第862回談話会要旨(2012年5月13日=2011年度民俗学関係修士論文発表会)

※『日本民俗学』272号より転載しました。引用等につきましては「日本民俗学会ウェブサイトご利用上の注意」をご確認ください。

近代における行政部落の成立と民俗の変化 ―宮城県大崎平野の契約講を事例に―

東北学院大学大学院・岡山卓矢

 東北地方を中心に分布する契約講は、村落の自治機能を有するもの、機能集団的なものなど、その組織構造に地域差の大きいことが知られている。こうした地域差への解釈にはおよそ二つの説が見られる。一つは竹内利美に代表される、自治組織型契約講を近世的な村落共同体の残存と見なし、機能集団型をその崩れた形と理解する立場である。この説では三陸沿岸部に見られる年序組織体系を持つ契約講が原型とされた。もう一つは福田アジオを始めとする、近世において藩が政策的に契約講を設置させたとする立場である。中世から近世初期に出来た社会関係の在り方によって、設置時の受容に違いが表れたと見る向きであり、平野農村部の自治組織型を基本型とした。

 こうした従来の研究は多くのことを明らかにした一方、いくつかの問題も孕んでいる。まず自治組織型の契約講への興味が集中し、結果的に機能集団的で地縁性の薄い事例は常に原型・基本型の枠外に置かれた。また従来の契約講研究が、近代についての検討も無く前近代的社会関係を問うてきたことも問題である。現在の契約講を事例にしながら、そこには前近代的な村落、とくに近世のそれが投影されていた。契約講の近代を丁寧に検討する必要がある。

 本論ではこうした先行研究の問題点を踏まえ、あえて自治機能の無い契約講を事例に、その近代における動向に注目した。その際に近代的・行政的な部落の設置時期に焦点を当て、近世以来の社会関係である契約講と、行政部落との関係性に着目しながら分析する。

 事例としたのは宮城県大崎平野の上宿集落における契約講である。上宿は部落会設置期の昭和16年に初めて行政区となったが、藩政村および市制町村制以降の区は、上宿より広い範域に設定されていた。明治期まで地名として存在したのは、現在の上宿および隣接する下宿を合わせた宿である。宿は近世以来の保土原氏家中集落と、その東西に農家が点在するといった景観を持っていた。文書から天保期には既に契約講があったことが知られ、現在の上宿とほぼ同じ範域、宿西部に加入戸が分布していたが、自治機能は無く葬儀互助に特化していた。

 現在の上宿の契約講は二つの異なる側面を併せ持つ。一つは戸主を講員とする全戸加入制に顕著な、部落単位の組織としての側面である。一方で主たる活動である葬儀互助において、上宿の契約講は親類の補完的役割を果たすに留まり、当組と呼ばれる内部組織は親類関係を前提に作られている。親類に規定された組織としての側面も持つのである。この両側面は如何にして生じたのか。

 明治11年から大正13年までの契約講名簿を見ると、宿西部に位置する家にも非加入戸があることが分かる。近隣に本家を持つ分家は、葬儀執行を本家に頼るため、六親講の助力が要らないのである。同様に多数の分家を持つ有力本家には、葬儀の助力が分家で事足りる故に契約講非加入の例もある。また分家が新たに加入する場合、家の新旧が加入条件となるが、それは宿西部という範域を単位にした新旧でなく、各同族内における家の新旧が問題とされていた。このように当時の契約講は、親類に規定されて加入・非加入が選択されるものだった。

 変化のきっかけとなったのは地方改良運動である。まず地方改良運動期に契約講が戸主会として注目される動きが起こるとともに、耕地整理によって増大した土地を集積した地主が、宿西部に多数現れた。区による部落単位農家組合の設置に難航していた当時の郡農会は、この状況を利用して宿西部の戸主らによるモデルケース的な農家組合を作った。上宿部落農家組合であるが、これが上宿を宿から分離させた契機である。上宿部落の成立にあたり、契約講は既存の戸主会として部落範囲策定の一根拠となったが、一方で契約講自体も同じ時期に短期間で部落全戸加入を達成し、組織構造も再編させるなど、部落と契約講とが相互に影響し合ってこのような状況を作り上げたと言える。上宿の契約講は、近代的・行政的な部落が形成されていく過程で、これに影響し/されながら、結果的に部落単位の組織としての側面を手に入れたのである。

 親類に規定された契約講から、部落単位の契約講へとの変化を経ているのだが、この事例は示唆的である。これまでの契約講研究において近代の動向は議論の俎上に上がりにくく、むしろ近世的な社会関係のイメージを負ってきた。このことは自治機能を持つ契約講に興味が集中したことと関連が深いが、自治機能の無い契約講の事例ではこのように近代の影響を受けていたことが分かるのである。こと自治機能を持つ社会組織の場合、それが所与のものの如く理解されがちであるも、近代的・行政的な部落との相互影響が如何様であったかを無視できないと考える。

現代社会と養蜂 ―ミツバチを介した都市社会の再構築―

成城大学大学院・玄蕃充子

 養蜂とは、はちみつの採集やロイヤルゼリー・蜂ろう・花粉・プロポリスなどの生産、農作物の花粉交配(ポリネーション)を目的としてミツバチを飼養することである。生業として養蜂を行なう養蜂業のほか、はちみつの自家消費を目的とした養蜂や、ミツバチの飼養を目的とした趣味的な養蜂も行われている。

