第861回談話会要旨(2012年3月11日=2011年度民俗学関係卒業論文発表会)

※『日本民俗学』271号より転載しました。引用等につきましては「日本民俗学会ウェブサイトご利用上の注意」をご確認ください。

マキの役割と機能 ―新潟県十日町市程島集落の事例研究―

武蔵大学・村山翠

 新潟県十日町市程島集落の同族集団であるマキについて、集落内の生活における役割・機能を明らかにしていく。研究活動は、住民への聞き取り調査・集<落内に残された文献資料を主とし、これまでの関連する研究史・地誌の記述との比較、それらとの類似点や異なる点の明確化により、特にこの集落のマキの役割と機能の特徴的な部分に言及する。

 事例研究の対象である程島集落は、軒数17軒、人口およそ45人の小規模な集落であり、周囲を標高1,181mの高津倉山などの山々に囲まれ、村内の西側には清津川が流れている。

 ムラでの生活は、3つの同族集団で構成されるマキや行政的機能を果たす隣組などが主軸となっており、特にマキとマキの中でも近年、新たな姻戚関係が結ばれた家であるマキ親類はムラの生活の中で特に重要視される。マキは主に、ムラの中で行う冠婚葬祭など儀礼的場面や農作業の手伝いといった経済的な場面で機能しており、経済的・儀礼的・信仰的機能の側面から研究した。

 程島集落におけるマキは、マキ本来のあり方、すなわち本分家関係に端を発する家同士の上下関係でありながら、経済的機能の側面では労働そのものを重視した家同士の平等で相互扶助的な働きを持つ。また、儀礼的機能の側面からはマキが行事の基盤であるが最終的にはその行事に村全体が関わることになり、マキは儀礼を行なう際に必要な作業分担の指標の役割を果たす。そして信仰的な機能の側面からは、あくまで信仰を重視した行事でありながら、家格差だけでなく家々のなりたちといった、ムラの歴史をも反映させた社会的な役割を担っていることがわかった。以上のように程島のマキの構造は、経済的・儀礼的・信仰的機能に応じて様々な役割を担う構造をしており、これは程島という集落はムラの集落規模が小さく、生活のあらゆる場面においてムラ全体が機能しなければならない、という状況から程島に暮らす人々が考えた生活の知恵ではないかと考えた。

屋号に日本文化を見る ―町田市小野路町に残る屋号について―

東京家政学院大学・大澤香織

 本稿は、中世から現代にかけての屋号について、日本文化との関連性を地名や生業などと比較し、考察したものである。

 屋号と言うものは家に付けられるあだ名のようなものであり、村落内において名字を名乗ることが許されなかった時代にお互いがお互いを呼び合うために用いられていた。

 今日、屋号は衰退し、屋号を使用するどころか、その意味さえ知らない者がほとんどであろう。交通網の発達、近所付き合い離れなど、理由は様々あるはずだ。しかし、中世の村落において、屋号とは占有標であったり、どの家の人間であるかを判断する為にとても重要なものであった。

 屋号はそれだけでどういった意味合いで付けられたのかがわかるものであり、その付け方は実に様々である。地名、生業、歴史によってなど、文献にあまり残らずに、口承で伝わる貴重なものなのだ。

 今回取り上げる東京都町田市小野路町という場所は、いまだに屋号でお互いを呼び合っている数少ない地域の一つである。主要な交通路(鎌倉街道)が通り、宿場町として栄えた場所だ。この小野路町の屋号を一つの事例として挙げて調べる事によって、過去どういった事があったのか、どういった物があったのかなど、そこから読み取れる情報は多くあり、中世から現代までの人々の生活が垣間見えるだろう。また、屋号を地図に表す事によって、より一層意味を理解するのに役立つはずである。地図上に屋号の分布を記すことによってどういった意味で付けられているのかを考察する。

 こういった事から小野路の歴史を理解し、屋号の意味を理解する事によって、日本の文化とも呼ぶべきものが見えてくるのではないだろうか。

家業を継承するということ ―静岡・由比のある料理屋の家族誌から―

筑波大学・伍賀正晃

 本論文は、4代続く料理屋を営むある家族を対象に、家族のライフヒストリーとしての「家族誌」を描くことを試み、それを通して家業の継承とはどのようなことであるのか、明らかにするものである。ここでは既存研究で捨象されがちであった、家業を経営し継承する人々の生活や考えに焦点を当てた研究を行った。個人・家族・地域という3つの側面からの問いに基づいて、家業継承における個人の葛藤や期待の様相や具体的に継承される技術や経営方法、また地域に対する姿勢がどのように作用するのかということを考えた。

 その結果、仕事に「楽しみを見出す」ことや内容を「変化させていく」ことによって主体性を保持することが、家業を継承させる拘束力との葛藤を乗り越える力となっていることが分かった。また女性においては結婚を機に訪れる生活の変化にどのように対応するかが問題であった。板前の技術や経営方法については、基本的に修業期間で習得されながらも、「変化させていく」という姿勢は世代間で継承されている。おかみさんの技術は逆に「変化させない」昔ながらの方法が継承されていたが、ここからは男性が店の内部に向く視点を持つのに対し、女性は店の外部に向かう視点で語りを行うという特徴が見て取れる。

 さらに地域に対する姿勢は、店とお客さん、店とお金との循環する関係性を構築することに作用している。また「恩返し」の態度が地域とのギブ・アンド・テイクの関係性を生みだし、客への「誠意」として家族内に浸透していることも明らかにした。

 このような個人・家族・地域という3つの要素は、それぞれに関連し合いながら「家業」という意識を作り出し、家業の継承に働いている。家族誌を通して、それぞれの要素のあり方を具体的に描き出すと同時に、各個人の考え方の違いやそれによる葛藤や対立、妥協の様相までを踏まえた家業研究となった。

