談話会要旨-第856回(2010年度民俗学関係修士論文発表会)

都市民俗学の視点から見る地域社会―文京区根津の事例―

大坪秀嵩(慶應義塾大学大学院社会学研究科)

 東京都文京区根津は、現在その周辺地域(文京区千駄木・台東区谷中など)とともに江戸・明治の風情を残す「下町」としてメディア等で紹介されることが多く、地域住民たちも「下町情緒」を積極的にPRして観光地化を図っている節がある。しかし、当地に結びつけられるこの「下町」というイメージは、実際の所、1980年代それも後期になってから新たに獲得されたものである。では、この現象の実態とはいかなるものであったか。また地域社会は何故それを必要としたのか。これを問題意識として、本論は現代大都市における民俗の一事例を示そうと試みている。

 本論では上記の「下町化」を中軸に据えた上で、社会史から見る場所性、祝祭に見る社会集団のとりくみ、地域雑誌に見る個人のとりくみ、という三方向から変遷する根津の町を観察している。

 まず、場所性についてであるが、根津は江戸期1700年代初頭に成立した根津権現社(現根津神社)の門前町として誕生している。江戸期には岡場所(私娼窟)、明治初期には根津遊郭が形成された。後背の本郷台地に設置・拡大された東京帝国大学の影響で色町としての性質は失われるが、明治末までは地域の中心地・盛り場であった。が、大正・昭和期を迎えると次第に文明化の波に取り残されていく。当地の安い地価と良いアクセシビリティを目当てに労働者、学生、そして芸術家や文人などが集住し、関東大震災・太平洋戦争の被害が比較的少なかったこともあって、戦後は古い街区構造を残す人口過密地帯となった。

 1980年代までの根津に通底するイメージは「谷底」である。谷中・上野桜木そして本郷という江戸・東京の文化的風土の色濃い山の手に挟まれ、かといって盛り場としては上野や他の下町には敵うべくもない。下田将美は『東京と大阪』(1930)の中で根津を称して「取り残された町」と言い、また、1950年代に参与観察を行ったドーアはこの近辺を指して「下山町(下町でも山の手でもない場所の意)」と仮称した(『都市の日本人』1962)。またドーアは、下山町は「観賞するための町ではなく暮らすための町である」とし、ここには地域共同や義理関係など、日本旧来のムラ社会に通じる住民の関係性がまだ見受けられた。

 さて、近隣の者同士が強く結びつき外に対しては排他的であった地域社会が、突如として大きな変革を遂げたのが1980年代の後期である。当時、高度経済成長のあおりをうけた東京都心部では、地価高騰と地上げが横行しており、根津もまた再開発へと否応なく巻き込まれた。壊れ行く街並みと地域社会の有様は全国的に問題視されたが、当地域の場合、急先鋒に立って警鐘を鳴らしたのが地域雑誌『谷中・根津・千駄木』(通称『谷根千』、1984-2009)であった。この『谷根千』は3人の若い母親によって編まれた(因みに皆外部出身の新住民であり、それゆえに旧弊な地域社会の枠組みにとらわれない活動ができた)。これはいわば零細出版のタウン誌であり、主に地域住民の生活文化に根差した記事・情報を取り扱う。そのかたわら地上げに対しては、これを明確に批判したのである。

 この『谷根千』の働きが大手マスメディアによって取り上げられ、その情報が広く浸透していくにしたがって地域社会内部にも変化が見られるようになった。それは、伝統的地域社会の構成母体である町内会が執り行う祝祭行事の変化によって端的に示される。現在、根津神社と根津、千駄木、弥生の各町会を中心に行われている祝祭行事は三種類、すなわち、根津神社例大祭(9月)、文京つつじまつり(4〜5月)、根津・千駄木下町まつり(10月)である。これらはそれぞれ、江戸期から続く伝統行事、戦後始められた観光行事、そして『谷根千』以降形成された新たなイベントである。これらテーマの異なる年中行事を取り仕切る町内会の目論見とは、ひとえに地域社会の高揚である。バブル経済の中で疎遠化しつつあった地域コミュニティを維持し、かつ、新たなローカリティ「下町」の下、既に失われていた過去の繁栄を現代に取り戻す意図なども働いていたに違いない。