 本論文は、日本民俗学の生業研究では等閑視されがちであった養蜂が、近年、都市部において積極的に行われていることに着目し、都市部においてどのような変化が起きているのか、その変化の背景にはどのような目的や課題があるのか明らかにすることを目的としている。

 ミツバチの飼養は、単にミツバチを飼養する人間とミツバチとの関係で成り立っているのではなく、ミツバチを飼養する人間や集団とミツバチが採蜜する空間に居住したり往来する不特定多数の人びととの関係によって支えられている。都市部におけるミツバチ飼養の実態を明らかにすることは、現代社会が直面している課題を抽出する作業でもある。

 以上のような論点を踏まえ、本論文では日本における養蜂の展開と近年の都市部におけるミツバチ飼養との比較をとおして、都市部でミツバチ飼養を介して試みられようとしている地域社会の再構築への模索に対する課題を明らかにした。

 日本の養蜂は転飼型養蜂と定飼型養蜂の大きく2種類に分けることができる。前者は日本の緯度差を利用し、蜜と花粉を求めて南日本から北日本へ移動する方法であり、明治時代にセイヨウミツバチが導入されてから開発された近代的養蜂技術である。後者は移動を行わない養蜂であり、日本における伝統的養蜂と位置づけられる。本論文では、滋賀県大津市定飼型養蜂家、滋賀県大津市大転飼型養蜂家、長野県下高井郡木島平村小転飼型養蜂家の事例を挙げた。転飼養型養蜂は専業的養蜂であり、自らをハチヤと称す。一方、定飼型養蜂は自給的・趣味的な意味合いの強い養蜂である。

 これら3つの事例の形態を従来からの養蜂とし、近年、都市部において行なわれているミツバチプロジェクトなどを都市型養蜂とした。都市型養蜂とは都市のビルの屋上などにミツバチの巣箱を設置し、ミツバチに周辺の公園、庭の植物などから蜜や花粉を採取させる養蜂である。

 ミツバチプロジェクトとは、環境保全や街づくりを目的に都市部の民間団体、企業、NPOが中心となってミツバチを飼養するプロジェクトである。東京都内におけるミツバチプロジェクトの例として、コンバンミツバチプロジェクト、丘ばちプロジェクト、中延養蜂プロジェクト、多摩ミツバチプロジェクト、すみだ百花蜜プロジェクトを事例として、従来の養蜂との比較を行なった。

 両者の大きな差異は、従来の養蜂ははちみつを採取することを主目的としているのに対し、ミツバチプロジェクトにとって、はちみつは副産物であるという点である。従来の養蜂は専業的養蜂であれ、副業的・趣味的な養蜂であれ、個人(起業者)によるミツバチの飼養であるが、ミツバチプロジェクトは会社、民間団体、商店街振興組合などを主体とした不特定多数の人々によって飼養が行われている。これは専業的養蜂と趣味的養蜂の違いでもあるが、専業的養蜂にとってミツバチは家畜であり、更新的な家産でもある。ミツバチに依存した生業であるため、より上質なはちみつを安定して採取するためにミツバチの生態に合わせ転飼しながら飼養するのが専業的養蜂である。専業的養蜂である転飼型養蜂が養蜂において重視するのはヒトとヒトの関係である。ハチヤ同士の関係、飼養を行う周辺地域の人々との関係を円滑にすることで、初めて養蜂という活動が可能となる。つまり、ヒトとヒトとの関係が成り立つことによって、ヒトとハチとの関係が成り立っていたのである。

 それに対して、ミツバチプロジェクトのミツバチはペット的な側面を持ち、環境保全や、話題性による街と人の活性化のシンボルとして飼養されている。ミツバチプロジェクトにおいて、ミツバチははちみつを生産する資源ではなく、象徴としての効果をもたらす消耗的な資源である。主体として意識されているのは飼養者と当該地域の人間であり、ミツバチとヒトの関係は刹那的なものであった。換言すれば、専業的養蜂はヒトとミツバチとが共生できるような関係を転飼先の多様な人々との関係を模索しながら構築しようとしているのに対して、ミツバチプロジェクトの場合は、飼養者と周囲の人びととの関係を再構築することを目的として、ミツバチはそのシンボルとして消費されているだけであるといえる。以上のように、従来の養蜂とミツバチプロジェクトには、ハチとヒトとの関係とヒトとヒトとの関係に真逆な関係がみられることが分かる。

 ミツバチプロジェクトは、ミツバチの飼養を介して、更新的な関係を持った地域社会を構築しようとしているが、ミツバチの飼養は一部人々によるもので、都市部でミツバチを飼養する上で一層重視されなければならない地域の人々との関係が置き去りにされている。また、ミツバチプロジェクト間の調整が行われないことで、蜜源が減少し、さらに刹那的な飼養が展開されていくことが危惧される。

タコ穴漁からみた地域社会の資源利用についての考察

 ―山形県酒田市飛島字法木と沖縄県うるま市字比嘉におけるタコ穴漁の事例から―

神奈川大学大学院・新垣夢乃

 タコは、海底の穴や窪みを住処とする習性をもつ。この習性を利用し、タコが穴に潜んでいるところを捕獲する漁をタコ穴漁と総称する。本論文では法木村落と比嘉村落を事例とし、そこでどのようにタコ穴漁が行われ、タコ穴をどのように利用し、その利用を巡ってどのような慣習や社会制度などの仕組みを形成してきたのかを調査した。