団地観と団地生活の変遷 ―福岡県北九州市徳力団地の事例―

熊本大学・廣渡絵理

 高度経済成長期時に日本住宅公団によって供給された住宅公団は「団地」と呼ばれ現在でも私たちの身近に存在している。福岡県北九州市小倉南区の徳力団地は北九州市内でも大規模な歴史ある「団地」だ。

 人々が団地に対して抱くイメージというものは年代を追って変化している。登場当初の団地は「新しい住まい」として注目を浴びた。団地暮らしに憧れる夫婦もいれば、団地暮らしに一種、非日常的な脚色をつけたメディア作品も登場し、その生活は人々の好奇心を駆り立てた。それが一変、現在では団地は「懐かしさ」の象徴として捉えられている傾向にある。多様なスタイルの集合住宅が増える中で、一見すると古くからの形を残す団地は、現在も一部の人々の好奇心を駆り立てる。

 しかし、実際の団地生活はこれらのイメージとは一致していない。徳力団地が施工されて間もない頃は、住民自らがより住みやすい団地を作っていく働きが必要不可欠であった。現在では、多様化するニーズに合せ団地を改良しつつも、団地という住まいにしかないものを強調し、残して行こうという動きが自治会を中心になされている。それは過去の住民が勝ちとったものの恩恵であったり、団地というある種独特な地域区間によって育まれる人々の交流であったり、探せば幾つでも挙げることができる。

 逆にいえば、このように団地について積極的に考える住民が少なくなっていけばそれに比例して団地の暮らしも不便なものとなってしまう。例えば近年多く見られる団地内のマナー違反などは、団地に住むことに対して積極的になっていればまず行えない現象である。

 登場以来、住民たちによってその性格を色づけられた、住まいでありひとつの伝承母体である「団地」の姿を現代に適応させながらも残していくためには、団地住民、非団地住民に関わらず、一般的なイメージや歴史的事実にとどまらない「団地の実態」に目を向けてもらうことが重要である。

高度経済成長と仕事の変化 ―神奈川県足柄上郡山北町向原の一軒の農家を例として―

國學院大學・湯川洋史

 この発表は、神奈川県足柄上郡山北町の一軒の農家A家への調査を基にして、高度経済成長と仕事の変化について述べたものである。A家における仕事の変化について、賃金を得る仕事、賃金を得ることを目的としない仕事に二分してその変化を見た。賃金を得る仕事の変化については、以下の2点を挙げることができる。第一に、話者の父の死後、1950年代頃からそれまで行っていた稲作を止め、ミカンなどの商品的作物への一元化の傾向が見て取れた。それには1950年に合併して誕生した山北町の町独自のブランドを作ろうとする動きが関わっていたと考えられる。第二に、1960年代から70年代にかけて、季節援農者における変化が見て取れた。70年以前は東北から若い男女(16歳前後)が来ていたが、それ以後は近くの定年退職者を「生きがい事業団」という仲介者を通して雇うようになったという変化であり、それには高度経済成長を通して、若い人々の働く場所やその需要が増えたこと、また恒常的な勤めが増えたことによって農閑期に行う臨時的な仕事ができなくなったことも原因ではないかと考えられる。その代替えの労働力として定年退職者が選ばれたのは、彼らが比較的時間的自由があったためと考えられる。次に、賃金を得ることを目的としない仕事における変化では以下の点を挙げることができる。A家では家の設備の拡充や商店における商品の拡充に伴って、保存食作りや水汲みなどの賃金を得ることを目的としない仕事が激減し、現在一般的に言う家事や炊事といった仕事だけが見られるようになった。これには特定の設備や仕事が無くなる事によって、それに関わる仕事ができなくなるといったものや、安価で手間のかからない代替え品が簡単で、なおかつ大量に入手できるようになったことでしなくなった、またはする必要のなくなった仕事がある。これには高度経済成長期に流入したり、開発されたりした新技術が大きく関わっていると考えられる。

「困窮島」という神話 ―愛媛県二神島/由利島の事例から―

関西学院大学・那須くらら

 「困窮島」という概念は本島で貧しくなった者が属島に開拓に行き財産を築くとまた戻ってくる貧民救済という風習・制度に対して民俗学者が名付けた総称である。これに対して野地恒有は救済制度の有無よりも開拓・移住プロセスそのものに問題の焦点を合わせるべきだとして「移住開拓島」を主張していた。ただ、彼は実際に現地を訪れて調査をしていた訳ではなく、それぞれの島が「困窮島」に当たるかどうかは個別に検証されていなかった。

 そこで今回の研究では「困窮島」と呼ばれている島の中から愛媛県忽那諸島二神島/由利島を取り上げて具体的にいかなる生活史が展開されてきたか、「困窮島」が地元住民に定着しているのかということを現地調査にて検証した。

 宮本常一の文献では由利島が「困窮島」であり、二神島で貧窮に苦しむ人を救う島としてとらえられていた。

 しかし、実際に現地に行って取材をすると少しそれとは事情が異なることが分かった。一つ目は季節漁などで一時的に移住することはあっても、制度・風習的なもので「困窮島」は存在していないこと。二つ目は戦争の影響により一時的に由利島を開拓しなければならない人々がいたという点だ。

 これらのことから「困窮島」というよりも、その時々の状況により島から島へと渡り開拓をしたという「移住開拓島」という見方のほうが愛媛県二神島/由利島には合っていると私は考える。

 ただ、これだけは言える。「困窮島」という概念は現地で定着しなくとも、離島で暮らす人々の「知恵」は確かにそこにあったということである。イワシ漁やミカン栽培。漁業と農業の組み合わせで生きてきた島民達。由利島を開拓してきたのも、彼らの「生きる知恵」なのだ。

