第857回談話会要旨(2011年7月30日=第63回年会プレシンポジウム「文化的景観と原風景」)

※『日本民俗学』268号より転載しました。引用等につきましては「日本民俗学会ウェブサイトご利用上の注意」をご確認ください。

企画趣旨

 文化的景観は、民俗学が積極的に発言すべき対象といえるが、これまで斯学の知見がどこまで汲み上げられてきたのか定かではない。

 現在、文化財保護行政上の文化的景観は、文化的景観としての価値をいかに証明するかということと、その価値を具体化するための保存管理計画をどのように立てるかの2つが両輪となって動いているといってよい。

 前者の価値の証明には、しばしば「景観の重層性」というキーワードが使用される。これは、現在の景観は、地域における生業や生活の変化に対応した土地利用が累積して現出したものであるという理解に基づくが、その考え方の背景には、文化的景観は変化するものであるという大前提がある。つまり、ある時代に形成された景観(自然も含む)に、次の時代の景観が規定され、それが繰り返されて現在の景観が生み出されたというものである。

 景観の重層性というのは、換言すれば、景観変遷史を踏まえつつ、こなれていない表現であるが、「「景観的残存」を掬いあげようとする試み」であるといえる。「残存」の扱いは、我々民俗学が最も得意としてきた方法であり、その危険性を含めて、何を提言できるのだろうか。

 実際の行政施策である文化財選定は、「景観的残存」を再構成して新たな価値を作る試みとなるが、そうした価値の固定化(文化財選定)は何を生み出すのであろうか。「なつかしい日本の風景」「原風景」を再考する際にも文化的景観はよい素材である。本シンポジウムではこれらの問題点を踏まえ、民俗学・歴史学の立場から多角的に文化的景観と原風景論の関係について考えうとした。(村上)

  • パネリスト:川村清志、水野章二、篠原 徹
  • コメンテーター:菊地 暁、須藤 護
  • 司会・コーディネーター:村上忠喜

錯綜する祭りへの眼差し――石川県輪島市皆月山王祭りの景観の再構成

川村清志

 本発表では祭りという非日常的な場で、景観がどのように再構成され、地域の人々に内在化されているかを検討する。本発表では景観を、自然と人工物が組み合わされた外界のなかから、人々が選び出した生活世界の表象と考える。また、本論で検証する事例としては、石川県輪島市皆月で行われる山王祭りについて報告する。

 景観をめぐる議論では、相反する視座が存在する。一つは、景観をそこに住まう人びとの生活の積み重ねのなかで、自然発生的に生成されてきたものと捉える視座である。他方で景観とは、外部からの眼差しによって構成され、創出されたものと捉える構築主義的な視座も存在する。本稿は、基本的には後者の立場に立ちつつも、次の三点を論じることで、上記のような二項対立の図式を相対化していきたいと考える。

  • (1)外部からのまなざしを引き受けつつ自己組織化される景観のあり方
  • (2)固有の視座を可能にする実践と表象の結節
  • (3)内在的な視点を含みこんだ映像化(新たな景観の提示)の試み

 本発表では、まず、祭りにおいて景観が構成される過程について考える。そもそも祭りは、生活世界に住まう人々自身が、特殊な時空を設定することで景観を演出する場である。本発表が対象とする山王祭りならば、提灯にぼんぼり、のぼりや旗、参道にまかれた塩。何よりも、曳山や神輿の行列。それらが、風や日光、設定された時間帯などの自然環境と重なりあい、祭り独特の景観を構成していた。重要な点は、祭りの表象が地域の人びとによって自覚されており、彼ら自身が直接的、間接的に関与することで、景観の構築に関わってきたということである。

 これらの内在的な景観に対して、「外部」からの眼差しによる景観の再構成も行われている。ここではその端的な事例としてマスメディアによる祭り表象の傾向を示すことになる。そこで紹介された祭りの画像や映像が、伝統性や地域性を強調したステレオタイプを再生産していることは、これまでに発表した通りである。