 さらに、このタコ穴漁を通して地域社会の資源利用の仕組みについて分析を行った。両地域の資源利用の仕組みにはどのような特徴があり、どのような点が共通するのか。それは、どのような背景から形成されてきたのか。それらについて、2つの地域の比較と分析を通して考察する。そこから、地域社会の資源利用の仕組みを支える資源利用について、各地域社会で形成されてきた思想とはなにかを考察した。

 近世の法木村落では、タコが貢租の対象、商品、自家消費の食材としての価値をもっていた。この状況のなかで法木村落は、村内の一部のイエだけがタコ穴を独占的使用する仕組みを形成していた。そして、そのイエの中では、タコ穴の位置情報を次世代へと継承し、タコ穴の独占的使用の仕組みが世代をこえて機能してきた。だが、その一部のイエ以外の人々は、ハイダコ漁(穴から這いだし、海中を泳ぐタコを捕獲する漁)という、タコ穴漁よりも条件が劣る漁法によるタコ資源へのアクセスが許されていた。このような仕組みは近代になると、今度は近代漁業法の中で公認された制度として機能することとなった。

 現代では、戦後の漁業制度改革のなかで、一部のイエのみがタコ穴を独占的使用する制度が民主主義に反するとの意見にさらされるなどして廃止された。だが、その後も従来からのタコ穴利用の仕組みは慣習として残り、現在まで機能してきた。

 それに並行して1980年代に、タコ穴の独占的使用を行なってきた一部のイエ以外の人々によって北海道から新技術のタコカゴ漁が導入された。タコカゴ漁では、一度に大量のタコを捕獲できることから、タコ資源の減少がおこり、歴史的に行われてきたタコ穴漁は消滅しつつある。

 比嘉村落においても法木村落と同様に、近世にはタコが貢租の対象、商品、祝祭時の食材、自家消費の食材としての価値をもっていた。このような比嘉村落では近世後期から、男性と女性それぞれが行う2つの異なるタコ穴漁が存在した。

 女性のタコ穴漁は、比嘉村落周辺の歩いて漁を行なうことが可能な海域内で行われる。女性のタコ穴漁においては、村落の成年女性組織内部でタコ穴を共同利用する仕組みが存在し、年長の成年女性から新たに入会した女性に対しタコ穴の位置情報が継承された。

 それに対して男性が行うタコ穴漁は、女性と同様の歩いて漁を行なうことが可能な比嘉村落周辺の海域に加えて、舟を使用することによって利用可能となる村落周辺の海域でも行われた。この男性のタコ穴利用は女性の場合と異なり、個人の才能や努力によって発見したタコ穴が個人の生涯にわたるなわばりとなるが、そのなわばりのタコ穴が世代をこえて継承される事はない。

 比嘉村落では、このようなタコ穴漁に関する仕組みが、近世末期から機能してきた。だが、女性のタコ穴漁に関しては、戦後の成年女性組織の消滅に伴い、タコ穴を共同利用する仕組みから、男性と同様の個人によるタコ穴漁の仕組みへと次第に変化している。

 本論文の後半では、タコ穴利用を巡る慣習や社会制度について、両村落の事例を比較した。

 まず、両村落におけるタコ資源量の差異、タコがもつ価値の歴史的な変化、タコ穴漁の主体という点から比較を行ない、その特徴と共通点を分析した。そして、差異の比較と共通点の分析の中から、個々の地域社会におけるタコ穴漁を営むための仕組みを機能的な面から再構築した。最後にそこから、その仕組みを支える地域社会の資源利用の思想について分析をした。

 事例からは、法木村落と比嘉村落には共通して、タコ資源へアクセスが出来ない人を生まない平等の仕組みが歴史的に存在してきたと指摘できる。タコ穴漁とそれを支える資源利用の思想という点から漁村落を比較すると、大きく異なるのは、次世代の人々がどのような条件でタコ穴漁を行うかの違いにある。つまり、法木村落では、次世代の人々も自分たちと同じように平等に資源を利用するためのタコ穴継承の仕組みとそれを支える思想が歴史的に存在してきた。

 他方、比嘉村落では、次世代へタコ穴を継承することはなく、次世代の人々がその個々人の努力と才能によってタコ資源を獲得することが望まれる。つまり、同時点での個人の平等と自然の共有の思想が歴史的に存在してきた。

 両地域のタコ穴漁を支える仕組みからは、異なる2つの平等の思想が導きだせるのである。

トラピスチヌ修道院における食の選択 ―ベネディクトの戒律との関わりから―

筑波大学大学院・柴田香奈子

 本論文は北海道にある「厳律シトー会 天使の聖母トラピスチヌ修道院」における「食生活」「食の営み」について、民俗学の立場から分析・考察するものである。

 本修道院は、フランス人修道女によって1898年に創立され、基本的に外部から完全に閉じられた宗教的な共同体である。修道女の生活の基本にあるのは6世紀にイタリアで書かれた『ベネディクトの戒律』であり、現在もこの戒律に従って生活を律しており、それは食習慣に及んでいる。現代の社会において、本修道院のように一般世間から離れて厳しい宗教上の規律の下に生活する社会集団は極めて少ないといえる。このような外の情報から遮断されている環境に住む共同体では、当然食に関する新たな情報が極めて限られてくる。

 本論文では、修道女たちの「食」の実態に注目し、宗教的に閉ざされた中、その母体においてどのような食の伝承が形成され、現代の生活に適用しているのかということを自身のフィールドワークで調べ、食の分野から現代的意味について考察することを目的としている。そしてこれまで民俗学でなされてこなかった閉ざされた社会の伝承を扱う意義について検討を行う。