 これからは「困窮島」という概念を創ってからそれを実在する島に当てはめるのではなく、まず現地を実際に調べて歩いてからその島における「移住開拓に至るまでのプロセス」を中心に研究していく方がいいと私は思う。

山谷の未来の姿

首都大学東京・室岡夢子

 本稿の目的は東京都台東区と荒川区にまたがる山谷地域の歴史、2011年11月時点での現状から、今後どのように変化していくかを考察することである。

 現在まで山谷地域は社会情勢によってたびたび変化してきた。山谷地域は、江戸時代から、奥州浜街道と日光街道の入り口にある宿場町として確立し、戦後、単純労働力の需要が高まる中で、仕事を探す人々が寝泊まりするために最低限の設備を整えた宿泊施設が増加した。その頃の就労のほとんどは手配師によるものだったが、東京都は1955年に職業安定所を設置し、「雇用関係の正常化」をうたい、それを通して就労するよう呼びかけた。手配師が消えた頃、バブル景気が崩壊し、労働者の高齢化と日雇い労働の求人数の減少が見られ、仕事も行き場もなくなった労働者たちが寝泊まりする場所になった。その後2002年頃から安い宿泊施設を探す外国人観光客が多く見られるようになった。2011年3月の東北地方太平洋沖地震と、それに伴う原子力発電所の問題などにより日本への外国人観光客数が減少し、山谷地域の宿泊所の客数も激減した。

 筆者は山谷地域の労働者数や求人数の推移、2011年11月時点での宿泊所の実態を調査した。2002年から2011年までの9年間で、各宿泊所の外国人客数は増えていき、リピーターも定着していた。今後、震災の影響で激減した山谷地域に宿泊する外国人観光客を呼び戻すことができれば、バブル景気が崩壊した頃のネガティブなイメージが払拭され、安く宿泊できる場所というイメージが外国人宿泊客を通じて日本に浸透するのではないか。「安く宿泊したい」という客層を獲得し続けることができれば、そのイメージは定着するだろう。それを妨げる問題点を3つ挙げ、それぞれに対する改善策を提示した。そして、それらを解決し、東京の宿泊地の一翼を担うことが山谷の未来の姿であると考えた。

語りからみる花火師の技 ―秋田県大仙市の花火師の事例から―

新潟大学・高畑祐太

 花火に関する文献は、花火の歴史や製法、種類について書かれたものや、花火の写真集が多い。花火師を扱った事例も、文献の中の項目の一部や雑誌の記事として扱われるに留まっており、その分量も短いものがほとんどである。花火師がどのようにして花火を作り上げるのか、その過程などを詳細に記述したものもあまりない。そこで本論文では花火師による花火作りを取り上げる。そして花火師が花火を作る過程を本人の語りを通してみることで、花火作りにおける技を明らかにすることを目的とする。調査は秋田県大仙市にある花火会社で花火製作に携わっている方4名に聞き書きを行った。

 花火作りを、それぞれの工程から花火師の語りを通してみたところ、全ての工程が難しく、それらのバランスが取れて初めて良い花火ができるという異口同音の語りがあった。花火作りには、配合、星掛け、玉込め、玉貼りなどの製作工程の調和が偏ることなく取れていることが求められる。ここで言う調和とは花火作りにおける製作工程のバランスを取るということであり、これが花火作りの技に繋がることであると考える。そこで花火作りに求められる、製作工程の調和を取るための技を表す言葉として「順応力」を挙げたい。作った花火は、同じ人が同じ星や割粉を使って同じように込めたとしても常に美しさが保証されているわけではない。つまり作った星や割粉、それらの材料を花火玉に込める時、花火玉にクラフト紙を貼る時にはどれとして同じ物、同じ状態はないのだといえる。良い花火を作ろうと改良を重ねても、それが必ずしも良い方向に向かうとも限らない。時には自らの手応えとは一致しないこともある。割粉の爆発の強さを決める配合比やクラフト紙の貼り方などは、それぞれの花火師により異なるという話もあった。花火作りとは、それぞれの花火師が調和の取れた順応の形を見つけ出し、それを形として体現させることなのではないだろうか。

平成の子ども文化と狐像

國學院大學・白石涼音

 研究テーマは、狐に託されたイメージの今昔比較である。『日本昔話大成』等の過去の口承資料と、現代の子ども向けの漫画・ゲーム作品、及び狐の新興行事を用いて比較検討する。

 伝承世界の存在と商業目的の作品とでは根本的に質が異なるが、そういった媒体の違いを超えても尚、狐という動物に投影され続けるイメージを探りたい。

 まず、口承の狐像は様々なタイプに分類できる。昔話は良い狐・悪い狐・対等な狐の3種、伝説は普通の狐・特徴のある狐・稲荷神の狐の3種、世間話は動物の狐・怪奇現象の根拠となる解釈上の狐の2種だ。また、交流は一時的で必ず離別する。よって狐と人は様々な関係を持ちつつも、精神的・肉体的に絶妙な距離感を保っていたと思われる。

 一方現代の狐像は、動物型と人型の2種に大別できる。ゲーム『ポケットモンスター』やカードゲーム『デジタルモンスター』の様に、狐の善悪のイメージを別々のキャラクターに反映させる場合もあれば、漫画『幽★遊★白書』の様に妖狐と人が混在した形で描かれる場合もある。