 こうして一度は崩れかかった町内会は立ち直り、祝祭等を通じて観光地化を目指すこととなった。それはまた地域社会が、ドーアが記述しているような「どっちつかず」なイメージからの脱却を図るという意図であった。『谷根千』はその導因となったのである。ただし「下町」というイメージや、地域を総称して「ヤネセン」と呼び習わすやり方は『谷根千』編集者が必ずしも強調しようとしたところではない。地域振興をめぐって地域社会との間に意識の差異が少なからず見られたことも事実である。しかし『谷根千』は地域にとって「最も近い外部者」だったことは事実である。これが2009年に終刊して、今後根津の町が如何に変化していくかは未知数である。

少子化問題の現象化とその要因の再検討―岩手・一戸の出産調整のインタビューから

ミケーラ・ケリー(東京大学大学院総合文化研究科)

 今日の日本では、「家族が小さくなった(核家族化した)」、「女性が子どもを産まなくなった」といった一般世論をよく耳にする。血縁関係を重視した家族システムが衰微し、直系家族の「伝統」的でかつ理想的な形態が失われたという見解などもかなり浸透し、いわゆる少子化が社会問題化している。最近の日本では、多くの社会学者や経済学者、また政治家はこれを「超少子化」として扱い、「絶滅の危機にまで陥っている」日本人を増やす対策のために努力しているが、その少子化傾向には歯止めが利かないようである。

 社会問題化している少子化現象とは、合計特殊出生率というマクロからの視点による数値から議論される傾向が強く、生活者の視点からの問題設定が軽視されており、日本女性がどのようなプロセスで産む子どもの数を決めているのか、さらにはどのような要因に生殖が依存しているのかが明らかになっていない。本発表では少子化「問題」を問題として扱い、質的調査に基づいて、現代の出生力の抑制として働く多様な要因を考察する。

 本研究では、まず少子化に関する先行研究を、各学問分野から幅広く集め、これを問題視をする/しない研究などに分類して、少子化「問題」の要因を浮上させつつ、特に夫婦間の出産調整に関して焦点を絞った。先行研究のひとつアラン・マクファーレンの『イギリスと日本―マルサスの罠から近代への跳躍』(新曜社、2001)は、結婚・性的関係や受胎調整、中絶と嬰児殺しなど、家族レベルのミクロな観点から、江戸時代の家族における人口戦略を問うている。この研究を出発点とし、今日の生殖現象も文化の一環として捉え、主に女性たちはどのような過程で、誰と相談して産む子どもの数を決めているのかなど、これまであまり扱われてこなかった論点を、人類学的な調査に基づいて論じた。

 生殖の文化要因の底流と変化を知るため、岩手県の一戸町という山村で調査を行い、多因子によって規定される日本の人口調整システムを、現在の状況において捉えようとした。調査は2010年に6ヶ月に亘って、上記の問題をはじめ、一戸町の母子健康事業や子育てサポート事業などに関し、参与観察とインタビューを通して行われた。今回の発表では、修士論文のうち、出産調整の文化的要因のみ報告するが、詳しく話が聞けた12人の女性のインタビューから、今日の出産調整のシステムについて論じる。彼女たちは20代から40代、子ども1人から5人を持っており、子どもを産む選択とプロセスに関し、様々な経験と見かたを語ってくれた。

 インタビューを通して、今回は大きく分けて、6つの出産調整要因が析出された。現代の出生調整に影響を及ぼすものとして、【1】人工妊娠中絶に関する考え方、【2】夫婦の性生活の早期停止、【3】意図的な兄弟姉妹(キョーダイ)の出生間隔、【4】理想とする具体的な家族像、【5】三世代家庭での生活と【6】女性の社会的不全感などが導かれた。