 民俗学では従来、「伝承」は口頭伝承と所作伝承の2つに分けられる。また口頭伝承は文字や映像というメディアを介さない生身の人間同士、あるいは親子といった世代間で口から口へと何らかの言葉を伝えていくあり方とされてきた(平山和彦 1992 『伝承と慣習の論理』吉川弘文館)。本修道院では入会時に修道士として「沈黙」の誓願をたてるので、日々の生活の中で行われる会話は主に神と自分との内的なものを指し、修道女同士の会話は否定的に捉えられ、お互いの自由な会話はとても少ない。

 また、所作伝承は所作や動作、それに使用する道具を調査者が現地に身を置き、直接観察することによって民俗資料としてきた。本論文でも、日常食と典礼食(儀礼食)、酪農や農耕などの自給自足の実態、またそれにともなう道具について観察は必要不可欠である。しかし、本修道院では修道女の生活区域のほぼ全てが戒律によって「禁域」として定められており、外部の人間が立ち入ることは禁止されている。

 こういった戒律上の問題から本稿には筆者による直接的な観察という視点は少ないと言わざるを得ないが、これを補うものとして『ベネディクトの戒律』、これを基に現代の諸規範を踏まえて作成された『厳律シトー修道会 会憲と規定』、修道院の内部資料、日々の献立表(約1年半分)、修道女が書いた日常生活のスケッチ画(およそ1960年〜1980年頃のもの)などを分析対象とした。近年「伝承」を口頭伝承や所作伝承に限定せず、調査地に現存する文献・資料を伝承資料として扱う研究動向がみられる。本論文では、これらの内部資料を直接的観察という視点を補う伝承資料として使用した。

 語りについては、戒律に基づいた食生活や長い歴史の中で紡がれてきた食の伝承を修道女たちはどのように認識し、理解しているかということを分析する為、食に関わる仕事を担当している修道女たちと、キリストの代理者として位置づけられている修道院長の聞き書きを行った。本論文では、日々、厨房や畑で食の現実にたずさわる修道女と、修道士としての食の理想を語る修道院長の語りのエピソードを対比させて記述した。人々が語る食生活の実態や、信仰や戒律における食の位置づけに注目することは、本修道院の食の伝承の形成をみる上で重要な視点になると考える。

 以上のような観点から、宗教的な制限を十分考慮した上で、本論文で扱う閉ざされた社会における伝承について検討した。

 調査の結果、本修道院における食の伝承の形成、実態を捉える事ができた。本修道院は一般世間から離れ、社会から完全に閉ざされた限られた場として存在している。そしてそこには特定の信仰上の意志を持った人々が共同体として生活を営んでおり、その生活は一定の戒律に従ったものである。共同体は限られた社会の仕組みともいえる構造を持っており、いくつかの階層に分かれ、それに伴って労働の配分が伝統的になされてきた。こういった社会構造の枠組みの中で、食に関する伝承が存在する。具体的には戒律で禁止されてきた肉食に関するものや、自給自足を支えた助修道女(現在は廃止)の労働にまつわるもの、そして現在も使用されている修道院手話である「手まね」等である。本論文ではこういった背景にある伝承の形式をどう考えるかを考察した。

 本論文は、国内では現在までほとんど研究されてこなかった、宗教的に閉じられた社会における食文化の様相を示せたことに意義があるものと考える。また、これまで民俗学において伝承母体として扱われることがなかった閉ざされた社会の伝承について検討したことが一定の成果ではないかと考える。

北海道における葬送習俗の変容 ―帯広市域の事例より―

國學院大學大学院・高橋史弥

 本発表は、北海道の帯広市域の事例を対象として、葬送習俗の変容について、1940年代から2010年代までの37事例を使って、変化の時期とその理由を分析してみるものである。

 帯広市域の葬儀の変容を検討するために、(1)社会変化、(2)話者の説明と語り、(3)国立歴史民俗博物館の共同調査『死・葬送・墓制資料集成』にみる本州の事例との比較、からの検討を行なってみた。その検討により得られた情報は以下の[1]〜[8]の諸点である。

[1]死亡場所は、1958年の葬儀では自宅で死亡していたのが、1960年の葬儀から病院で死亡するように変化してきた。
[2]葬具作りは、1956年の葬儀までは家族や親戚、地域社会の人々が行なっていたのが、1957年の葬儀から葬祭業者の関与が始まり、1970年の葬儀からはほぼ葬祭業者が関与するように変化した。
[3]湯灌の担当は、現在まで変わらず、家族や親戚により行なわれ続けている。ただし、ユカンと言われながらも、湯水で洗うのではなく濡らした布で拭くものである。入棺もほぼ家族や親戚の手で行なわれ続けている。
[4]火葬場や墓地への遺体の運搬方法は、徒歩で葬列を組むのではなく、1940年代の葬儀からすでに馬車や馬橇で運んでいた。そして1966年の葬儀から葬儀社の霊柩車を利用するようになった。
[5]通夜や葬儀を行なう場所は、1966年の葬儀では自宅であったのが、1969年の葬儀から1991年の葬儀までは寺で行ない、同じく1991年の葬儀以降は葬祭場でも行なうようになった。
[6]土葬と火葬の有無について、今回追跡した家族単位の葬儀では土葬は確認できなかった。一方で、話者の家族ではなく、話者の在住する集落で過去にあった葬儀という視点で見てみると、1928年から1961年には土葬が行なわれていたことが確認できた。
[7]遺体や遺骨の処理については、屋内の寺の納骨堂に納める事例が多いことが判明した。屋外の墓地に遺骨を納めたのは12事例、屋内の寺の納骨堂に納めたのは24事例だった。
[8]料理の担当は、1983・1984年の葬儀では地域社会の人々が作っていたが、1985年の葬儀から仕出し屋が提供するようになった。また、葬儀終了後の料理のもてなしは、1969年の葬儀では家族や親戚がもてなしていたが、1976年の葬儀からは終了後の飲食のかわりに土産として弁当などの折り詰めを渡すように変化した。