 九尾の狐や安倍晴明等の伝説がモデルにされ易いが、出典元への意識は形骸化しており、視覚的なモチーフと名称にのみ価値を見出される節がある。

 どれも表現の根底には格好良さと神秘性があり、人々が狐をどこか近寄り難い存在として捉えている事が窺える。

 以上の点から分かるのは、狐と人の関係性の変化である。かつては婚姻譚・報復譚など人と多様な関係を結んでいた狐が、現代の子ども向けの作品中では憧れを基軸にしたキャラクターになっている。この関係性の弱体化が、狐に仮装するイベント『王子・狐の行列』(東京都北区)における人と狐の同一化、もしくは半擬人化された狐のキャラクター群といった新しい傾向を生んでいるようである。

 けれど“狐が化ける”という認識は、口承の世界にせよ商業作品にせよ不変である。これが、人々が狐を特別視し続ける一因ではないだろうか。

地域社会における子ども行事の変遷と現状 ―喜多方市高郷町字夏井地区の事例を通して―

成城大学・佐藤結

 本発表は地域社会における子ども行事の変遷や現状について、福島県喜多方市高郷町字夏井地区を調査地として設定し、そこで行われている子ども行事の変化を大人集団との関わりに視点をあてて考察するものである。

 先行研究に関しては、子ども行事自体に注目し、その現状について言及しているものとして、関孝夫の「子ども組の現状と課題―埼玉県東部の籠り行事と子供の天王さま行事を通して―」(『儀礼文化』第41号儀礼文化学会)と、窪田雅之の2004年「揺れる子どもの行事―松本市域の青山様とぼんぼんの伝承をめぐって―」(『信濃』第56巻1号 信濃郷土研究會)が挙げられる。これらを通して、子ども行事の現状を考察するにあたり、大人がそこに積極的に関わるようになった経緯や、相互の関係性を検証することを課題として導き出した。

 調査地である喜多方市高郷町字夏井地区は総戸数52戸の集落である。子ども行事としては、数珠まわし、団子あげ、虫送り、お天王さま、天神講などが行われている。これらの行事は主に(1)場所の変更、(2)大人の行事との合併、(3)内容の大幅な変更、(4)廃止・新設といった変化を見せており、そのほとんどは大人側からの働きかけによるものである。なかでも親は、行事執行への義務感や自身のノスタルジーがある一方、生育環境の変化などによる安全性への不安といった問題から強く関わりを持っている。しかし現在の子ども行事が変質していることも認識しており、今後の展開が注目される。

 当地区の子ども行事は子どもの数の減少を受けて次第に大人が関わり、子どもたちで完結できるようなものではなくなっており、同時に行事自体も大人側から「楽しさ」を与えられるものへと変質している。しかし、子ども行事に親としてあるいは地域の大人として再び参加することで彼らの中で行事が再構成されており、子ども内での伝承が困難となった現在、伝承世代は大人へ移行していると考えられる。

女性の稼ぎと財布 ―秋田県鹿角市の農村女性の生活史から―

弘前大学・田中夏実

 本発表では農村女性の稼ぎと財布に焦点を当て、財布の問題を内部から捉え、女性たちにそれがどのように受け止められてきたのかを明らかにする。秋田県鹿角市の農村部で暮らす昭和10年前後生まれの女性を中心に聞き取りを行ない、高度経済成長期を経て現在に至るまで、女性の一生を通してどのような変化が起こったのかを辿っていった。

 昭和10年前後生まれの女性が、嫁入り前の娘時代に賃稼ぎをした場合、その収入は小遣いとして私財となった。しかし、その女性たちが嫁として過ごした昭和30年代、女性の「稼ぎ」はイエの家計に組み込まれた。嫁は農業以外にも他所へ出て稼ぐことはあったが、その収入は姑に渡しており、ほとんど私財を持つことができなかった。それはイエ内部の役割の分担上、現金を使う機会が少なかったためと捉えることができる。イエの財布の管理は家計のやりくりという仕事であり、女性たちの側でも財布の獲得に関して受動的な面が確認できた。

 女性が自分の財布を持つようになるのは、「勤め」に出始めてからである。調査地はもともと農業と賃金労働を複合させ暮らしていた地域であるが、高度経済成長期以降、安定した現金収入である「勤め」を積極的に受容していった。昭和10年前後生まれの女性たちが姑となる頃には、嫁は「勤め」での自分の財布があり、結婚当初から家計に関わることができる。

 聞き取りをした女性たちは「嫁は労働力」という考え方を過去のものとし、下の世代にかつての嫁の価値観を当てはめることはない。しかし、働くことを美徳とする労働観は現在でも根付いており、そうした意識が現在の生計維持にも影響を与えている。現在も嫁が外に「稼ぎ」に出ているあいだ、姑がイエ内部の労働を担うことでイエの生計は成り立っており、イエの成員がそれぞれの役割を分担して働くという構図がある。

衣類の調製と嫁の里帰り ―新潟市西蒲区潟頭を事例として―

新潟大学・米山沙織

 従来の嫁の里帰り研究は、歴史的関心から婚姻史の過渡的形態と説明され、後に嫁の労働力分配や生家依存、主婦権移譲などの視点から論じられてきた。しかし、なぜ衣類の調製を伴うのかということは明らかにされていない。本論文では、衣類に注目して嫁の里帰りを分析することで、嫁の衣類を里方で繕う意味を探った。

 潟頭では、衣類の管理(保存や調製)は女性の役割だが、夫の衣類に注目すると、調製の担当者は結婚を機に姑から嫁へ、保管場所は姑の死を境に姑の箪笥から嫁の箪笥へと変わっていた。つまり、夫の衣類は結婚によりそれまで姑が行っていた管理を徐々に嫁へと移し、姑の死によって完全に移動させている。