 【1】に関しては、人工妊娠中絶の経験者は手術を行う理由を、自分の健康を守る手段としたり、親の指示によって自分の避妊法の一つとして使っているなど、様々な位置づけが明らかになった。12人の女性は妊娠中絶を支持する/しないを、自分または知人の経験に基づいて表現するが、そのナラティブの中に中絶に関する評価が含まれる。【2】の夫婦の性生活が停止することも、出産に大きな影響を与えていた。12人の女性のうち10人は、夫婦の性行為が全くなかった時期(セックスレス期間)や極端に回数が減る時期について語ってくれた。女性の多くは夫婦仲が悪くなってセックスレスになったと語ったが、夫婦の仲が良くても避妊法の代わりに意図的に性行為の回数を減すとした女性もいた。【3】については、12人のすべての女性は子どもの数やキョーダイの出生間隔について、理想とする具体像を持っており、それによって避妊したり、出産を早めたりしている。年子を産むことに家族員の反対に合った女性も少なくなかった。

 【4】に関しては、出産の適齢年齢と子どもの数が、主たるその基準となっていた。理想とする子ども数は2人から4人だったが、実際に産む子どもの人数に対しては、周りの家族員との食い違いが見られた。また夫と上位世代では見解が異なっている。【5】三世代で暮らす女性5人は、2人目か3人目の子を産もうと考えていた際に、実家の親を含む上位世代に反対された経験を語った。子どもが既にいる女性に対しては、それ以上産まないようにというプレッシャーが掛かる傾向も見られた。【6】の三世代家庭に住む女性は、8名だったが、6人からは孤独感などの不全感を抱いているかのようなナラティブが得られた。例えば、姑との仲が悪い子を一人持つ母は、子どもは欲しいが、仲の良くない間は産みたくないと語った。また子どもが生まれた後、仕事に戻った別の女性も、家での役割に不安感を抱き、理想とする2人目の子どもを産むことを遅らせていた。このような家族内や社会関係における不全感によっても、妊娠を避ける出産調整になっていることが、現代的特徴として明らかになった。

戦後日本の社会教育とキリスト教―宮城県登米市カトリック米川教会を事例に―

赤尾智宏(東北大学大学院文学研究科)

 昭和30年、宮城県と岩手県の県境にある登米郡米川村(現在は登米市東和町米川)で、308名という大量のカトリック・キリスト教の受洗者が現れた。これまでの事例研究では、このような大量受洗者をともなって地域社会にキリスト教が受容される要因として、本家、分家からなる同族関係や生活共同体の地縁的関係を介して受洗者が拡大していったことが指摘された。受洗名簿を基に調査したところ、米川村の事例は、受洗者の特徴として小中学生が圧倒的に多く、次いで成人の受洗者では女性が多く、当時の婦人会役員が多数を占め、特定の社会集団や個人によって受容されたことが明らかになった。一方で、婦人会長など役員が中心となり布教活動に積極的に協力し、そして、婦人会に影響力のあった米川村唯一の女性議員、沼倉たまきが中心となって発刊した『米川新聞』では、カトリックが肯定的に報じられ、布教の補助的なメディアの役割を果たしていたこともわかった。以上の調査結果から、『米川新聞』を資料に、これまでほとんど論じられることがなかった、受洗者側の資料から布教過程でそれぞれの地域社会の受洗者たちがキリスト教自体をどのように認識していたかという問題、すなわち、米川村での布教過程でカトリック・キリスト教が、どのように理解され、再解釈されていったのかについて考察することを本論文の目的とする。本論では、@宮城県での米川村の事例の位置づけを行い、A『米川新聞』での主張を明らかにし、Bカトリック・キリスト教を『米川新聞』の従来の主張の中にどのように取り入れたか、以上の三点を各章で論じた。

 第一章では、戦後の宮城県でのカトリック信者の受洗者数の増減、カトリックの布教活動とその形態を検討し、県レベルで米川村の事例の相対的な特徴を示すことを目的とした。その特徴として、県内最多の受洗者が現れたこと、司教を中心とした多くの布教者によって複数の布教の場が設けられ、また、女性議員の沼倉たまきとその影響下にある婦人会という特定の有力者や社会集団から布教への協力を得られたことなどが明らかにされた。

