第844回談話会発表要旨(2009年9月13日)

高度経済成長と民俗学―民俗学とは何か、何ができるのか―

概要

 民俗学とは何か?社会や学界からこの問いかけに私たちはつねに答える必要がある。柳田國男の創始した民俗学は、民俗資料を全国的な視野で収集整理し比較研究を行うことによって文献史学と考古学に対抗し協力しうるもう一つの歴史学として構想されたものであった。

 しかし、戦後の民俗学はそれを否定する方向へと展開した。地域民俗学の提唱である。さらにはまた、柳田を否定した民俗学は、文化人類学や社会学や宗教学などとの区別があいまいなものとなっていった。

 あらゆる学問は対象を独占することはできない。かつてのアナール学派的な社会史学や最近のカルチュラル・スタディーズの流行の前に、それら日本の民俗をも研究対象とする多くの隣接科学との関係の上で、民俗学の存在理由はその独自性にしかない。学問の独自性はその方法にしかない。そしてその成果にしかない。

 高度経済成長と生活変化、それは現在の民俗学にとって重要な研究課題の一つである。民俗学がその問題にどのように取り組んできたのか。また現在どのような研究が可能か。経済史学をはじめ多くの学問が研究対象としているこの問題に、いま民俗学が取り組むべき方向を考える。

博物館による高度経済成長期の生活変化へのアプローチ

青木俊也

 歴史系博物館にとって、現代と直接に結びついた身近な過去である戦後、とりわけ1960年を中心とする10年間、昭和30年代の生活に対して、本格的に向かい合い始めてからおよそ20年の年月が経とうとしている。発表者は、1990年に松戸市立博物館の開館準備の学芸員として昭和30年代の生活の展示準備を始め、2009年の現在に至っている。その間に昭和30年代の生活を展示する意味が2つの側面において変化、動きが生じているのではないかと考えている。当たり前のことだが、戦後生活を対象とすることに博物館が本格的に向かい始めた時期からみた昭和30年代の生活が、20年の時を経てさらなる過去と移っている。つまり、現在から20年前の時点(1990年代初め)からみた昭和30年代の生活と、現在(2009年)からみた昭和30年代の生活は、歴史系博物館が展示するうえで、その意味に違いが生じている可能性があるのではないかという点である。そして、その違いが展示表現に変更を加える必要性を生むこともありうるということである

 一方、先の経年化による変化とは別に、昭和30年代の生活に対する懐かしいというイメージの固定化が、20年を経てさらに進んでいる点である。演出されている懐かしの昭和30年代というイメージが強化されていくなかで、身近な過去の生活経験表現した戦後生活再現展示はどのような影響を受けているのだろうかという点である。松戸市立博物館は、1993年4月に開館した松戸市域を対象にした歴史系地域博物館であり、現代史展示「常盤平団地の誕生」として、日本住宅公団によって1960年に入居が始まった常盤平団地(4839戸)の公団住宅2DKを原寸大で復原し、入居開始から2年経った1962年の居住者家族の生活を再現している。昭和30年代の最新の住宅であった公団住宅2DKにおいて新しい生活を積極委的に取り入れた暮らしぶりを再現している。

 しかし、その後の生活の経緯、住民の変化を踏まえたものではない。展示の準備を行なっていた20年前の時点では、この展示の表現のなかに住民層の高齢化を迎えた状況を踏まえた団地の街のその後を示す視点を、持ち合わせていなかった。当時、調査したことは、入居当初の生活であり、調査時点のそこに住む人々の生活の現状ではなかった。現在の常盤平団地には先の展示とは違ったもう一つの高齢者が中心の街の姿がある。現状を掬い取り、そのことをふまえた展示の形を模索する必要がある。松戸市の住宅地化していくこと、団地の街となることを表現した2DK生活再現展示は、現代の松戸市の姿を肯定的にとらえた自己像である。視野を広げていえば、常盤平団地の現代にかけての推移は、20世紀の住宅様式としての集合住宅の歴史的な役割につながる評価を踏まえた展示表現が必要となっている。そのことを住民の生活からとらえた展示表現として考えると、先の入居開始当初の高度経済成長期の生活の展示だけでない、現在までの生活の変遷をトレースする視点を持つことが必要である。そこには、現在の高齢化が進んだ姿を掬い取る展示表現が必要となっていると述べた。