 また、当地では姑のいる嫁が正月と盆に1週間から10日間里帰りする習俗があり、昭和20年代までは嫁のヤマギモンや子どもの衣類などを持ち帰り、補修や新調を行っていた。実際は休みに行くようなもので、衣類の調製は名目にすぎず、昭和40年頃には、農業の機械化や女性の会社勤めなどによって衣類の調製が必要なくなり、衣類の調製を伴う里帰りは行わなくなった。だが、昭和10〜20年代の話者の、戻る頃に慌てて繕った、間に合わずにこっそり持ち帰ったなどの言葉からは嫁の衣類は里方で調製するものという意識があったことも窺える。時代を遡れば、昭和10年代以前は衣類の調製が目的で、そのために里帰りが行われたと考えられる。

 以上より、衣類の管理は母の役割であり、母を中心に衣生活の単位が存在すると考えられ、さらに、結婚を機に嫁を中心とした新たな単位の形成が始まり、それは姑の死によって完成するといえる。この衣生活の単位は嫁の里方にも存在し、その中心は嫁の母である。嫁は新たな管理者として確立するまで実家の単位を抜け切らず、管理者である母のもとで調製を行うために衣類の調製を伴う里帰りが行われたのである。

道標をめぐる歴史・民俗的考察 ―東京都・神奈川県の道標を例に―

東京家政学院大学・張艶

 道標とは、道路の進む方向や目的地とそこまでの距離・道程などを記した道しるべのことである。近年、各地でその石造物を対象とした悉皆調査が実施され、『石造物調査』や『文化財調査』の報告書類(以下『報告書』)という石造物に関する調査資料が蓄積されつつある。そこには、道標も石造物の一種として多く収録された。しかし、これらの『報告書』の多くは道標研究の基礎資料としてほとんど有効活用されていないのが現状である。

 そこで本報告では、東京都・神奈川県において数多くの『報告書』類を基にし、1,300基の道標をデータベース化し、それを基にし、道標造立の経緯を歴史民俗資料学の視点からの展開を試論として提示していきたい。

 まず、「此方○○道」、「東○○道西○○道南○○道北○○道」、または「右○○道左○○道」などのように、道路の「方向」と「行先」を表示する石塔が道標そのものであると意識され、本稿の考察対象とした。

 次に、道標は古くから木製道標、町石、石造道標、里程標、記念碑、道路表示板への経由、かつ本データにより石造道標は近世中期の勃興期から、興隆期、最盛期、衰退期、復活期を経て、現在の絶滅期に至っているとの年代変遷を考察してきた。

 また、方向や行先の表示のみの道標、庚申塔などを兼ねるのが併用道標である。後者は庚申、観音、地蔵、不動をはじめ、日本の歴史の中では広く信仰されていることが考察できる。また、併用道標をめぐって、(1)供養と併用道標の造立、(2)併用道標からみる庶民の仏教、(3)併用道標と「カミ観念」、(4)道標と山岳信仰との視点からも考察できると考えられる。要するに、併用道標は庶民の多種多様な信仰生活と関わることが明らかである。

仙台市柳町における「大日堂の再建」が意味するもの

東北大学・山口正

 本発表は、ある仏堂再建活動の記述を通して、宗教施設を中心に形成される地域の人間関係について考察する。その中で明らかになったのは、町の共有財産であった仏堂の再建にあたり多額の寄付をし得た人物が、町と仏堂の管理・運営の中枢に進出する様子であった。なお記述は文献調査と当時のことについて知る人物への聞き取り調査をもとにした。調査対象の地域は仙台市青葉区一番町の柳町で、空襲があった1945年から大日堂と呼ばれる仏堂が再建される1953年頃までの時期を主に扱う。

 本発表では、まず「大日堂の再建」について、特にそれに関わるABCD4名の動向に注目しその展開を追う。さらに大日堂の再建後、ABCの3名が主導して設立した2つの住民組織の構造から、組織内における彼らの関わり方を読み取る。

 4名は大日堂再建のための寄付金を集める組織「大日堂復興期成会」に所属していたが、戦後に大日堂の土地を住宅地として使用していたCDとそれに反対するABとは対立関係にあった。結局、CDが土地を明け渡すことになりその土地に大日堂が再建される。その後、ABCの3名は柳町内で、大日堂の管理組織と町内会を設立しその中心的活動を行うこととなる。

 ではなぜCはABと対立したにも関わらず、町と大日堂の管理・運営に深く関与し得たのだろうか。発表者はその理由を、高額な再建資金を寄付することが可能であったCの経済力に求める。今回扱った大日堂は、柳町住民によって共同所有される、特定個人のものではない宗教施設であった。それゆえその再建資金は任意の寄付によって賄われざるをえず、そこにCの経済力が顕在化した。またその一方で、ABがCの台頭を抑制しようとする動きも見られ、それが大日堂の管理組織と町内会の構造に表れている。

 ABがCの経済力を町内に取り込む一方、経済的な貢献と引き換えにCは町内での立場を確立したのだ。そのきっかけが「大日堂の再建」にあったと発表者は考える。

小栗上野介忠順顕彰の研究 ―普門院と東善寺のモニュメントを中心に―

ものつくり大学・長谷地明仁

 さいたま市大宮区にある普門院の境内には、錨と水雷が設置されている。私自身にとって見慣れたはずのこの景観への違和感が、本研究の契機である。海から遠く離れたこの地に廃兵器が設置されている理由は、小栗上野介忠順(文政10年〜慶応4年)の首が埋められた伝承に関係している。しかしこの伝承は現在、忠順の知行地で、隠棲地でもあった群馬県高崎市倉渕地区権田にある東善寺によって、きわめて強烈に批判されている。そこで本研究では、とくに現存するモニュメントに着目し、忠順顕彰の歴史的経緯を検討した。

