義的救済観」という用語で再評価した〔「新宗教における生命主義的救済観」『思想』六六五 一九七九〕。またイアン・リーダーとジョージ・タナベは日本の現世利益を研究して、その倫理的側面の重要性を強調し、評価している〔Practically Religious : Worldly Benefits and the Common Religion of Japan, University of Hawai’i Press. 1998.〕。

 このように現世利益やその意義が再評価されるなか、池上良正は現世利益が世界宗教と対置されて論じられること自体を再考している。そこでは、現世利益と世界宗教の対立軸とされてきた利己心/利他心、物質的/精神的、意図的/無意図的、現世/来世、個人/社会といった二分法が吟味され、現世利益が必ずしも前者であるとは限らないことやそれらの二分法の判定不能性や近代性が指摘されている。池上は、現世利益概念のあいまいさゆえに、分析用語としての限界を認め、代わりに「現世利益」という言葉をめぐって人々の間に交わされる多彩な会話や論争の具体相に注目することを提案している〔「現世利益と世界宗教」『岩波講座 宗教 第二巻』岩波書店 二〇〇四〕。

 本発表では、池上の指摘を踏まえつつ信行会における「現世利益」的実践の実態を探っていくことを試みる。この場合の現世利益は分析用語ではなく、信行内部の、すなわちイーミックな用語である。資料として、教団刊行物および二〇〇七〜二〇〇八年に発表者自身によって行われた参与観察・聞き取り調査・アンケート調査の結果を用いる。具体的な対象としては信行会に特徴的な病気平癒の実践、すなわち「癒し」の実践に焦点を当てている。

 信行会の教義や「癒し」の実践を分析していくなかで、西山茂が「教導システム」と名付けた「自己のみの現世利益」の追求を「入口」としながら、「他者や社会の幸福」、すなわち「利他」の態度を「出口」とする日本の新宗教に見られる「脱自向共の転換構造」〔『仏教系新宗教教団における教導システムの比較研究』平成十四年度科学研究費補助金基盤研究(C)(2)調査資料集 二〇〇三〕を見ることも可能である。しかし、信行会の信者・幹部双方の言説に「教導システム」のような考え方を一貫して明瞭に読み取ることは難しい。むしろ、「癒し」に含まれる利己的・意図的な性質と「癒し」を超えた利他的・無意図的・全人的性質(例えば、弘法大師への絶対的な帰依の感情)がダイナミックに絡まりあいながら、信行会の「現世利益」的実践は形成されていると言える。それぞれの性質は質問者の問いかけや文脈によってはじめて立ち現れ、確定されるとする、構築主義的な観点で説明することもできるだろう。

 このような両面の性質を「現世利益」の言葉と実践で包括しうることにこそ、民俗宗教としての信行会における「救い」の特徴が見られるのではないだろうか。