 これらの事例を踏まえたうえで、地域内における二つの画像表象を紹介したい。その一つは、地元の小学校同窓会誌に掲載された祭りの画像である。撮影者は、地域内外の写真愛好者とも交流のある地元の元教員である。彼の写真画像は、「外部」の視線をそのまま内在化したかのように伝統的な側面が強調されている。彼は戦前の生まれであり、高度経済成長における地域の変化を目の当たりにしてきた世代である。彼が描きだす祭り表象も、失われしまったかつての景観を想起させるものになっているのかもしれない。

 もう一つは元青年会長によるインターネット上の画像表象である。彼は、現在40代後半であり、地域の日常的な景観が、決定的に変化したあとを生きてきた世代である。彼が紹介する祭り画像では、地域の歴史や祭りのなかで記憶された場所と、祭りの現在を重ねあわせて表現している。つまり、同時代で更新される祭りを見据えつつ、かつての祭りの姿を複眼的に捉える視点をもっているといえる。

 このような表象は、しかし、単に世代差として捉えるべきではない。むしろ、彼が祭りの中心的な立場にあったことが、このような表象と密接に関連していると考えられる、祭りの実践における感性、祭りへのこだわりが、このような歴史や記憶とも関連づけられた景観の構成を可能にしているのではないだろうか。それは、他の祭りの当事者たちが、祭りにおいてアド・ホックに構成してみせる「見立て」の延長と捉えられるかもしれない。

 ここでいう「見立て」とは、祭りの一場面、とりわけ、当事者たちが好む一場面を、あり合わせの道具や、周囲の環境を利用しながら再現してみせることを指している。それらが顕著に現れる現場として、ウラ祭りの事例を紹介したいと考える。ウラ祭りは、青年会役員を中心とした祭りの打ち上げである。その場には祭りに深く関与する者たちが集まっており、それぞれが祭りへのこだわりをもっている。言い換えれば、彼ら一人一人が、自分のなかで祭りの景観を再構成し続けているのである。

 最後に、研究者である私が、祭りの内側の視線、周囲の景観を取り込んで制作した映像を提示したい。私はこれまで20年以上にわたってこの祭りに関与してきた。この数年は、役員として祭りの運営に関わることになっている。そのような経験と人間関係を背景として祭りの映像を制作してきた。そのなかから祭りの内側に入り込んだ映像、祭りの当事者たちが関心を抱く映像、さらに祭りの現場で周囲の環境を利用した映像についてみていきたいと考える。これらの試みは、地域社会において民俗学者が何を学び、何を還元するかという、いまだに放置されたままの問いかけに対する応答の一つにもなるだろうと考える。

文献史学における景観―日本中世史を中心に―

水野章二

 景観は二〇世紀に入ってから使用された翻訳語であるが、奈良時代に確認できる漢語の風景などとの相違を含め、地理学・造園学・工学などのさまざまな分野において、それぞれ独自の定義や研究がなされた。文献史学においては、特定の時代における特定の場を構成する諸要素(集落・耕地・宗教施設など)を具体的全体的に把握し、復原する場合などに使用される用語で、明確な定義づけはなされていない。

 しかし文献史学においても、耕地や村落などの形態に対する関心は古くからみられ、古代の条里地割・中世の谷田といった各時代を代表するとみなされる景観を抽出して、通史的に叙述する試みがなされてきた。六〇年代には、薩摩国入来院など、農民住居と保有田地が空間的に密着した形態をとる小村・散居型村落を、中世村落の端緒的・一般的な形態とし、領主が農民を個別的に支配・掌握する中世的領主―農民関係の原型とする永原慶二の研究が登場する。村落景観の持つ多様性を共同体の発展段階の差ととらえ、生産力の低い辺境地帯の小村・散居型村落を中世村落の原点に置くなど、景観を中世史研究に積極的に位置づけたものであったが、当時は支配構造論的研究に関心が集中しており、景観の歴史学的評価をめぐる生産的な議論はなされなかった。

 八〇年代以降になると、乱開発や過疎の進行に対応して、現在に伝えられた地名・地割・用水系などを含む歴史的景観の総体を遺跡としてとらえ、現況の記録作成を主目的とした精度の高い現地調査が、全国各地で実施されるようになる。支配構造論的な研究が後退する一方、社会史的な関心が広がり、文献史料には支配の対象とされた部分しか現れないという限界を意識して、生活空間全体の把握をめざした研究(村落領域論など)も進められる。これらの景観への関心を基礎にした研究は、文献史料の状況などから、中世史研究者が最も熱心に取り組むことになる。