 顕彰される忠順とは、幕末の幕臣である。海軍奉行などを歴任し、横須賀製鉄所(現・在日米軍横須賀海軍施設)の建設に貢献した。罷免後は権田にて、反逆する惧れありとして新政府により斬首された。日露戦争後、東郷平八郎が忠順を海戦勝利の恩人として評価したことが、公的に忠順が顕彰された契機とされる。

 ちょうどこの戦前期、普門院は忠順を「海軍の先駆者」として活発に顕彰している。1934年には境内に招魂碑を建立、その除幕式には海軍関係者が多数列席した。また海軍出身で当時の内閣総理大臣・岡田啓介も、忠順の首が埋められたと伝えられる墓へ参拝した。錨や水雷および青銅大砲など、廃兵器が下付されたのもこの時期である。

 戦前の顕彰に対し、近年の東善寺をはじめとする群馬県側は、忠順を「日本の近代化」に貢献した人物として称えている。戦前に建立の顕彰慰霊碑の他に、戦後に入ると首級埋葬処碑などのモニュメントが建立され、小栗まつりや展示会の開催、関連書籍の出版など活発に顕彰されている。例えば司馬遼太郎による「明治国家の父」との称号は、東善寺住職の著書『小栗上野介』の帯文として用いられている。

 以上のように、戦前の普門院から戦後の東善寺へと、忠順顕彰の拠点が移行したことが確認できた。特に戦前は海軍を利用した顕彰をおこなっていたのである。

沖縄県都市部における「民間霊園」の受容と墓前祭の変化 ―那覇市を事例に―

東北学院大学・早坂優子

 本論は、近年の沖縄県都市部における「民間霊園」の増加と墓前祭の変化の背景について検討するものである。

 近年沖縄県都市部では、寺院の増加、仏式での葬儀の広がり、狭小な墳墓が立ち並ぶ「民間霊園」の増加が指摘されている。従来、これらの現象は「本土化」という視点から研究が進められてきたが、本論ではこれらの背景にある沖縄内部の文脈を前提とした新たな理解の提示を行いたい。

 沖縄では、個人で墓地・墳墓を所有する個人墓が一般的である。しかし、近年那覇市を中心とした沖縄県都市部では、公益法人・宗教法人が管理する「民間霊園」が急増している。そこには、都市化と墓の形態の変化による墓の需要の増加と、再開発による墓地用地の不足、それに対する行政の政策が大きく関係している。墓を求めようとする市民と、個人墓地の増加に歯止めをかけ、墓地の集約化を図る行政との間でせめぎ合いが起こっているのである。

 この墓の需要の増加と墓地不足という現状に対応し、存在感を大きくしているのが「民間霊園」である。コンパクトな墳墓が整然と立ち並び、トイレ・駐車場などの設備が整う「民間霊園」は、行政の墓地整備の遅れも手伝い、急速に数を増やしている。

 この「民間霊園」でも清明祭などの墓前祭が行われている。しかし、コンパクトな墓の形状は、墓前祭の変化をもたらした。親族が一堂に会し、墓前で会食をする清明祭は、「民間霊園」の小規模な区画において、以前のかたちを保ち続けることは困難である。小規模な墓の利用者は、それぞれの家族に合わせた「工夫」を行い、清明祭を継続させている。

 沖縄県都市部での墓のかたちの変化は、表面的には、本土のそれに近づいているとみえるかもしれないが、実際は沖縄内部の社会変化に伴うものであって、この「民間霊園」の受容と墓前祭の変化は、今日の沖縄における墓地と墓制が直面する問題を表しているといえるのである。

地域社会における伝統行事の変化と存続 ―富山県入善町青島地区の若宮社秋季祭礼を事例として―

首都大学東京・舟川友理

 本稿は、農村地域である富山県入善町青島地区において伝統的に行われてきた秋季祭礼が現在まで存続している要因について考察することを目的としている。

 青島地区は農業を営んできた地域であり、この祭りは農耕行事の一環である。高度経済成長期以降、急激な社会変動に伴い日本各地で祭りの衰退が進んだ。当該地域においても農家の兼業化や離農が増加するなど、住民の生活環境は大きく変化し、それに応じて祭りも変化を遂げた。地域住民で協議を行い、日程や参加者に関する規則を現代に合ったものへと変えたことは祭りの存続の一因であるといえる。

 さらに、祭りの存続には参加者の確保が重要であり、近年では少子化や過疎化によって深刻な人手不足が生じている。このような現状の中で、進学や就職でムラを離れた青年層が祭り当日のみ参加していること、また住宅地の建設により新住民が流入し、彼らが祭りに参加していることが存続要因であると筆者は仮説を立てた。調査の結果、帰省してきた青年層と新住民の参加は、祭りを盛り上げることに寄与したものの、彼らの役割は補助的なものにすぎず、祭りの直接的な存続要因とはいえないことが明らかになった。祭りを存続していくためには、当日の参加者だけでなく、会計や交通整備、当日行われる舞の指導など、祭りの「全て」に関わる人材が必要不可欠である。

 青島地区では、青年団が祭りの「全て」を運営し、さらに上の年齢の壮年団が補助に徹するという体制を続けてきた。この体制は、ムラに残り青年団幹部となる人材が途絶えなかったことで維持された。そしてムラの子どもたちは、年齢の近い青年団からの舞の指導を通して、彼らに親近感を抱き、強い結び付きを持った青年団に憧れ、将来的に青年団に加入することへの抵抗がなくなる。この仕組みが整っていることが、青島地区の祭りの存続要因であると筆者は結論付けた。