 以上のことから、帯広市域の事例からは大きく次の3点が指摘できる。

 第一に、年代別に整理すると、1940年代は家族や親戚と地域の人々中心の葬儀、1950・1960年代に葬祭業者の関与の開始、1970・1980年代には葬祭業者の関与が中心となった。

 第二に、帯広市域の特徴を整理すると、追跡した限り、上記[3]湯灌に関してはユカンと言う言葉だけが伝えられており、体を洗う習俗は確認できなかった。水・お湯・アルコールで遺体を拭くのが一般的で、家族や親戚により行なわれ続けている。上記[4]火葬場及び墓地への運び方に関しては基本的には遺体の搬送は馬車や馬橇など徒歩以外の方法が採られていた。これは墓地や火葬場までの距離によるものと考えられる。上記[7]の遺骨を納める場所に関しては寺の納骨堂に納める事例が多いことが注目された。墓地が長く雪に埋もれることなどが原因と考えられるが、なお追跡する必要がある。特に浄土真宗などの宗派の関係はみられなかった。上記[8]の料理などに関しては、葬儀終了後の飲食のもてなしは、家族や親戚が参加者をもてなしていたのが、土産の折り詰めを渡して解散するようになった。

 第三に、『資料集成』にみる本州の事例との比較から、上記[1]〜[8]の項目についての変化の時期の共通と相違という点からいえば、[1]死亡場所の自宅から病院への変化の時期は共通していた。それ以外の項目に関しては、変化の時期は帯広市域の方が早かったことが指摘できた。個別的に注目されたのは、例えば以下の点である。上記[4]に関して、野辺送りは『資料集成』では60年代に48事例が徒歩で葬列を組んでいたのが、90年代には19事例で霊柩車を使うように変化した。ただし、90年代にも24事例が徒歩で葬列を組んで行なった事例が残っていたが、帯広市域では前述のように徒歩による野辺送りがほとんどなかった。上記[7]に関しては、遺体や遺骨は『資料集成』では全ての事例で屋外の墓地に納めていたが、帯広市域では前述のように遺骨を寺の納骨堂に納める事例が多かった。

 なお、葬儀の場合とは異なり、正月の雑煮の習俗は、帯広市域で追跡した限り、ほとんどの家で出身母村から雑煮を受け継いでいるという認識があった。一方で、葬儀は、本州の母村の習俗を受け継いでいるとの認識はなかった。少なくとも追跡した限り、葬儀と雑煮では、北海道への移住の中で、持ち込まれ方に違いがあったことが指摘できた。

都市祭礼研究における再伝統化及びポリティックス ―八王子まつりを事例に―

お茶の水女子大学大学院・コロトヴァ エレーナ

 修士論文では研究対象として都市祭礼、その事例の一つとして八王子まつりを研究対象とした。日本民俗学における祭礼研究では、八王子まつりのような市民祭の研究は非常に少なく、従来の民俗学者には関心が低いテーマである。1970年代以降、徐々に研究者の間でも都市祭礼が視野に入り始め、「都市民俗学」や「都市社会学」などの研究枠組みが提示された。しかし、研究対象とされてきた「都市祭礼」は、主に長い歴史を持つ京都祇園祭などのような伝統的な祭りか、伝播力の強いねぶた、阿波踊り、よさこいなどの祭礼であった。現在でも市民祭はほとんど研究されていないのである。しかし、半世紀前に開催され始めたいわゆる「神なき祭り」である市民祭は現在、どのような形を取り、いかなる意味づけされているかは大変興味深いテーマである。その一方で、市民祭はある都市の市民が自分らしい解釈での「伝統的」文化を再現する絶好な「場」だと考える。こういう市民祭のひとつである、東京都八王子市で行われる八王子まつりを研究対象にした。「文化捏造」と「ポリティックス」をキーワードに、八王子まつりの歴史について考察し、主な課題として、1961年〜2000年の市民祭であった時期を詳細に論じた。また、2002年以降の八王子まつりの変遷及びその理由についての検討を試みた。そして、八王子まつりでの参加単位である、八王子市南町で3年間にわたってフィールドワークを行い、南町を事例に八王子まつりに起きている文化の捏造を中心に論じた。

 八王子まつりは50年前、1961年に八王子市民祭として開催された。1968年に「八王子まつり」に改名されたこの市民祭では、次第に規模が拡大され、プログラムの中に山車・みこし・歴史行列などの伝統的とされる要素が含まれた行事が増加した結果、まつりが徐々に観光化されはじめた。そして2002年に市民祭が姿を消し、まつりの改革によって山車を中心とした「伝統的な」まつりができた。