 そのことを踏まえれば入居開始当初の生活を相対化し、現在の生活を踏まえ、今後の姿を見通展示表現も可能となると考えられるのではないだろうか。つまり、その時点における現在の生活を調査してこなかったことで、過去の姿の中身、問題点を見失っているのではないかということである。逆に、博物館においてこの光景を懐かしい昭和30年代の生活を示す記号のように展示したら、博物館展示の独自性はなくなる。現代史展示がこの展示手法に偏るようになった理由として、利用者が懐かしいと感じることを前提に、安易に先例の形ばかりに追随するように、多くの興味を集める戦後生活再現展示が採用されていく可能性もある。これまで自戒を込めて繰り返し、昭和30年代の生活への懐かしさだけを求めた展示がつくられることへの危惧について言及してきた。

 展示をつくった時点からさらに年月が経過することで明らかとなってきた、昭和30年代に始まった近郊住宅地における団地生活の一つの具体的な姿に、さらなるアプローチをすることに取り組まなければならない。

 歴史系博物館による戦後生活のアプローチである戦後生活再現展示について総体として述べれば、そこに展示された生活の持つ現在からみた特性、問題点などを、どのように展示に反映させていくことが、戦後生活へのアプローチの課題となっていくと考えられる。

自分誌の試み―私のムラの50年―

小島孝夫

 高度経済成長期を民俗学的視点から捉えなおすために私が選んだ視座は、自分自身の経験を題材にして「高度経済成長」なるものの実態を報告するというものである。

 私は高度経済成長が始まったとされる昭和30年に生まれ、高度経済成長が終息した昭和48年に高校生活を終えた。この間の私自身の生活そのものが歴史的には高度経済成長期の生活ということになる。この間に自分自身や地域社会が経験したことを具体的に述べることで、一般に高度経済成長と呼ばれる現象の実態を具体的に示すことで、「高度経済成長」という外的な要因だけで生活文化が変化していったのではなく、生活者自身の内的な志向や関心とによりさまざまな場面で試行や選択が繰り返され、その結果として民俗変化と総括されるような変化が生まれてきたのである。

 このことは、民俗変化の背景を外的要因を主たる要因として説明する傾向があった従来の民俗学の視点に、調査者・研究者である自分自身の経験を具体的な資料として積極的に位置づけることで、生活者の内的な心意を分析の対象にしていくことを加味していくことを試みようとするものである。

 民俗学において、話者から得たデータは調査者自身の基準によりさまざまな分析が行われていくことになる。その際に調査者が基準としているものの核となっているのは、調査者自身の経験である。その経験に、調査者ごとにさまざまな話者を対象にした聞き書きや参与観察によって得た経験が加味され、自分自身の経験の偏差が自覚されていくことになる。その自覚の度合いが「客観的な調査」や「客観的な分析」ということになってきたのである。こうした作業を続けていく限り、自分自身の生活や経験というものは一次資料として位置づけられることはない。

 しかし、私自身が生活してきた時代自体が調査や研究の対象になった場合、その時代を共有していた一人の人間としての生活や経験を有していたことは確かなのである。であれば、今回の「高度経済成長」なるものを捉えなおす試みには、「私の」生活なり経験を題材としてもよいのではないかと考え、自分自身の生活を記録し分析することの意義と必要性について述べた。副題は学生時代に愛読した米山俊直の『日本のむらの百年』を模したものであるが、同時代であっても人びとや地域の暮らしは安易に普遍化すべきではないという意図から、「私の」ムラと付した。

 事例としてとりあげたのは私自身が現在も居住する埼玉県北足立郡伊奈町小室に属す浅間地区である。現在の浅間地区の戸数は集合住宅を除いて106戸であるが、サトノタンボと呼ばれた水田に高規格の県道が敷設された昭和42年頃までは25戸の集落で、大半の家が専業農家であった。昭和42年に隣接する上尾市を主会場に第22回国民体育大会が開催され、それに合わせて県道の整備がすすめられていった。また、昭和43年に施行された「都市計画法」による市街化区域の線引きの前に、一部の農地の転売が行われ地区内の農地に虫食い状態に住宅が建てられていき、農村内での混住化が進展していった。混住化の進展にともない、多くの農家が水田を手放すようになり、水田は住宅の分譲地となっていった。

