第845回談話会発表要旨(2009年11月8日)

墓制・墓標研究の再構築

概要

 「墓」をめぐる研究は民俗学、文献史学、考古学によって展開されている。

 民俗学では両墓制論が祖先信仰や家族・同族制度、村落社会を解明するテーマとして注目されてきたが、最近は墓地研究による地域社会、家族社会分析が主流になるなど、信仰一辺倒の墓制論と一線を画している。歴史学では墓制を取り巻く死生観、他界観についての業績が増してきた。考古学は石造物の形式論研究から、製作技法、石材・産地の研究に重心を移している。さらに中近世墓地遺跡の報告が蓄積され、考古学的墓制研究は第二段階に入っている。

 しかし個別の成果を、翻訳不能な概念で、思い思いに開陳する段階はすでに過ぎた。墓をめぐる研究は、研究分野を超えて共通の枠組みを設定すべき段階に入ったのではないか。シンポジウムでは、墓制研究の多様な側面を整理し、墓標概念などの再検討を通して、学際的な墓制・墓標研究の枠組みの再構築を目指す。

葬所・墓所・祭所―墓制と墓標研究の再構築にむけて

水谷類

はじめに

 墓を扱っていながら、議論が噛み合わない経験をした人は多い。民俗学、歴史学(文献史学)、宗教史学、考古学、文化人類学を串刺しにできる共通概念を構築し、学際的、横断的なハカ研究を実現できないか、ということを提案したい。

 民俗学、歴史学(文献史学)、宗教史学、考古学、石造物研究のそれぞれに多くの成果があり、今後もまだそうした研究は継続されるであろう。しかし、これら各分野の研究領域を改めて鳥瞰すると、いずれも「目に見える現象や事物としての葬制・墓制」に対象が偏っていないだろうかと危惧される。

 「目に見える現象と事物の限界」に対して私は、二つの意味があると考えている。一つは、宗教・信仰・思想など精神活動に属するがゆえに目に見えないという意味。二つ目は、それぞれの学問分野の研究対象素材自身が持っている限界のことである。文献史学では、文字資料がそれに当たる。目に見えない膨大な歴史的事象が、文献の背後に存在しているのである。考古学はまた、事物を扱う学問であることから、遺構・遺物などの事物から如何に豊かな情報を引き出せるかに意を用いている。しかし、事物に偏った捉え方に陥る危険性を秘めている。木造物や紙製、土製などの作り物、施設は、おそらく葬制・墓制の営みには大量に用いられた。それを考古学的に捉えることは難しい。ここにも見えない現象、事物が、目に見えるそれの後ろに数倍、数十倍控えているのである。

両墓制研究の陥穽

 歴史民俗学的な見地から、「両墓制概念」の脱構築のために、私なりの提案を試みたい。両墓制論は簡単にいえば、墓と称される施設が二種類あって、埋め墓、詣り墓と呼ぶことが提案された。埋め墓は死体の処理施設であり、それがそのまま死霊に対する祭祀施設である場合には短墓制、埋め墓と別に死霊祭祀の施設が設けられる場合には両墓制と呼ばれる。

 民俗学が、両墓制研究に対して一定の成果を上げているにも関わらず、考古学・文献史学・宗教史学ではこれに対してあまり関心を払ってこなかった。広く学際研究が叫ばれるなか、両墓制研究がこのように残念な事態に陥っている理由は、あくまで自らの研究概念を深化させてこなかった民俗学側の責任である。しかし同時に、自分たちが扱っているハカに関する素材、テーマに、両墓制などの民俗学的概念の適用事例を見出そうとしてこなかった考古学・文献史学にも、怠慢のそしりは免れ得ない。

ラントウと廟墓

 そこで、両墓制論の脱構築を目指すきっかけとして、ラントウというこれまで顧みられることのなかった墓を取り上げてみたい。ラントウという墓は、墓標と共在して用いられていたが、遺物としてはばらばらの状態でしか認知できない。またラントウには木造と石造がある。埋葬したハカの周りに忌垣を巡らし、それをシジュウクイン(四十九院)ともラントウとも呼んだ。つまりラントウは、両墓制における埋め墓にも詣り墓にも用いられている境界的な設え物である。ラントウは、埋め墓から詣り墓へと拡張していったのであり、中世後期に活発化した死霊祭祀という信仰的な動機から、詣り墓(祀り墓)が誕生したのである。