 八王子まつり研究には、現在行われている「伝統化」された八王子まつりが、江戸時代に始まった八幡八雲神社及び多賀神社両社の神社祭礼・その一部であった花車(山車)曳行を復元したという視点、また、八王子まつりが江戸時代から連続するという仮説も参加者、研究者の間に存在する。実際、江戸時代〜昭和初期では八王子の八幡八雲神社及び多賀神社に両社祭礼の一部であった山車曳行が、1940年代まで実施されていたが、40年代半ばに中止となった。山車曵行は1966年以降市民祭のプログラムに組み込まれたが、それ以降実施され始めた山車曳行、そして2002年以降の「伝統的」となったまつりで行われる山車曳行は「伝統的」であるのか、つまり、連続性を持つかについて検討するため、本論文では八王子まつり以前の神社祭礼、市民祭、そして2002年以降再伝統化された八王子まつりの考察を試みた。

 市民祭は、1940年代以前に行われていた神社祭礼と、2002年以降の再伝統化され始めた八王子まつりの中間的な存在である。江戸時代から現在までのまつりには連続性が存在しないのは、以下の理由のためである。

(1)まつりの主催者は神社から八王子市に変わり、そのトップである八王子市市長が主導するようになった。
(2)参加状況は、神社祭礼の時のその神社の氏子から、市民祭のときでは八王子市民という単位、1968年以降はさらに市民ではなくても参加可能という状況がうかがえる。また、参加状況は地縁・血縁関係から、友縁関係に変わったことも窺える。
(3)まつり開催に必要とされる資金の運用も、氏子によって集められたまつり開催のための資金から、主に八王子市及び企業が提供する資金に変わった。
(4)行事での内面的・外見的な変容、借用された行事の増加。

 八王子まつりに連続性が認識されているのは、八王子市・まつり実行委員会によるまつり史の書き直しのためであり、1990年代後半から始まったまつりの変遷には、文化の捏造プロセスがみられる。

 2002年に市民祭が中止され、新しい八王子まつりが開催されるようになった。前述してきたように、八王子まつりの歴史、特に市民祭であった時期を検討した結果、市民祭が改革された理由は観光化にあり、八王子まつりにより多くの観客を呼ぶために地域文化が観光資源として使われているといえる。一方、南町の事例を通して、八王子まつりで起きている伝統の捏造の過程を検討した。「伝統」と意識されているまつりの要素は、実際は借用され、創造され、アレンジされたものであることが明確になった。しかし、その点は、時代とともに変わる日本の「まつり」にふさわしく、以前からあった特徴だといえる。また、「ポリティックス」をキーワードに、八王子まつりを主催する実行委員会、市民祭開始以降の4人の市長による影響を明確にした。日本民俗学ではそれほど注目されてこなかったこのテーマは、今後ももっと注目すべきだと考える。

日本における外来祝祭イベントの変容と展開 ―アイルランドの聖パトリックスディを事例に―

慶應義塾大学大学院・蛇沼卓矢

 本論文の目的は日本における外来祝祭イベントの変容と展開のあり方をアイルランドの聖パトリックスデーを事例に明らかにすることである。聖パトリックスデーとは3月17日に行われるアイルランドの祝祭行事でキリスト教の守護聖人パトリックの命日に祝われる。この日人々はアイルランドを象徴する緑で装い、パレードを観賞、春の訪れを祝うとともに伝統的な料理やお酒を楽しみクラックと呼ばれるらんちき騒ぎのような空間を演出する。いわばアイルランドを誇ることを目的とした重要な祝日である。この祝日はアイルランド系移民の多い欧米圏で広く祝われ、日本でパレードは1992年に始まり、2012年現在、ボランティア団体「アイリッシュ・ネットワーク・ジャパン」(通称:INJ)を中心に全国12カ所で開催している。

 この祝祭はバレンタインデーやクリスマスのようにグローバルな外来祝祭イベントとして共通している反面、祝祭内容が「国色の緑色を纏う」等でその国のナショナリティと切り離すことが出来ず、イベント自体が形骸化し日本人の伝統的行事/習慣に組み込まれ消費される他の外来祝祭とはまた異なる趣を持っている。

 ゆえに他の外来祝祭に比べ祝祭の外来性の作用が明瞭で、日本人の当事者達がそれをどう溜飲し、自分達の文脈に置き換えて、普及させるのかを検証するのに最適な事例といえる。外来祝祭研究において外来性の作用に注目した研究はなく、問題であると言える。

 よって本研究では外来祝祭研究において重要視されてきた消費効果と社会現象といったマクロな視点のみで祝祭を捉える見方を、担い手の組織構成や集団意識から生み出される祭りの様相変化を検討するという手法により検証し直し、外来祝祭イベントに対してより一層分析を深める。

 調査は各地のパレード関係者、参加者、アイルランド文化団体の関係者、駐日アイルランド政府関係者へのインタビューを中心とし、付随して日本社会のアイルランド文化受容動向について、新聞や雑誌で調査を行った。

 第I章ではアイルランドについて概説。その歴史、文化的背景を踏まえ聖パトリックスデーのグローバルイベントとしての展開を論じ、実際の聖パトリックスデーを構成する「パレード(セレモニー)」と「クラック(らんちき騒ぎ)」と呼ばれる性質について言及し、祝祭の一定の定義付けを行う。それを踏まえ第II章からは日本の聖パトリックスデーの動向を検証。日本のアイリッシュ・ネットワーク(INJ)は90年代初頭、多くのアイリッシュにより活気があり、都内で大使館と結託して日本社会に自分達の活動範囲を開拓する運動を行った。その一環としての92年から始まった「メモリアル・セレモニー」としての東京パレードの様子を述べる。