 第二章では、宮城県の社会教育政策と米川村婦人会の活動を考慮して、『米川新聞』を分析した。生活改善課の設置、婦人団体の誕生など宮城県の社会教育制度が整備され、生活改善運動・新生活運動の政策が実施される中で、『米川新聞』は昭和26年に発刊された。沼倉たまき自身が、村会議員選挙の公約として「切実な家庭婦人の声を議会に反映させ」ることを挙げていたこともあり、『米川新聞』に婦人団体の代表者による講演会が紹介されるなど、生活の合理化、婦人の地位向上といった県の社会教育政策と一致する主張を展開し、婦人会の啓蒙活動を紙面で行った。一方で、道路での子供の死亡交通事故や材木置き場での事故といった社会問題を改善するため、児童のための遊び場の設置についての婦人会側からの要望を新聞で報道した。沼倉たまきは、『米川新聞』で社会教育の必要性を主張することで婦人会活動を先導し、同時に婦人会からのニーズに応えることによって団体からの支持を得ることができた。

 第三章では、『米川新聞』の宗教に関する記事を参照しながら、カトリック・キリスト教がどのように報道されたかを確認した。『米川新聞』では、宗教に関する問題は取り扱われることはほとんどなかったが、伝統宗教である曹洞宗D寺の僧侶による不祥事をきっかけに宗教が主題として議論されるようになる。D寺は、葬儀のみを取り行う「トムライ宗教」と批判され、D寺による「社会教化」の重要性も指摘され、宗教が「社会教育」や「社会教化」を行うべきであると論じられる中で、カトリック・キリスト教の布教が昭和29年に開始される。『米川新聞』は、カトリック側の布教の中心人物であった仙台司教区の小林司教の説く「愛情」に関する問題と向き合うことがなければ、社会教育政策も無意味なものとなってしまうため、小林司教の宗教家としての態度は、「社会教育」に欠けていた要素を補う重要なものであると評価し、そのカトリックの重要性を「社会教育」と関連付けて報道した。カトリック側も、幼児教育といった婦人会の社会的欲求に応えるかたちで効果的な布教活動を展開し、昭和30年に3度の集団洗礼で308人の受洗者を獲得し、カトリック米川教会が設立された。

 本論文で取り上げた米川村の事例では、『米川新聞』というメディアにおいて、カトリック・キリスト教が、その教義などよりもむしろ社会教育と関連させて語り直されたことを実証することが出来た。結果として、社会教育活動に積極的であった婦人会の役員が中心となって布教に協力し、その多くが受洗することになった。

文化復興の中の伝統技術―台湾原住民族の機織りにおけるモノと人の変容過程―

田本はる菜(筑波大学人文社会学研究科)

 本論文は、「台湾原住民」における近年の手工芸の復興を取り上げ、古い在来技術を現代に再び甦らせようとする営みの中で、在来技術と人びとのあり様がいかに変容し、新たな人やモノのつながりのなかでいかに再編されているのかを考察するものである。

 台湾における80年代以降の民主化の進行と原住民族運動の高まり、90年代以降の政府による文化政策等を通じて、各地で衰退しつつあった台湾原住民の在来技術に復興の動きがみられるようになった。本論文で取り上げたのは、南投県仁愛郷における原住民セデック族の機織りである。復興の取り組みは、機織りを経済及び文化活動、教育などの枠組みを通じて推進していくものであり、セデック族の人びとはこうした新たな環境の中で再び機織りを始めることになった。

 台湾原住民における文化復興を考える上で、本論文では、80年代以降登場した非西洋の工芸/芸術をめぐる人類学的議論と、近年の台湾原住民研究の関連性から、その課題を指摘した。J・クリフォードに代表される文化表象批判の議論は、工芸/芸術を含む非西洋の文化を一方的に価値づけ、それを正当化してきた西洋の言説、イデオロギー、制度への批判として力をもってきた。これに伴い、非西洋の作り手自身による、主体的な意味づけの実践に注目が集まるようになる。台湾原住民研究においても、80年代以降の原住民主体への関心の高まりに伴い、工芸/芸術をアイデンティティの表象として説明する論調がみられる。しかし、出来上がった作品の表象(意味)をめぐるこうした議論では、制作のプロセスや物質性は見落とされてしまう。また在来技術を丹念に記述してきた物質文化研究は、過去の記録として現在から切り離されていく。台湾原住民の手工芸は、過去の物質文化か、意味として残る文化のいずれかとしてしか理解することができないのだろうか。こうした問題に対し、本論文では、アクター・ネットワーク理論を援用し、原住民工芸の復興を表象や意味の次元に還元せず、意味とモノを含むハイブリッドなネットワークとして説明していくことで、これを理解することを試みた。