 現実の景観は重層的で、長い時間的経過のなかで積み重ねられ、変化しながら形成されてきたものであるが、これらの研究では文献史料との接点を、地名・水利システム・寺社・石造物などの多様な視点から掘り下げ、各時代が現景観に刻印した内容を確定するとともに、考古学・歴史地理学・民俗学などと連携した多面的な分析方法がとられた。考古学などは、集村化や地割の展開過程といった景観変化の時期確定において、大きな役割を果たす。この結果、荘園制が確立する平安末・鎌倉初期は、集落遺跡のあり方や条里制、用水開発の面などからも大きな画期で、鎌倉末・南北朝期には、畿内周辺の多くの地域で、集村化などの村落再編の動きが顕在化する事実など、景観の変容過程とその意味が明確になった。一部には、立地条件から村落景観を類型化することによって、景観の変化ではなく、個別性の認識に重点を置いた研究もみられる。

 文献史学は方法と対象を拡大しながら、景観の歴史学的分析に向かったが、それは人と人の関係とともに、人と自然の関係を組み込むことであった。近年ではその延長線上に、人と自然の関係の双方向性を意識した、環境史・「人と自然の関係史」が展望されている。

 一九九二年から世界遺産条約のなかに、「自然と人間との共同作品」である文化的景観概念が導入され、「人間社会又は人間の居住地が、自然環境による物理的制約のなかで、社会的、経済的、文化的な内外の力に継続的に影響されながら、どのような進化をたどってきたのかを例証するもの」(世界遺産条約履行のための作業指針)と規定された。二〇〇四年には文化財保護法が改訂され、「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの」と定義された文化的景観が、新たに文化財として位置づけられる。文化的景観を自然と人間の相互作用のなかでとらえる世界遺産条約とはやや異なっているが、上述した文献史学における景観への関心と重なり合うもので、「景観とは人間をとりまく環境のながめ」とする工学などとも接点を持ち、景観をめぐる議論の共有が可能になりつつある。

 なお近年、環境問題への関心の高まりを背景に、里山や棚田を対象とした研究が注目されている。近代化以前の伝統的なムラ社会に、自然の持続的利用を可能にする仕組みがあったことが重視され、生物相豊かな里山や棚田の景観は、環境保全にも重要なヒントを与える「日本の原風景」とも評価されている。里山という言葉は古代・中世には存在せず、その経済的価値が喪失されていった一九八〇年代以降に定着した。明確な定義はないが、民衆が確保した生活空間の不可欠な一部としての山野(後山など)は、平安末頃から姿を見せ始め、過剰利用・荒廃や管理強化、周辺地域との契約・紛争などを繰り返しながら推移した。棚田をめぐる状況も同じで、水田開発は最も効率的な地点から開始され、その後に条件の劣る地域に及ぶが、地形条件や人口圧などによって、さまざまなレベルの開発が複合的に展開していく。現在みるような傾斜地一面に棚田が拡がる景観は、やはり近世以降を待たねばならず、相対的に遅れて開発され、多大な労力を投下して造成・維持された耕地である。棚田の持つ景観的美しさはその反映であり、その分、放棄されるのも早い。

 棚田・里山の歴史は多様な自然との関わりのなかで考えていく必要があるが、「自然との共生」などの一元的な評価は困難である。それは過去(縄文時代や近世など)に人と自然が調和していた段階を想定し、そこから現代社会や欧米文化を批判する論調ともつながる。「日本の原風景」という表現は、伝統的で長く継続した懐かしい風景という印象を与え、棚田・里山=「日本の原風景」論は、保存運動としては訴えかけるものは大きいが、歴史学的事実とはやや異なる、多分に現代人の郷愁・願望が投影されたイメージである。ただし棚田・里山が、長期にわたる試行錯誤のなかで地域社会が作り出した重要な景観であることは、十分に評価されるべきと思われる。