 第III章では、90年代後半の不景気と外国人の社交空間の拡大による組織のアイリッシュ離れと日本人化、それに伴うパレードの規模拡大と「地域イベント化」について述べる。第IV章では2002年の日韓ワールドカップをきっかけに急増したアイリッシュ・パブとそこで培われるアイルランド愛好家の存在について紹介し、パレードが周辺のアイルランド文化需要の増加と相互に発展してゆく様子を述べている。第V章は2002年以降のアイルランド・ブームを背景にした、聖パトリックスデー・イベントの全国展開の動きを紹介し、アイルランドの象徴である「緑」を媒介に地域の「緑」と融合する様子をあげ、その構造の共通項や特殊性を比較検討する。また運営において大切な道路使用をめぐる警察や行政などの権力との関わりにも言及する。第VI章では2011年3月に起きた東日本大震災を受けての各地のパレード中止をめぐる混乱と、再び活発になった各地のアイリッシュ・ネットワークの構築、そしてその価値を見直す原点回帰の議論を事例に聖パトリックスデーを担う組織の価値観の再構築の動きから現在の状況を紹介する。

 以上の事例から、日本の都市祭礼をめぐる状況には社会の「包囲・監視」の厳しい力があり、地域との文脈的繋がりのない新興の外来イベントはグローバル・パワーによる保護・保障により外来性を付与されることで存在し続けられていることがわかる。そして外来イベントは持続してゆく中で地域との結びつきが生じ、結果そのグローバル・パワーの保護・保障の影響下にありつつも、徐々に祝祭と地域との共通項を通して独自のものに変化してゆくといった外来祝祭イベントの土着プロセスがあると言える。今回は当事者達に焦点を当てた分析が主であったので、外来祝祭イベントを一般大衆がどう理解してゆくか分析することを今後の課題としたい。

演じられる「伊勢大神楽」 ―伊勢大神楽講社の活動から―

大阪大学大学院・黛友明

 本論文は、上演に着目して、伊勢大神楽とその歴史を分析するものである。伊勢大神楽は、江戸初期に成立したと考えられる獅子舞と放下芸を行う芸能である。現在は、「宗教法人伊勢大神楽講社」(三重県桑名市太夫増田神社)に所属する6組が、滋賀県を中心に一年かけて西日本各地を回り、米や酒、金銭などの初穂料を得て、各戸の祓いや広場でのパフォーマンスを行いながら、生活している。近年は、北川央による歴史学的な研究が進み、江戸時代の実態が明らかとなってきているが(「伊勢大神楽」『シリーズ身分的周縁 二 芸能・文化の世界』吉川弘文館、2000ほか)、近代以降の変化や、実際の上演プロセスは未だに明らかになっていない。そのため、大道芸・門付け芸といった類似芸能が見られなくなった状況のなかで、なぜ/どのように伊勢大神楽が行われているのかに着目し、担い手の実践を歴史・社会的状況の中で位置づけることを本論文で試みた。

 第1章では、近代以降の状況を俯瞰しながら、研究史を検討した。伊勢神宮御師の支配下にあったことから、明治時代に「宗教」的活動が禁止されて以降は、「遊芸稼人鑑札」を受け、「遊芸」として行われていたと思われる。その後、1930年に教派神道の組織に所属した。敗戦後は宗教法人となった。1950年代からは民俗芸能大会へ出場し、1981年には国の重要無形民俗文化財の指定を受けている。研究上では、柳田國男、折口信夫、堀田吉雄、本田安次、宮尾しげを、小沢昭一などが、民間信仰、民俗芸能、放浪芸の文脈で触れている。担い手はそのような評価に規制を受けながらも、利用もしてきた点に触れ、次章でその実践に着目する方向性を示した。

 第2章では、伊勢大神楽講社加藤菊太夫組へのフィールドワークをもとに、個々の担い手と芸能の関係を記述した。伊勢大神楽の組は、世襲制で太夫名を名乗る親方と子方によって成り立っている。以前から人員不足が深刻であったが、加藤組は、1990年代に長野県や東京都で公演をきっかけとして入った新たな担い手が、現在、中心的なメンバーとなっている。「長持」と呼ばれるお宮をリヤカーに乗せて移動しながら行われる門付けや、広場で行われる「総舞」の様子を記述した。また、「外」から入ったメンバーへのインタビューから、旅という生活のあり方や笛の音に魅せられ、酒によって接待してくれる観客に驚きながら、徐々に参加の度合いを強め、組の中での役割を得て、伊勢大神楽の一員となっていく過程を描いた。

 第3章では、最も伊勢大神楽が盛んに行われている滋賀県を中心に民俗調査報告書における記述を整理することで、観客の問題の検討を試みた。「獅子舞の歌」「伊勢大神楽数え歌」などの民謡、若者組や伊勢講が主体となって行われる接待、伊勢大神楽の訪問に際して行われる獅子舞嫁見などの慣例をとり上げ、見る側の「創造」的側面を指摘した。獅子に向けられる信仰もそのような文脈でとらえ、観客の「創造」が伊勢大神楽の実践に影響を与えながら、場が展開してきた歴史性も指摘した。

 以上のように、上演の場は、研究者、担い手、観客が関わりながら成立している。民俗芸能、放浪芸、信仰、芸への評価を受け止める担い手たちを一つの組に焦点を当てて検討した本論文では、伊勢大神楽の歴史を記述することで、現在において歴史性を持った芸能が上演される場に働く言説と実践の布置連関を明らかにした。