 発表では、事例として、南投県仁愛郷のセデック族の「腰機」と呼ばれる在来織り機とその慣習的利用について紹介し、これが工芸復興の中で外来織り機に取り換えられていった過程を取り上げた。

 腰機の道具としての特徴は、経糸を織り手の足と腰で保持すること、したがって織り上がりの布が足のほぼ二倍を限界とし、最も生産性の低い織り機として位置づけられていることである。また身体を織り機に組み込むことにより、足腰を使って、糸の緩みと緊張を調整することが必要になり、技術の習得には時間がかかる。しかし慣習的な機織りでは、こうした効率性はさして問題ではなかった。機織り技術の習得は、一人前の女性になるために不可欠であり、技術に熟練することは、女性の美しさに関わる名誉とも結びついていたためである。

 近年、手工芸復興の取り組みとして、セデック族を対象にした「織物講習会」が学校や役場を通じて開かれるようになると、ある問題が生じた。伝統技術の担い手となるはずの若いセデック族は、在来の腰機をうまく使うことができなかったのである。身体動作に大きく依存し自由のきかない腰機に、子どもや女性たちは、足の痛みや電話が来たときの面倒臭さを訴えた。これを解決するために、その欠点を有しない「卓上型織り機」の導入が検討された。原住民エリートや学校組織は、当初の腰機による伝統技術習得ではなく、卓上型による伝統技術習得へと目的を変更していった。卓上型による講習会は成功し、セデック族の女性たちは、講師として活躍するようになった。

 工芸の復興が可能にした、「伝統技術の継承」という成果は、初めから予定通りにいったわけではなく、新たに加わったモノを不可欠に成り立っていた。またこの過程で、「伝統」や「原住民工芸」とみなされるものは、新たなモノの導入や目標の変更によって概念的・物質的に変化した。

 人やモノのネットワークという捉え方はこのように、作品を表象の問題に還元するときには見えなくなる、制作途中の人やモノのミクロな関わりあいに光を当てることが可能になる。これにより、本論文で取り上げたように、文化復興の中で、逆説的にも「文化」そのものが変容・再編されていく側面を理解することができる。この方法はまた、モノの記録としての物質文化研究か、表象の政治性・アイデンティティの先住民研究の二者択一ではないやり方で、現代に生きる先住民族のあり方を知るための、一つの切り口となりうると思われる。

中世絵巻における身体表現の研究―笑う・泣く・乳房を出すしぐさから―

内藤久義(神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科)

 中世絵巻に描かれる人物のしぐさには、排除や差別・弁別の意識を表す記号が付されていると仮定し、日本の中世絵巻から、これらを指示するしぐさの記号を抽出し、記号論、テクスト・コンテクスト論を援用し分析を行った。しぐさとは無意識に行う身体表現である。しかし、しぐさの背後には、絵巻に描かれる人物が所属する身分階層、通過して来た歴史や文化が沈められたコードとして身体に内在し、ある時しぐさとして表出するのである。本論考では中世の身分を大きく高位層と下位層とに区分している。高位層は支配的立場である貴族、武士であり、下位層はそれ以外の支配される側、凡下および周縁の者たちと規定した。

 絵巻の身体表現には高位層である発注者とそれを享受する側からの、排除や差別・弁別の画面上への投影があるとして論を展開する。差別意識の画面上への投影とは、絵巻の発注者(享受層)が下位層をどのように捉えていたのかという視線である。その視線は絵巻の身体表現や、画面内に描かれた人物の位置関係から推察できる。周縁の者とされた人々は烏帽子を被らず、しばしば、色が黒く、細く、醜く(大きな耳、陥没した鼻、大きな鷲鼻、突出した額等)描き、ハンセン病者においては白い覆面、柿色の衣服の着用、また描写されるポジションは、画面中央から外れた位置に描く絵巻もある。対照的に高位層は色が白く、引目鉤鼻・下膨れの輪郭・おちょぼ口でふっくらとしたプロポーションで描写されることが多い。