  • 渡部章郎・進士五十八・山部能宜「地理学系分野における景観概念の変遷」(『東京農大 農学集報』54-1、2009)
  • 同「造園学分野および工学分野の景観概念の変遷」(『東京農大農学集報』54-4、2010)
  • 古島敏雄『土地に刻まれた歴史』(岩波書店、1967)
  • 永原慶二『日本中世社会構造の研究』(岩波書店、1973)
  • 日本村落史講座編集委員会『日本村落史講座』景観T(雄山閣出版、1990)
  • 石井進編『中世のムラ 景観は語りかける』(東京大学出版会、1995)
  • 海老沢衷『荘園公領制と中世村落』(校倉書房、2000)
  • 水野章二『日本中世の村落と荘園制』(校倉書房、2000)
  • 金田章裕『微地形と中世村落』(吉川弘文館、1993)
  • 原田信男『中世村落の景観と生活』(思文閣出版、1999)
  • 飯沼賢司『環境歴史学とはなにか』(山川出版社、2004)
  • 水野章二『中世の人と自然の関係史』(吉川弘文館、2009)
  • 高木徳郎『日本中世地域環境史の研究』(校倉書房、2008)
  • 中島峰広『日本の棚田』(古今書院、1999)
  • 水野章二「里山・棚田の歴史と利用―成立過程を中心に―」(『棚田学会誌 日本の原風 景・棚田』11(2010))
  • 水野章二「古代・中世における山野利用の展開」(『林と里の環境史』、文一総合出版、2011)

「「故郷の精神誌」再考―原風景論と民俗学」

篠原 徹

 故郷や旅に関わる言葉として、帰郷・離郷・在郷・同郷・異郷などがあるし、文化の故郷などの表現には原型的、原風景的、原郷などの言葉がまとわりつく。前者に共通する「郷」とは何か、後者に共通する「原」とは何かがわかれば故郷も原風景の意味も明瞭になるかもしれない。この報告では原風景としての故郷像について三つの系譜があることを指摘し若干考察してみたいと思う。

 坪井洋文は故郷論に関してきわめて興味深い論考を一九八六年に発表している。論考「故郷の精神誌」(日本民俗文化大系第一二巻『現代と民俗―伝統と変容―』昭和六一年、小学館)のなかで坪井は、「家庭アルバム」と「故郷」という2つのキーワードで、戦後の日本社会の人びとの「故郷」、「離郷」、「在郷」、「帰郷」などの現代的問題を鋭く論じている。

 坪井はまた農村居住者と都市居住者の割合の変化のなかで故郷観が質的な変化を起こしていることを指摘している。離郷者にとって故郷は原風景として変わらないでほしい風景のなかにあるのか、あるいは故郷で生活を一時的に家族と共棲したなかにあるのか。故郷自身が変化していることを奥飛騨の山村を例にとり述べることが坪井の主張の主眼ではあったが。

 故郷の風景は変わるけど、変わらない生活の象徴としての家庭アルバムの存在こそが離郷者と在郷者をつなぐ絆なのではないか。ただ離郷や在郷あるいは帰郷のありようは少なくとも日本の近代百数十年のあいだでも大きく変化している。坪井の指摘を近代(あるいはさかのぼって近世を含めて)のなかで再考してみたいというのが本報告の目的である。

 明治初年(一九六八)の日本の人口は約三三〇〇万人であったといわれる。そのなかで農村居住者は九〇パーセントを占めていて、都市居住者はわずか一〇パーセントにすぎなかった。この状態は近世期から昭和初年(一九二六)まであまり変化がなかった。旅はするけれども生涯を在郷で過ごす人が圧倒的多かった。そのなかに故郷をでて帰らない漂泊者たちがわずかにいた時代といえる。在郷者と漂泊者の時代と名付けておきたい。漂泊者の故郷観は帰りたくとも帰ることができない憧憬としての望郷であった。この系譜は近代になっても現在でも原型としての故郷観として日本文化の中に存在する。