山伏神楽における演目の成立と展開 ―権現舞から山神舞へ―

盛岡大学・千葉暁子

 本発表では岩手県を中心に伝わるいわゆる「山伏神楽」を取り上げて、なぜ山伏神楽において権現舞以外の多くの演目が成立したのかという問いと、多くの演目が成立したことによって山伏神楽の構造と権現舞がどのように変化したのかという問いについて考察した。まず前者の問いに対しては、折口信夫のもどき論を補助線としながら、山伏神楽における権現舞以外の演目は、難解な権現舞の本義を解説する(もどく)演目として成立したという仮説を示した。儀礼的演目である権現舞が解説されることにより、権現舞の要素が多く残されている順に、山神舞の段階、その他の神舞の段階、そして神楽能の段階を踏んで成立したことを指摘した。その結果、儀礼的要素と物語性を併せもつ多くの演目の成立について説明することができた。

 また後者の問いに対しては、そのようにして成立した多くの演目からいくつかの重要な演目が選ばれて、「式舞」の名のもとに一括して演じられたことによって、「神降ろし」と「神送り」という枠組みが発生したのではないかという仮説を示した。その上で、これらの枠組みが成立したことによって、権現舞における「権現様」に対する解釈が変化した可能性について述べた。具体的には平時において「舞わない権現様」と舞台において「舞う権現様」の解釈に見られる矛盾を指摘して、「舞う権現様」において権現様が降ろされて送られる存在である捉えられるようになったのは「神おろし」と「神送り」が成立した影響であると述べた。二つの問いを考察することを通して、山伏神楽における権現舞が儀礼的演目と物語をもつ演目とを成立させたのち、多くの演目の成立によって「神降ろし」と「神送り」という枠組みが成立したという結論に至った。演目とこの枠組みは演目の原型である権現舞と「権現様」に対する解釈に矛盾を生じさせながら、今日の神楽の形として伝承されてきたと考えられるのである。

祭礼の存続と伝承の仕組み ―石川県輪島市輪島大祭を例に―

富山大学・萱岡雅光

 本論文では、石川県輪島市の輪島大祭と呼ばれる4つの町のキリコ(行灯のダシ)の祭礼について、主に祭礼に関わる人の構造に注目しながら、祭礼が存続して伝承されていく仕組みについて考察した。

 4つの町で行われる祭礼では、いずれも神輿巡行にキリコが随伴する。漁師町である輪島崎町、海士町の祭礼は「自町内の人間のみ」という参加条件を強く意識して、外部に対して閉鎖的である。特に海士町は「海士町」として祭礼を行うことに強い誇りをもっており、外部の者が祭礼に関わる事に拒否反応を示す。輪島崎町は祭礼において役割が年齢階梯制によって決まっていて、さらに祭礼の出し物作成の経験が漁業に役立っているという語りも多い。この2つの漁師町は、人口は少ないが祭礼では外部に頼ることなく、担い手を自町内のみで賄っている。閉鎖的であること、祭礼が生業と結びついていること、住民が毎年祭礼に参加することが当たり前になる年齢階梯のシステムが生きていることによって、参加率が維持されている。

 河井町、鳳至町は神輿の担い手を「オトウ」と呼ばれる、厄年にあたる男子のみに限定している。条件が厳しいため人手不足だが、河井町と鳳至町で人手を貸し借りして祭礼を行っている。キリコは河井町、鳳至町の中の旧町と呼ばれる通称区を単位にして担がれるが、各旧町では、人手不足により参加条件を「誰でも参加できる」と緩めることで、外部の人(タビの人)を呼び込んで、キリコの祭礼を存続している。これは祭礼をする人と見る人の境界が曖昧になっているということである。また、タビの人と住民の間で軋轢や問題も多く生じている。その中で祭礼を維持するためにタビの人との折り合いをつけ、タビの人に祭礼を教える役割の人がいる旧町が多い。今後担い手不足で外部参加者を呼び込む祭礼が増える中、こういった祭礼を「させる人」の存在が、祭礼の存続と伝承の鍵になるのではないだろうか。

高円寺阿波おどりの時代による変化 ―江戸浮連を中心として―

ものつくり大学・井上雄介

 この研究の発端は、私が参加している高円寺阿波おどりのグループ「江戸浮連」が、かつて松平誠『都市祝祭の社会学』ほかで論及されていたことにちなむ。松平の調査からうかがえる1985年頃の「江戸浮連」は、私自身が経験している江戸浮連とは若干違う組織のように感じられる。その違和感を整理したのがこの研究である。なお江戸浮連に寄贈された阿部優子「高円寺阿波踊りの導入と発展要因」(筑波大学比較文化学類卒業論文)からうかがえる2003年の様子も、比較参照した。

 松平は、阿波おどり江戸浮連を「自由参加者に開放する連」のひとつとして注目し、「高円寺阿波おどりが地域の祭礼集団だけのものでないことを示すひとつの典型的な例である」とする。松平が指摘した、本番参加の条件が練習に一度以上参加すること、年間を通しての練習は本番直前に時間も人も増えること、参加費も不要で運営資金は幹部が負担していること、などの特徴はそのまま現在に引き継がれているわけではなく、若干の変化が観察できる。

 1985年頃には「週に一度、小グループごとに練習や勉強会が行なわれて」いた練習は、2011年現在では年間を通して月に1〜2回いつも踊り手と鳴り物とが合同で練習している。場所は、2009年に竣工された「座・高円寺」における鏡張りの阿波おどりホールである。本番参加条件は変わらず「練習に一度以上参加すること」であるが、2011年だと本番参加者約60名のうち、実際に一度だけの練習で参加した者は1割もいない。たしかに制度的には「自由参加者に開放」しているが、たとえば連長が「帰属性を持たせるため」に連員から会費を徴収するようになったこと、また練習時に「本番で見られることを意識するように」と指導が繰り返されること、出演料を受け取る外部出演もしばしば引き受けることなどからも、魅せる踊りへと変化していることがうかがえる。