 このことから、資料の認知のプロセスに大きな問題があることがわかってくる。詣る、祀るという新たな営みは、その対象が永年保存されることを求める。詣る、祀るための施設が石造であることは、ひとつの重要な要件となった。ところが同じ信仰に基づいたラントウでも、埋め墓のものはイヌハジキ、オオカミハジキと称される竹製・木製の簡素な構築物であり、数か月、数年以内に朽ち果てることを前提としているため、当然残らない。今日残っているラントウの大半は、石造物のものである。

 ラントウは、埋め墓と詣り墓の両方にまたがってハカの施設として意味をなしていたにも関わらず、考古学的現象としては詣り墓の側にあることになる。一方、四十九院を埋め墓の周りに巡らすという民俗学上の営みとしては埋め墓の側にある。

こうしたことから死者と死霊のプロセスに即した墓制と墓標研究の、新たな枠組みを提起してみたい。それは葬所・墓所・祭所という枠組である。前近代社会の日本人は、死者および死霊は、段階に応じて変容していくと考えていた。そうした変容プロセスに応じて、徐々に居場所を変えるため、現世の人びとは死者・死霊に相応しい居場所を設える。それが葬所・墓所・祭所であり、葬儀やハカの設えである。

おわりに

 ハカは、普遍的には葬所と墓所と祭所の役割を併せ持っていた。これが時代とともに、社会的、信仰的な要求に従って分化し、ハカに属すべき役割を多様な現象・事物を生み出してきた。仏壇、位牌などはハカの祀りの側面だけを特化させ、屋敷神も先祖を神と観念することで神仏分離を果たし、ハカとは一線を画するにいたる。そうしたなかでも氏神・村鎮守・産土社は、村開発の先祖神の廟として出発しながら、神仏分離思想の展開のなか、ハカとは無縁の宗教施設に生まれ変わっていった。神はハカから抜け出して別の祀り場へと移っていったのである。

近世墓標研究の成果と総合的な墓標研究への期待

朽木量(千葉商科大学政策情報学部 准教授)

 本発表では、まず、墓制研究の中で近年大きな進展をなした近世墓標研究をとりあげ、その進展と現状、問題点を整理した上で、民俗学における墓制研究と比較した。さらに、北海道松前の事例を具体的に検討する中で、調査技術から方法論上の問題点に至るまでプラットフォームを共有したうえで、広義の歴史学へ向けて問題意識を共有することの必要性を論じた。以下、発表内容に即して詳述したい。

 近世墓標についての研究は、歴史考古学の分野を中心にしながら民俗学や文献史学を巻き込む形で進展してきており、私見では4つの画期で区分される。まず、第1期としては戦前から1980年代がそれにあたり、一墓地に立つ墓標を悉皆で調査するという方法論の確立が行われた時期である。もっとも初期の坪井良平による山城木津惣墓(坪井1939)の研究に始まり、そこでは墓標の形態分類とその変遷過程が明らかにされた。さらに、墓標形態に仏教的要素が見られなくなることを指摘し、寺壇制度の確立と仏教の形骸化という仏教思想への言及がなされた。第2期となる1980年代末から1990年代前半にかけては、墓標研究が全国的な調査の広がりを見せはじめた。墓標形態の変遷について全国的な視野から言及され始めると同時に、各地で調査数が1000基未満の小規模墓地における調査がなされ始めた。こうした調査事例の蓄積は解釈の多様化をもたらし、後述する6つのテーマにまとめられるほどになった。第3期となる1990年代後半から2000年代前半にかけては、国立歴史民俗博物館や大学などの研究機関による大規模悉皆調査が行われるようになった。また、墓標研究会が発足し、多くの学際的な意見交換から方法論の確立されてきた。第4期となる2000年代後半から現在に至る段階では、これまでの方法論を再利用するだけでなく、広義の歴史学における問題関心に即した研究が模索されるようになってきている。