 昭和初年(一九二六)の人口は約六〇〇〇万人であり、そのうち農村居住者は八〇パーセント、都市居住者はやっと二〇パーセントに達した。この時代からアジア・太平洋戦争を挟んで戦後の高度成長期まではほとんどが労働力として出郷する向都離村の時代で、多くの人が故郷に錦を飾るため帰郷を前提とした離郷者を輩出したのである。これを帰郷(現実に可能であったのかどうか別であるが)への離郷の時代と名付けておきたい。実際には成功して故郷に帰ることは少なく、むしろ都会生活に嫌気がさすか敗北して帰郷するほうが多かった。敗北の故郷観といっていいだろう。

 さて高度成長期であるが、昭和六〇年(一九八五)には人口一億二〇〇〇万人のうち都市居住者は八〇パーセントを超え、完全に都市と農村の関係は逆転した。集団就職列車に象徴されるように盆・正月の帰省はありはするものの基本的には帰郷という退路は断たれた離郷者の時代といえる。これを異郷への離郷の時代と名付けておきたい。近代から現代にかけて、圧倒的に多い退路を断たれた人びとの故郷観は、郷愁としての故郷が核をなしている。

 そして現在の状況であるが、二〇一〇年では日本の全世帯数五三、三六二、八〇一世帯のうち農家世帯数は二、八四八、一六六世帯であり全世帯数に占める割合はわずか五・三パーセントである。もはや農業や漁業という第一次産業に従事する生業は日本社会のなかではマイノリティーなのである。都市的な生活者は先に述べた「帰郷への離郷の時代」と「異郷への離郷の時代」の人びとの二世や三世が中心である。都市の在郷者が多数を占める時代なのである。「新たな在郷者と異郷者と移動者の時代」と名付けておきたい。

 日本の近代を都市と農村の人口の割合をベースに四つの時代に区分してみた。この4つの時代における「故郷の精神誌」を考察するのであるが、その素材として近世、近代の詩人たちの俳諧俳句・詩をとりあげてみたい。近世では漂泊者としての芭蕉や蕪村が故郷をどのように詠ったのかをみてみたい。事情があって帰郷できない漂泊者の心性は近代の詩人のものと基本的に異なる。

 近代では叙情詩を確立した萩原朔太郎と室生犀星の故郷観を彼らの故郷を詠んだ詩から考えてみたい。朔太郎の「郷土望郷詩」も犀星の「抒情小曲集」もどちらかというと故郷賛歌とは逆であり、近代に飛翔できない古い故郷を恨み呪うことから始まる。そして都会で敗残し懐かしの故郷に帰郷するというパターンなのである。敗北の故郷観の典型である。

 もうひとつ尋常小学校唱歌の作詞者である高野辰之の「故郷」をとりあげてみたい。いうなれば労働力供給のため向都離村する人びとに対して、国民国家が都市と農村を望郷や郷愁でつなぐ装置としての唱歌の側面である。唱歌の「故郷」は明らかに近代の詩人たちの「故郷」とは異なっている。日本の近代にはこの2つの系譜の故郷観があるが、現在が「新たな在郷者と異郷者と移動者の時代」のなかの「故郷観」や「原風景」はどのようなものになっているのであろうか。郷愁としての故郷観には国家の装置としての役割もある。

コメント1:発生的景観と統制的景観

菊地 暁

 「景観」と「民俗学」の関係を考えることは、なかなか厄介な問題だ(*)。

 「景観は民俗学的課題である」という命題はそれなりに根拠がある。というのも、生産・生業研究、民家・村落研究、地名・伝説研究など、民俗学のさまざまな分野において、景観に関わる作業は既に相当な厚みをもって蓄積されており、また、柳田国男なり今和次郎なり宮本常一なり、「景観」論の先達も少なくない。椿は天然記念物ではなく史跡であると論じた柳田の「椿は春の木」(一九二八年放送)などは、近年脚光を浴びている「文化的景観cultural landscape」概念の先駆として注目すべきものだろう。日本民俗学の蓄積は、景観の現在を考えるにあたっても基本的に有効なはずである。 