 これらは画面上への排除や差別・弁別意識の投影である。さらに人々のしぐさにおいても、身体表現という記号になって描かれると考え、絵巻のしぐさを解体し再構築することで、身体の奥に潜む排除や差別・弁別の意識を浮かび上がらせて行く。

「笑う」「泣く」「乳房を出す」という三つのしぐさには、これらの画面上への投影があると考え分析対象とした。平安時代末期から室町時代末期までに描かれた六十三点の絵巻を中心に、その中から当該事例を抽出し分析を行った。

・「笑う」

 笑うこととはうれしさや喜びを表現するだけではなく、相手を侮蔑・嘲笑する笑いがあると考え、このタイプの笑いのしぐさに、排除や差別の記号を見出し検討を行った。

 六十三点の絵巻中、「笑う」人物延べ六八一人を抽出し、その中の笑う人物を「哄笑」「笑う」「微笑む」「ほくそ笑む・残忍な笑い」の四タイプに選別した。なかでも合戦絵巻の戦闘や捕虜を処刑する場面に独特の笑いが見られた。この笑いは「ほくそ笑む・残忍な笑い」に選別し、絵巻の詞書、描かれる状況から、排除や差別が記号として付されていると規定した。

・「泣く」

 泣くことは単に内面の感情が涙となって表出するだけではなく、高位層においては、泣くこと自体に「雅やか」「優雅」といった文化的に洗練された記号を有していることが検討から確認された。

 泣くしぐさには高位層と下位層を弁別するコードがある。「泣く」とは悲しみの情動だけではなく、衣服の袂で顔を覆い洗練されたしぐさとして泣く高位層、大きな身体動作で手を使って涙を拭い、悲しみをストレートに表出させる下位層と大別できる。絵巻の発注者とその享受層には、泣くことにおいて文化や身体などを含み、高位層と下位層を弁別する観念があった。それが絵巻の泣くしぐさにおいて表現されている。

・「乳房を出す」

 絵巻において、高位層の女性が乳房を出して描かれるのは、死体、瀕死、狂乱と非常態であるのに対し、下位層では洗濯や授乳など、日常の場面で乳房を出すという相異があった。高位層の女性が乳房を出す場面には、男性性のまなざしが強くあったことがうかがえる。

 下位層には井戸端で乳房を出し、足踏み洗いの洗濯をする女性がいくつかの絵巻に描かれる。彼女たちは井戸という境界的場で洗濯を行い、踏むという呪術性を帯びた身体行為を伴う。洗濯女は古代より賤業視されていたと考えられ、穢れたものを清めるという行為には、斃牛馬や死体の処理を行う、清目や穢多と称される周縁の人々と同じ職能を持つのではないかと推測した。

 絵巻に散見するしぐさから、現在にまで連綿と続く排除や差別・弁別の記号があることが確認された。これを、「現在」という時間にきちんと置換しなければならないと考える。今後の研究課題として、中世の差別・排除の意識が、現代とどのような接点を持ち継承されて来たのかをさらに追究したい。

身体伝承と妖怪

三柴友太(國學院大學大学院文学研究科)

 人間と妖怪の間で、ある特定の身体部位を介して、相互の交渉が持たれる場合がある。その人物の生命を象徴する部位としてのへその緒、生命だけでなく人格をもあらわす毛髪や爪、あるいは喉仏の骨などの身体に対する高い関心は、伝承や儀礼などに明確にあらわれている。さらに乳幼児への「背守り」からは、背中がその子の生命に関わる重要な箇所として認識されていたことがわかる。