 また、墓法研究の進展に伴い、扱うテーマも@仏教の形骸化など宗教思想の消長・変容、A家や家意識の成立、B墓と階層性の関係、C石材流通の復元、D当該村落における社会構造の復元、E歴史人口学など社会経済史的状況の復元というように多岐にわたってきている。

 こうした近世墓標研究の問題点としては、墓標の素朴実在性に立脚した議論がなされていることが挙げられる。あたかもアンケート調査のように「数の論理」に依拠し、墓標というモノの変化を直ちに当該社会の変化として読み変えて、主に文献史学から外挿された歴史認識で一足飛びに解釈していることが問題である。一方、民俗学における墓制研究では、主に2つの問題点があると思われる。1つには、研究対象が村落の墓地が中心であるため、都市部に関心が払われないことが挙げられる。そのため、民俗学における墓制研究では階層性があまり議論されない。近世期における士農工商といった身分秩序は勿論、村落内での家格もあまり議論されない。2つ目には両墓制・無石塔墓制についての研究が中心で、単墓制に関心が払われにくいことが挙げられる。岩本通弥が「節用禍」として論じたように(岩本1999)、両墓制概念はトートロジー(同語反復)が繰り返されたことによる実体化が起きている。スラヴォイ・ジジェクがトートロジーについてイデオロギー性を生む条件としたように、例えば「日本人は日本人である」といった場合、前者の日本人は中立的表現といえるが、後者は単なる畳かけを超えて、ある種の単純化・ステレオタイプ化を生んでいる。同様に両墓制概念も実体化が進み、広義の歴史学で論じられる近世社会の歴史認識と大きく離れて議論されている。

 こうした問題認識を踏まえ、現在、弘前大の関根達人を中心に発表者も含んで研究している松前の事例を紹介した。松前藩の墓標を悉皆調査し、過去帳と対比することで、階層性や都鄙間での違い、藩政の動きとの連動など歴史学全般にわたる問題全てについて墓標を素材に検討している。本発表ではポイントパターン分析という分布の散らばり方を分析する方法を用い、墓地空間の展開の仕方を論じた。その結果、他地域に比べ、松前では武士階級の比重が低く、藩主墓地や法源寺南区など一部墓地を除いて町人と武士が混在することを指摘した。

 松前の事例は、墓標研究におけるモデル検証型の研究例であり、量的把握に秀でた近世墓標研究を特徴づけるものである。近年、民俗学でも石塔を利用して、年代観を持った墓制研究が確立しつつある。モノばかりに傾倒しているという指摘もあるが、歴史資料としての墓標の有用性を無視することなく研究することが重要である。今後の墓制研究は、調査技術から方法論上の問題点に至るまで全てを共有したうえで、民俗学・歴史考古学・文献史学の垣根を超え、広義の歴史学へ向けて問題意識を共有することが望まれる。

モノと精神史のあいだ ―墓地空間のコンテクスト分析―

渡部圭一

1 はじめに: 民俗学の世俗化のなかで

 民俗学の墓制研究の関心には、大別して物理的な墓地のレベル、儀礼(行動や実践)のレベル、そして祖先など観念のレベルの三つがあった。そしてこの大半が広義の民間信仰の領域に関わっている以上、墓制研究が民俗学の「世俗化」(真野俊和)の波をまともに受けたことも必然の帰結である。両墓制研究があいまいな“詣り”事例を一掃し、石塔墓地として再規定することで飛躍的な進展をはたした経過は、研究史における精神史アプローチの後退、また「即物化トレンド」(田中藤司)を象徴するものがある。

 二〇〇〇年代に入り、いわゆる無石塔現象への注目など、石塔の相対化の提言も散見するようになった。ただモノにこだわることがただちに視野狭窄を招くといった安直な批評はあたらない。喫緊の課題は、モノに逢着した研究史の成果をもとに、あえて石塔=モノから見えてくるものを模索することであり、あるいはモノからの視野の広がりを妨げてきた制約を自覚することでなければならないと考える。