 一方、景観をめぐる昨今の動向は「景観は民俗学的課題ではない」という正反対の命題にも相応な根拠を与えている。「景観」が「価値あるもの」「守るべきもの」として活発に言説化されるようになったこと、観光産業や不動産業を中心に「景観」の商業化が進められたこと、そして、景観法制定や文化財保護法改正による「文化的景観」の導入など(いずれも二〇〇四年)、「景観」の法制化が進められたこと、である。こうして作りあげられた「景観」をめぐるマクロなコンテクストに、ミクロなフィールドに根ざした民俗学の視点がフィットしないのも、当然かもしれない。「景観」は疎遠で無縁だという実感も無視できないわけだ。

 「景観」は民俗学の課題のようでもあり、違うようでもある。この一見混乱した状況は、生活者の身体性から産み出される「発生的景観generative landscape」とシステムの管理要請から産み出される「統制的景観administrative landscape」とのギャップとして概念化できるように思う。

 「発生的景観」とは、生活者がその生活を支えるため、さまざまな契機で周囲の環境に働きかけることによって作り出される景観のことであり、注目すべきは、これが多元的、多焦点的な構造をもつこと、すなわち、行為者が異なれば景観の受容は異なり、さらには同じ行為者であっても実践が異なれば景観の受容が異なるということである。現実の景観は、その多元性のある時点における妥協点であり、いわゆる「優れた」景観とは、長い時間を経てその妥協が「しっくりした」ものをいうのだろう。

 一方、「統制的景観」とは、政府やデベロッパーによる大規模な都市計画、住宅地開発、景観保全、等々、強力な主体により統制される景観のことであり、注目すべきは、これが特定の設計者ないし管理者をもち、それゆえに、一元的、単焦点的な構造をもつことである。特定の景観に「美しい景色」「豊かな自然」といった特定の意味=機能を一義的に付与するのはその一端といえるだろう。

 システムサイドの「景観」への介入、すなわち「統制的景観」は、ますます拡大深化するが、その一方、生活者の産み出す「発生的景観」は、必然的にそこからこぼれ落ちる要素を抱え込み、齟齬や葛藤が引き起こされる。今日の景観をめぐる状況をそのように見通すことが可能である。

 さて、「民俗学」はどうすべきか。端的にいって「民俗学」すればよい。民俗学がどこまでも「眼前の事実」から出発するものであるなら、そして「景観」をめぐるさまざまな齟齬と葛藤が「眼前の事実」として存在するなら、それらは当然民俗学の射程に収められなければならないし、そしてそれができないのだとすれば、それは景観論として不十分なばかりでなく、民俗学としても不十分なものだろう。

 最後に、プレシンポの報告と議論を通して考えさせられたのは、民俗学は「見ること」を不当に軽視してきたのではないか、という疑念だ。三部分類により、心意伝承こそが郷土人の内省を通じてのみ到達可能な民俗学の究極目標とされた際、旅人の目を通じて観察可能な有形文化は、「初級編」としていささか軽んじられたきらいがないではない。しかしそれは明らかに三部分類の誤用であり、「見ること」と「理解すること」の間に横たわる深淵なギャップは、慎重な方法的実践によって架橋される必要がある。さしあたり、自らの「見ること」の方法的根拠を、各自がきちんと把握していくことが、そのギャップを越えてゆく第一歩となるのだろう。

 「民俗学」で「見ること」。「景観」はそのための恰好の稽古場だ。

*)なお、以下のコメントは、第五九回日本民俗学会年会(二〇〇七年、於大谷大学)の「分科会:景観と民俗学」での報告に概ね則っている。筆者の景観についての考え方、および、具体的な事例研究については、拙稿「棚田のこと、アエノコトのこと−石川県輪島市「白米の千枚田」の事例から−」奈良文化財研究所編・発行『文化的景観研究集会(第2回)報告書 生きたものとしての文化的景観―変化のシステムをいかに読むか―』(二〇一〇)を参照いただければ幸いである。

コメント2:

須藤 護

 今回のシンポジウムのテーマである「文化的景観」と「原風景」について、まず私自身の見解を示してみたい。文化とは「後天的に人間が獲得したいっさいの知識と技術であり、それに基づいた人間のおこないである」とするならば、文化的景観とは、豊かで安全な暮らしを安定的に築いていくために、人々が自然に手を加えてきた結果であると解釈できる。さらに景観は、地域の歴史的変遷や暮らしの形など、多くの情報を発信してくれる存在でもある。また原風景とは、文化的景観そのものであろう。したがって東日本と西日本、または日本海側と太平洋側の原風景は異なると考えた方がいいであろう。ただしここでは圧倒的な機械力による近代的景観については除外しておきたい。