 そうした身体部位のなかでも、修士論文では、特に足に注目した研究を行った。足とは、特に妖怪との接点になりやすい箇所である。たとえば沖縄、奄美諸島には、妖怪に股の間を潜られると魂をとられる、腑抜けになるという伝承が数多く存在するし、他にも、夜道で人間の足にまといつく「ノツゴ」や「ウブ」、「アシマガリ」といった妖怪の伝承は、枚挙に暇なく存在する。本発表は、足にまつわるさまざまな妖怪伝承、及び俗信を再検討することによって、日本人の身体認識の一部を明らかにする試みである。

 方法としては象徴論の立場に拠るが、検討に際しては、個々の伝承の細部に出来うるかぎり密着する。その伝承の主題に注目し、それをメタ言語として抽出する方法も無論ひとつの立場ではあるが、従来の民俗学では、個々の妖怪伝承の細部に、あまり目を向けてこなかった。細部を無視したまま主題を明らかにしたところで、その伝承の本来的な意味を明らかにすることは難しいだろう。発表者の研究態度は以上のような問題意識に立脚している。

 足とは、人間の身体が持つ鋭敏な感性を、如実にあらわす身体部位であり、それはまた、人間と神霊とのひとつの交流のありかたをしめしてもいる。神霊が人間に対してなにがしかのメッセージを送り、対する人間はそれを読みとって、彼らの要求に応える。足とは異界との接触を可能とする、媒介としての身体なのである。

 またそうした足に寄り来る妖怪の多くが、いわゆる「路傍の怪」(夜道に出没する妖怪)であることは注目に値する。「路傍の怪」の伝承は、人間の視覚外の空間―足元・背後―に触覚や聴覚といった視覚以外の五感―特に聴覚と触覚―が強調されたかたちで存在している。夜道を歩行するとき、人間の意識は必然的にその足元に向かうだろう。足とは歩行の軸となる箇所だが、暗闇によって人間の視力が奪われ、足元も定かならぬような場合には、反転して最も不安定な箇所に変貌するのである。つまり足に寄り来る妖怪とは、そうした不安定な身体としての足に向ける、人間の微妙な意識の反映として生み出されたものだといえよう。こうした伝承は人間の身体感覚・空間認識の差異について検討する上で、重要な材料となりうるものである。

 以上で述べたような足の特異性は、他の身体との比較によって、より明確になるだろう。そこでとりあげたのが、人さし指と「指差し」の禁忌である。足にまつわる俗信においては、たとえば「踏む」俗信(味噌を踏めば足が腐る、卵の殻を踏むと字を忘れる、頭が悪くなる)や「足占」の呪法にみられるように、その偶然性が際立っていた。対して、人さし指と「指さし」の禁忌からは、そのものを特定し、指示するという、手指の意思性乃至必然性が垣間見えてくる。現代社会においても「指さし」とは忌避される行為だが、そうした感情の背景には、そもそも「指さし」という行為が呪術的な行為であった可能性が考えられる。

 先述したように足とは妖怪との接点になりやすい箇所であり、特に視覚の奪われる夜道という状況下では、さまざまな妖怪が寄り来る、受動的乃至感性的な身体である。反対に手指とは、「マノフィカ」(女握り)、「ニガ手」(蛇を掴む素養)などの特殊技術を多く有する、積極的、あるいは技術的な身体ということができる。足とはそうした手指の特殊技術によって防禦される、ひとつの急所なのである。

 人間は普通、自己の身体をその生命活動の軸点とし、個々の身体部位を道具として使用する。以上の意味において、身体とは人間の所有物である。とはいえ、少し視点を変えてみれば、身体とは、歴史や文化といった制度によって捕捉され、決して私の自由にはならないものともいえるだろう。

 今後は足や手指だけでなく、他の身体にも焦点を当てた研究を継続していくつもりである。眼や耳、毛髪、爪など伝承と密接なつながりを持つ身体部位は多くとも、これまで体系的な研究がなされてきたとはいいがたい。課題は山積しているが、本発表を糸口として、より詳細な研究を行っていきたいと思っている。

参考文献

  • 柳田國男「にが手と耳たぶの穴」『民間伝承』8巻5号 1927年
  • 澤田四郎作「山での事を忘れたか」『旅と伝説』9巻4号 三元社 1943年
  • 常光徹『しぐさの民俗学−呪術的世界と心性』ミネルヴァ書房 2006年