学校の怪談についての一考察 ―「ウマが走る」話の伝承から―

筑波大学・見上恵

 学校の怪談とは学生の頃誰もが語った、学校を舞台とした不思議な話であると思う。私自身も、通っていた中学校にまつわる学校の怪談「ウマが走る」話を友人や先輩後輩と語った記憶がある。当時はただの面白い話として語っていただけであったが、現在も同校で同じ話が多くの生徒達に共有されていることを知り、より深く「ウマが走る」話、学校の怪談について考えたいと思ったことが執筆のきっかけである。

 本論文は私の出身校である神奈川県大和市のある中学校で、現在最も強く語られている学校の怪談「ウマが走る」話を、全校生徒へのアンケート調査、卒業生であり生徒の母親である方への質問紙による調査、学校内外の環境の調査の成果を元に考察したものである。

 全校生徒へのアンケート調査では「ウマが走る」話は生徒の約7割が知っている話であるということ、そしてその伝承においては先生という存在が大きな役割を果たしていること、校内の空間的なイメージがこの話が生徒達の間に定着することに大きな影響を与えていることが明らかになった。卒業生への調査では、20年前からこの話が存在していたこと、家庭でも語られる話であるということ、その語りの中でも先生について触れられていることが明らかになった。また、学校建設以前にこの地に存在した馬頭観音およびその移転がこの話の由来となっている可能性が高く、そのことは現在の語りの中でも確認できることが明らかになった。

 これらの結果から「ウマが走る」話が伝承されている背景を、学校内外の視覚的要因、歴史的要因、心理的要因に分けて整理し、これらの要因が重層的につながることにより、「ウマが走る」話は強く伝承されているのではないかという結論に達した。特に、今回の調査では学校という教育現場を中心とする人々の間で伝承されているということが明らかになり、学校の怪談の伝承の背後にある広く深い世界を感じた。

「折り鶴と日本人」 ―象るということをめぐって―

成城大学・益子裕也

 日本の折り紙「折り鶴」が、「鶴」に似ていないのはどうしてか。また、そんな折り鶴をなぜ日本人は折り続けるのか。私は、折り鶴の歴史や「つる」という鳥と日本人の関わりに言及し、日本人が折り鶴に願意を「象った(形が一定でないものを表現した)」のではないかと考えた。そして本報告にあたっては、折り鶴を折ることに代表される日本人の「象る」という行為について考察を行った。

 第一に、江戸時代に盛んにおこなわれた「見立て」という表現方法を取り上げ考察した。様々な解釈を可能にするために、敢えて直接的な表現をしない見立てには、折り鶴にみられる姿形の曖昧さと共通するものがある。折り鶴がつなぎ折り鶴や千羽鶴といった発展を遂げ、様々な願意を籠めることができたのは、鶴に似すぎず単純な姿形であることが、様々な意味を含有することを許したからであると考える。

 第二に、「籠める」という表現方法について取り上げ考察した。「籠める」という言葉は、形が一定でないものを表現するという意に加え、一つのものに纏めるという意味を持つ。この表現方法は千羽鶴に見られ、千羽鶴を折る集団としての目的と、折る作業を行う個々が折り鶴一羽に託す願意とを、両方尊重できることが特徴である。日本人特有の集団意識を崩さずして、個々の想いも反映できるツールとして、また前述した姿形の単純さがあいまって誰にでも折りやすいことにより、千羽鶴を折る文化は生き残っている。

 以上のことから、日本人の「象る」行為の特徴について、非直接的な表現と柔軟な解釈を可能とすること、日本人の持つ集団意識を強くしつつも個々の想いを「籠める」ことができる願意表現であることを指摘し、報告とした。折り鶴はそういった意味で生き残ってきた、日本人特有の「象る」文化なのである。

宮古島民謡「なりやまあやぐ」の変化と受容

東洋大学・友利綾香

 宮古島に、妻が夫を諭す教訓歌「なりやまあやぐ」という民謡がある。今では宮古全域に知られたこの歌は、1950年代までは2つの小さなムラでのみ歌われていた歌であった。「なりやまあやぐ」の発祥地は宮古島市城辺の砂川と友利ムラである。1960年、友利に住む友利實功が、琉球放送ラジオ番組素人のど自慢大会で「なりやまあやぐ」を初めてムラ以外の場所で歌い、電波に乗せて世に出した。その時、友利は歌詞と曲調を変えて歌った。それが現代まで、人々に歌われ続けている「なりやまあやぐ」である。ムラだけで歌われていた「なりやまあやぐ」は、教訓歌というよりは恋歌の要素が強い。ムラの宴の席で歌われ、男女の仲を深めるためのものであったからである。しかし小さな集団以外の場所で歌うことになった場合、性的な歌はどうしても恥ずかしさがあり、歌いにくかったため、友利は歌の歌詞を変え、表現方法にも変化を生じさせた。これまでのムラという狭い範囲の共有ではなく、広い宮古島で「なりやまあやぐ」という一つの歌を共有させたかったのである。しかし元歌の性的な表現はインパクトが強すぎるので、性的な部分を切除し、もっと歌の内容に耳を傾けられるような、教訓歌としての新しい「なりやまあやぐ」を改作した。改作された「なりやまあやぐ」は「歌詞が感慨深く心に響き、また三線の演奏が頭に残りやすいので、ちょっと聞いただけですぐ歌えるようになる」とのことなので、すぐ島人に受け入れられた。小さなムラで歌われていた歌は、宮古島だけでなく、沖縄本島でも知られるようになり、多くの人に聞かれるようになったが、今では元歌が存在していることを知っている島人は少ない。現在、「なりやまあやぐ」は恋歌としての要素はなく、「慣れた場所であっても気を抜いてはいけない」という教訓として、宮古島の人々に愛され、日々歌われ続けている。