2 石塔がつくる墓地空間

 従来の墓地レベルの分析は、石造物をはじめとするモノを孤立させ、それらが作り出す空間を面的な広がりにおいて捉える視点をもたなかったのではないか。型式ごとの変遷を重視する墓標研究は、そのときどきの墓地景観を輪切りにするように描く視点を欠くかにみえる。角柱型の激増以前、石塔のまばらな時点の墓地の様子はそれ以後とは大きく異なるはずであり(上井久義)、たとえば近世初期の一石五輪塔を納めるものとして、いまは失われた木造施設の存在を想定する議論も刺激的である(水谷類)。墓地「空間」の空洞化というべき問題が浮上する所以である。

 墓地の“なか”の複雑な動態について、埼玉県所沢市三ヶ島堀之内のイッケとその墓地を例示してみよう。イッケの近世以来の「旧い家」は、家の歴史の証拠立てるものとして「旧いイシ」とよばれる近世墓標の累積に期待を寄せる。過程として跡付けると、明治期の急速な分家創出のなかで、近世前期からの「旧い」家々と後発の分家群との対比が鮮明になった。同時に、近代の石塔の大型化によって近世墓標の累積が相対的に識別され、旧いイシをもつ家ともたざる家とが墓地空間なかで視覚化された結果と考えられる。とりわけ明治期に出現する、台座にのってそびえたつような方柱型石塔の大型化現象は、つねにまざまざと“見えて”いる墓地景観を作り出し、石塔とその場を見えるもの・見せるものへと質的に転換させてきたものと考えられる。

 石塔の史料特性はモノとしてのかたちと銘文の存在にあるが、銘文と形態をたんに客観的な情報源として扱う史料操作をこえて、モノの伝世過程におけるそのかたちの表現効果を問題にするような視点は、銘文を目立たせる墓標の光沢化の事例(朽木量)などを通じて、徐々に石塔研究自身のものになりつつある。これらは同時に、先祖のまつりに一意化されない、モノとそれが作り出す空間のコンテクストの多様化・複雑化を示唆する知見である。

3 展望:コンテクスト分析の可能性

 石塔とその空間への注視から、そこに結節化するさまざま儀礼・行動と観念のありかたを分析できるのではないか。たとえば石塔の調査にとってのひとつの困惑は、先祖祭祀の枠組みのなかで個別性を昇華していくはずの個々の死者の個別の石塔が現に累積している、その“矛盾”にあった(竹田聴洲・谷川章雄)。ただモノと儀礼サイクルを必ずしも調和的に捉える必然性はないのではないか。

 石塔=墓地をめぐるコンテクストには、これまで種々の疑問が投げかけられてきた。たとえば盆行事における迎えと送りの場所の不一致や、盆の期間中にもかかわらず墓参する習慣の問題(井之口章次・喜多村理子)である。儀礼過程に同調的なことでは弔い上げの塔倒しが著名だが、一般には、石塔の造立タイミングは弔い上げの近くまで遅らせるケースが多く、この場合、継続的な墓参を前提とはせず、むしろ造立自体に意味がこめられることになる(井坂康二)。民俗学の石塔論は、儀礼と観念のサイクルに整合的なモノを重視しがちだが、むしろモノのまわりには多くの“矛盾”をともなうのが常態なのである。

 たとえば石造物だからといって一意的に永続的なのではない、とすれば、ミクロな儀礼の周期のなかで媒体のもつ作用を分析する余地は大きい。一種の石塔立地論に収束した両墓制研究が、石塔という媒体の異質さやその習俗化の局面を浮き彫りにしたことも想起しておきたい。“矛盾”を拡大する可能性を含め、モノが作り出す場のありかたの近世的な複雑化が予想できる。儀礼・観念からの一義的な解釈ではなく、モノ・空間がそのときどきにおいて生み出している矛盾と統合の複雑なコンテクストを熟視すべきである。“即物的”視点の展開や精神史アプローチとの対話もそのさきに構想されるのではないか。