 このようにして文化的景観と原風景を見ていくと、この度水野章二氏が提案された歴史学からのアプローチと、民俗学の立場からの接点が見いだせるのではないかと思う。人々が定着し、むらを形成する段階で文化的景観が出現すると考えた場合、一定の法則が認められる。それはいかなる生業を選択し、複合させ、土地を有効利用してきたかということと、安全な地を選ぶことが安定した生活を営む上で重要な条件になるからである。

 たとえば、2004年10月に発生した中越地震で壊滅的な被害を受けた新潟県旧山古志村は褶曲山地に立地しており、平地はほとんど存在しない。その中で、種苧原(約300世帯)、虫亀(約250世帯)という大きな集落が形成されているが、大きな集落の被害は比較的軽く、狭い谷あいに点在する小集落の被害がことのほか大きかった。集落立地のあり方はその成立年代と関係していると考えられ、また本・分家関係など複雑な問題がからんでいる。大きな集落の中でも本家筋の家が集住する地域はしっかりした地盤の上にあり、地震の際の揺れも比較的小さかったという。これにたいして分家筋の家は新しくなるにつれて不安定な土地を選ばざるを得なく、家屋の全壊、半壊という事態を招いた。

 このような集落起源と立地の問題は、聞き書きと参与観察を主な手法とする民俗学からのアプローチでは限界が生ずる。聞書き可能な年代が限られているからであり、参与観察においても科学的手法を用いない限り、特定の年代を割り出すことはむずかしい。しかし古文書の解読を主要な研究手段とする歴史学においては、目的とする資料が収集できた場合に限ることになるが、集落立地の年代を含めてその時代の生業や暮らしのあり方など、具体的な資料を手にすることが可能であろう。

 生業や暮らしのあり方に関しては、民俗学的手法においても大きな力を発揮する。ある景観が出現するには相応の理由があるからである。もう一度山古志の例でみると、棚田は緩やかな斜面に形成されているため上の水田と下の水田との法面が緩やかで広く、ここには例外なく杉が植えられている。山古志は県内でも一二を争う豪雪地帯であり、山に杉を植えても雪のために裂けたり倒れたりして、用材として使用できないことが多かったからである。この杉は水田や山で働く人々の日差しを防ぐ場となり、稲の収穫後は稲を干すためのはざ木として、また枝は焚き木として使用し、大きくなると用材として伐採される。このほか棚田の広い法面は、春になるとたくさんの山菜が芽を出し、野草の花畑も出現する。夏には牛馬のための草刈り場となる。このようなことは古文書に出てこない事柄であろう。

 また山古志の灌漑の方法は単純ではない。豪雪地帯でありながら山が浅いために水は豊かではなく、基本的には雪水を含む天水、沢の水を集めたため池と横井戸を組み合わせて水源を確保している。棚田は数枚、もしくは十数枚が単位となっており、用水は各家やマキ(血縁関係)で所有し、大きな集団での水の管理はなされていない。水田の持ち主が同じであれば田ごとに水を配し、異なる場合排水する。しかし所有者が異なっていても水が不足するときは上の田からの排水を使用することができるという。したがって、1本、もしくは複数の用水路から水をひいている他の地方の棚田にくらべる小規模であり、整然とした姿は見られない。水田はいろいろな方向に向いていて独特の景観を呈している。これがまさに山古志の原風景であり、震災前は素人を含めた多くのカメラマンがこの風景を求めて撮影に来ていた。

 以上のような景観の要素を一つ一つ点検してみると、歴史学からのアプローチと民俗学からのそれとが互いに接点を見つけることは可能であろう。またそれぞれの分野で成果を持ち寄ることで、より正確な変遷過程や幅の広い暮らしのあり方を探っていくことが可能であろう。人文景観と原風景を問題にしている日本民俗学会が、歴史学の研究者との共同研究の機会をもつことで新たな分野の開拓が期待できそうである。