 これが浅間地区の現在にいたる大まかな流れであるが、報告の主旨は、こうした外的な要因に対して私たち住民がどのように対応したのか、外的な要因に対する作用と反作用について述べることであった。浅間地区の居住空間は都市計画法施工後、市街化調整区域となり、農地はそのまま残されることになったが、農業後継者はすべて離農し、高齢者によって農業が継続されることになった。農業後継者の離農により、彼らの配偶者はそれまでの通婚圏をはるかに越えた範囲から嫁いでくることになった。配偶者となったものたちは学校や職場で出会った人たちであり、大半が農家の出身ではなかった。配偶者を受け入れるために各家で行われたのは、それまでの農業を前提とした家屋を新築することで、その費用には水田を売却して得た金が使われた。混住化と農業後継者の離農によって、地区内の生業は全く姿を変えていった。それに対して、旧農家が中心となって行われてきた農耕儀礼には次のような変化が現れた。浅間地区では二つの春祈祷が行われている。一方は水系の管理を背景にして行われてきた行事で、三匹獅子が浅間を含む隣接する他の集落を巡回ものである。この行事は水田の水系管理という役割から、混住化の進展による新旧住民間の緊張関係を和らげる新旧住民の親和を意図した行事へと転換することになったが、もう一方の浅間地区内の各家をめぐる春祈祷(オシシサマ)は、専業農家がほとんどなくなったことと、各家をめぐる際の接待は農業後継者の配偶者たちには必然性が感じられないものであり、過重な負担として次第に家庭内での支持が得られなくなっていった。

 家庭や地域内での意識の変化や選択が地域社会を変容させていく要因になっていることを示すことで、高度経済成長と日常生活の変化との関係を自明のものとしない視座を共有できるのではないか。

高度経済成長と自治体史編纂事業

村上忠喜(京都府)

 高度経済成長と自治体史編纂事業の関わりについての話題提供が、本談話会において、報告者に課せられた。本題に入る前に、フロアに対して、自治体史の民俗編は、広い意味での民俗誌ではあっても、現在いうところの「民俗誌」ではないという点を確認した。

 民俗誌は、時代によって変化する。分類語彙や調査項目が整備しはじめられるようになった昭和一〇年前後以降の民俗誌と、それ以前のものは違うし、現在イメージされるそれは、ある程度、機能構造的に把握できる規模の社会集団を対象とした叙述である。ところが、自治体史の民俗編(以下には民俗編という)の対象は広範囲であるとともに、行政が主導するものである限り、行政施策としての側面を持たざるを得ない。記述に関しても、なるべく市域各地区にまたがるような配慮を必要とするのは一般的で、結果、網羅的な記述が避けられない。加えて、行政的にみて不都合な内容は避けられる傾向はあるわけで、記述内容もずいぶんと現実から距離のあるものとなるという点において、民俗誌とは分けて考えるべきと指摘した。

 次に、多くの民俗編が編纂されるようになった背景には、高度経済成長期の社会変化への対応という側面は遠因としてはあるものの、直接的には、文化財保護行政の整備に伴う民俗資料の価値付けがあったことを指摘した。文化財保護法制定(昭和二五年)、地方自治体における教育委員会の発足、そして文化財保護条例の制定、さらに保護法改正による民俗資料の誕生(昭和二九年)等である。文化財保護法制定後一〇年間に、全国の約半数の都道府県において文化財保護条例が整備される。すなわち民俗資料は、行政が責任を持って保存すべき対象であるという法的根拠が整備されていったということであり、自治体史編纂事業を主管した教育委員会が民俗編の編纂を手掛けたのはある意味当然のことであった。

 この点について、報告者自身の経験をもとに、近畿地方における民俗編の編纂方法を具体例として確認した。それは、@民俗編の基礎調査となる集落調査が、文化庁緊急民俗調査のカードをモデルとして行われた。カード調査を基礎資料として民俗編の叙述がなされ、また民俗地図が作成された。A文化財のジャンルに対応した編集構成となっている。という点である。Aについて、事例をもとに補足的に説明すると、『栗東町史・資料編1』(一九九四年刊行)では、考古編・美術工芸編・民俗編の三部構成をとっており、美術工芸編の中に「建築・庭園」の章が入っている。すなわち、考古編が埋蔵文化財と史跡、美術工芸編が有形文化財、そして民俗編が民俗文化財の内容を反映するといったコンセプトに基づいていることを紹介した。

 近畿二府四県を例にすれば、民俗編が編まれるようになるのは意外と近年のことで、まして民俗編が独立巻となるのは一九八〇年代後半からである。すでに多くの自治体史において、民俗編が独立巻として編まれるようになっていた関東・東北とは大きく相違する。と同時に、近畿においては、今後民俗編を出す予定の自治体史についても、文化財的なホローアップを求める編纂事業もあり、先記の路線は収束しているわけではない。

 一方において、高度経済成長期、あるいはそれ以降の生活変化を組み入れる動きも出てきた。京都で最も早く単独巻で民俗編が編まれた『長岡京市史』(一九九二年刊行)は、民俗の変容をテーマに掲げた民俗編であった。同書の編纂は、地域民俗学と、それに続く都市民俗学の隆盛といった、民俗学会の流れにのって編集方針が決定された。編纂のための調査自体は興味深いものであったものの、いざ叙述という段階においては、自治体史としての性格上、個別具体的な内容は避けざるを得なかった。読み手の多くが地元住民と想定され、それぞれの社会集団内のプライバシーにかかわること、たとえば自治会創設時の葛藤であるとか、合意形成の失敗例といった内容のものは叙述しにくいわけで、いきおい、統計資料にたよった一般的な概説になってしまった。

 文献史学の場合、自治体史編纂事業は、新資料発掘の場であるとともに、博物館や資料館、公文書館の整備と連携することで、資料の保管・公開を通じて、編纂期間だけでなく将来的な研究への貢献等や社会的な効果は大きい。それに対して民俗学の場合、資料的性格に起因するところ大であるものの、民俗編の叙述のみに終始し、事業の過程で得られた調査資料のストックや公開を体系的に図る試みがほとんどなされなかった点において、十分な成果を学会や社会に供することができなかった点を指摘した。聞き取り調査のデータ(一次データ)、すなわち「民俗誌」的な資料の整理や公開の途を探る試みが欠落していたのである。この点においては、高度経済成長を扱った民俗編であろうが、そうでない民俗編も大差はない。

 以上、期せずしてやや後ろ向きの内容となったが、本シンポジウムのコーディネーターより報告者全員に対して、それぞれのテーマに即して「民俗学で何ができるか」について発言せよという課題が出ていたので、報告者は、民俗学が主導的に関与でき、かつ高度経済成長期の社会変化を捉えなおす試みとして、写真や動画といった映像の資料化を挙げた。民俗事象をどのように映像記録するかという方法については、民俗学においても近年深化されてきているところであるが、提案したのは、死蔵されている写真や動画などの映像資料を発掘して、蓄積し、解析していく試みのことである。民俗学は、たとえその規模が小さいとはいえ、他分野に比して、地域社会全体の文化を解釈する手法に手慣れている。たとえば、建築学が写真を資料とするとしてもそれは建造物や町並みの写真しか対象化できない。一方、各家庭に死蔵されている写真は、当たり前のことであるが、学問領域を超えた資料的キャパシティーを有しているわけで、全体の叙述に長けた民俗学にとっては格好の資料化の対象となるのではなかろうか。

 一般的に、学問的専門領域の根拠とその正当性、および理論や方法などといったものは、それぞれの専門領域が正当と見なす研究対象との安定した関係によって定められているわけで、映像資料化は民俗学の教育を受けた者が望ましい、といった社会通念獲得するような戦略が必要ではないかと提言した。

コメント(石垣 悟)

 本シンポジウムは、一見よくありがちなテーマのようにもみえるが、「高度経済成長と民俗」となっているところがミソであろう。いまや聞き書きで話をうかがう人の多くは、高度経済成長を体感してきた人々であり、そこで語られる日常生活は高度経済成長と密接に関係している。民俗学にとって高度経済成長は、もはや無視できないことは自明である。

 民俗学自体が高度経済成長のなかでどうあったのか、という問題は、民俗学に携わる研究者自身の問題でもあるが、これまであまり深く省みられてこなかったように思う。発表順と前後するが、この問題を真正面から取り上げたのが小島孝夫氏であった。小島氏の発表は、自身の居住地域の変容を航空写真で可視的に示された点でも興味深かったが、何よりも高度経済成長との絡みで、自身の民俗学の依って立つところを確認したことは意義深かった。こうした作業は、フィールドに身一つで入っていく民俗学者が意識的に行っておくべき義務であり、そうした作業を経てこそ、研究者一人ひとりの民俗学が現実社会へとコミットしていく可能性を開くものと思う。民俗学に携わる研究者は、自分自身と民俗学と現実社会という三者の関係を真摯に問い続ける必要があるだろう。

 青木俊也氏の発表は、青木氏のライフワークともいえる団地の暮らしの調査・展示についての現時点からの読み直しであり、二つのポイントが示されたように思う。一つは、時間的な立ち位置の問題である。団地の暮らしが注目され始めたのは平成に入った頃であり、現在はすでに二〇年近くを経過している。従って、この二〇年の研究成果を整理するとともに、団地の暮らしがこの二〇年間でどうなったのかを見つめる必要があるだろう。そうしたとき、二点目として、従来あまり注意されてこなかった側面、つまり団地の暮らしをめぐる負の側面へのアプローチの必要性が指摘されたことは、大きな前進であったといえる。民俗学が負の部分にどうアプローチできるのか、あるいはできないのか、筆者自身は今後確実にアプローチせざるをえないと思っているが、その意味で青木氏の指摘は、民俗学の一つの転換点を示したものといえる。

 村上忠喜氏は、自治体史と民俗学との関わりを高度経済成長との絡みで詳細に論じられた。民俗の変容や生成といった動態的な面が、刊行された自治体史ではなく基礎調査カードに記述され、それが死蔵されていることが披瀝されたが、このことは自治体史自体が高度経済成長の申し子であったことの裏返しといえよう。自治体史編纂は、多かれ少なかれ高度経済成長を経た自治体の文化行政の一環で企画された。従って、民俗編では目下急速に変化しつつある日常生活の前代に目が向けられたことは当然であった。そして、そこでほとんど例外なく民俗誌の調査項目が援用されたことは注意しておかなければならない。つまり、民俗学は自治体史と深く手を結んできた事実があり、自治体史の記述は当時の民俗学にとって少なからず使える資料だったはずである。今日、自治体史は使えないというのが自明となりつつあるが、それを尤もと感じるいっぽうで、民俗学の無責任さも感じてしまうのは私だけであろうか。確かに自治体史はあくまで行政報告書である。しかし、民俗学の調査項目を用いて多くの民俗学者が記述してきた事実をみるとき、民俗学は自治体史編纂事業に対してきちんとケリをつけておく必要を感じる。村上氏の発表は、「高度経済成長と民俗学」という問題に「自治体史と民俗学」という問題が確実に含まれている現実を明確に突きつけた。自治体史を単純に無用の長物として葬っていいのだろうか。

 最後に、フロアーからの質問・意見に関連して、筆者は本シンポでいう高度経済成長はある時期に終焉しているものと考えたい。高度経済成長の浸透に地域的なタイムラグがあった、というフロアーからの意見は、今後の民俗学の重要なテーマとして興味深く、その意味で終焉の時期も一律ではないだろう。ただ、少なくとも現在は高度経済成長期というよりは、高度経済成長を相対化している時期であり、その相対化が始まるところに高度経済成長の終焉をみたい。だからこそ高度経済成長は、民俗学が積極的にアプローチすべき対象であると考えたい。なお、本シンポジウムのコメンテーターを務めさせていただいたが、私自身は、いわゆる高度経済成長(昭和三〇年代を中心とした時期)を体験した世代ではなく、その意味で適切にコメントできたのか一抹の不安を覚えていることをご承知おき願いたい。

コメント(川森博司)

 まず、社会状況の中において民俗学が果たすべき役割として、四つの側面があることを指摘した。@一般読者(聴衆)を対象とした民俗学(大型書店の民俗学コーナー、マスメディア、博物館、カルチャーセンターなど)、A大学の教養科目としての民俗学(授業、教科書など)、B大学の専門教育としての民俗学(卒論、修論、博論など)、C最前線の研究としての民俗学(学会発表、学術論文など)である。このうち、@とAについては、高度経済成長を経て、民俗事象のオカルト的受容という現象が顕著になっており、それにどう対処していくかが現在の民俗学の重要な課題であることを述べた。

 また、BとCのアカデミック民俗学の問題点として、a「高度経済成長以後の状況に対する対応の遅れ」とb「学問の鎖国的状況の進行」の二点を指摘した。aの内容としては、農業の兼業化や地域社会のネットワークの広域化による共同体の変容に真剣に対応してこなかったこと、また、その反動として、小さな共同体を理想化する言説が展開したこと、民俗行事への女性の参加の増大と女性の主役化、その一方で今も続く裏方としての女性への抑圧といったジェンダーの変容の問題についても積極的に取り組もうとしなかったことを挙げた。また、bについては、「地域民俗学」(市町村史の構成要素としての民俗学)の展開による課題の先送りと、柳田国男のまつり上げ等による日本民俗学の独自性への過信を、その要因として指摘した。

 そして、今後、日本の民俗学が時代状況に応じた役割を果たしていくためには、「身の丈の生活を生きる方法」として「民俗」を捉え直し、日々の生活実践の中での選択肢の一つとして「民俗文化」を位置づけていく必要があること、そのためには、従来の民俗学の成果を踏まえながらも、新しい時代状況に対応できるものに民俗学を組み立て直していく作業が必要であること、また、「翻訳」を通した相互理解が可能な枠組みや概念を設定することにより、土着的なものから出発しながらも土着性を超えた議論を展開していく必要があることを主張した。