 発表では、加藤組の事例から、担い手にとっての社会状況と上演に関わる語りに着目した。前者については、活動の効率化がもたらされた一方で、継続的な関係を築く障害となる都市化や観客としての子どもの減少などといった不安を指摘した。

 上演には「困難」と「おもしろさ」の感覚が不可分に存在している。そのことを、習練を要する放下芸を行う芸人と、彼と「掛け合い」を行う道化役という2人の語りに着目して明らかにした。両者の「困難」は内容も質も、それに対する意識も異なるが、「外」から組に入ったことが重要な点としてあげられる。芸人は習練開始が遅かった「困難」について触れながら、「努力」によって親方の評価を変えてきたと語る。道化役は、訛りに苦労したというが、自由度・客との近さなどを魅力として語ることが多かった。その語り方を、放浪芸の言説と比較し検討した。

 宗教、民俗、芸能、労働とも関わる伊勢大神楽は社会や時代とどのように関わってきたのか。今後は、担い手や観客へのさらなる聞き取りや、類似する事例との比較を通じて、大道芸・門付け芸から「歴史」を読む作業を続けたい。

保存会から見る芸能伝承の現在 ―鷲宮神社催馬楽神楽と玉敷神社神楽の事例から―

成城大学大学院・田村明子

 鷲宮神社は埼玉県久喜市鷲宮に鎮座する大社である。鷲宮神社は古くから土師一流催馬楽神楽の存在で知られていた。催馬楽神楽は関東の里神楽の源流とされ、それが江戸へ伝わる伝承経路上に玉敷神社があるとされる。埼玉県加須市騎西に鎮座する玉敷神社でも神楽が伝承されており、両神楽は、記紀神話を題材とし、黙劇の舞い、特定の家々に世襲で伝承されてきた点など、共通項が多いとされ、神楽研究史上早い時期から注目されてきた。催馬楽神楽の魅力は、古風な芸態を保持していることにあるとされる。一方で、催馬楽神楽は戦後になって著しく衰退し、一時はほぼ断絶したと言われるほどであった。現在、催馬楽神楽は鷲宮神社催馬楽神楽保存会によって伝承されている。玉敷神社神楽も、神楽師の世襲というシステムは崩れ、現在は玉敷神社神楽保存会によって伝承されている。このような保存会による芸能の伝承は、今日、各地で見られる。特定の人々によって伝承されてきた芸能が、保存会という名の下に結成された集団によって伝承されるようになったのは戦後になってからである。芸態を伝えるのはあくまで伝承者であり、現在、伝承者とは保存会員であるため、芸能研究では、保存会に視点をあてていくことも必要である。

 また、関東の里神楽はしばしば神社の所属とされ、神社での奉納が主な活動となることから、神社や神主との関係に着目しなければならない芸能である。近世から近代への歴史的推移上、国家神道の形成に影響され、神社のシステムは大きく変容した。近世から近代に見られるこのような変容は、所属する神楽と神楽師集団へも少なからぬ影響を与えてきたものと思われる。現在の神楽を伝承するものとして保存会を捉えるとき、神社と神楽師集団の関係が、保存会という新たな集団へ変遷する過程でどのように変化したのかについても視野に入れなければならない。本論文では以上の問題意識の下、催馬楽神楽保存会と玉敷神社神楽保存会を題材とし、神楽師から保存会への歴史的推移、神社・神主との関係を明らかにした。

 第1章では民俗芸能研究史の整理を行い、筆者の立場を明らかにした。民俗芸能研究のおおまかな流れとは、芸態研究から担い手研究への移行である。しかし、その中で埼玉の民俗芸能研究では担い手に着目するアプローチは試みられていない現状である。本論文では、担い手、特に新しい伝承者として注目される保存会の活動に焦点を当てて埼玉の芸能史の中でも重要な意味を持つ催馬楽神楽とその派生形とされてきた玉敷神社神楽の歴史を再構成することに努めるものとした。

 第2、3章では、催馬楽神楽と玉敷神社神楽を概観した。地域における神社の歴史を史料から辿り、神楽および神楽を伝承する人々が地域や神社にとってどのような位置づけにあったかを明らかにした。

 以上を踏まえ、4章で考察を行った。近世において両神楽が神社や地域に対してどのような役割を果たしてきたかを読み取った。鷲宮神社は関東でも屈指の大社であり、神楽を行うことは神楽師、神社の双方にとって大きな経済的利益につながっていた。一方、玉敷神社は、鷲宮神社に比べては非常に小さな神社であり、玉敷神社神楽の神楽師は、催馬楽神楽の神楽師ほどの経済的特権を与えられていなかった。このような立場の違いは、近代に入り、明治政府によってそれまでの神社制度が否定された際に、大きな違いとなって現れる。鷲宮神社は、それまで世襲であった神主家が明治政府によって否定される。それまであった広大な社領も取り上げられ、神楽師の経済的特権がなくなる。明治から戦前の50年余りを経て、新たな巫女神楽の登場により、向かい合う神楽殿と拝殿という特殊な環境によって培われていた精神的なつながりも否定され、神楽師の系譜は断絶する。他方、玉敷神社は、社領はなくなるものの神主の世襲は変わらず、神楽師との関係が保たれる。そののち、第2次世界大戦を境に催馬楽神楽は神楽師の世襲が途絶え、復興の運動を経て新たな芸能集団が誕生する。断絶と復興を経験したことにより、催馬楽神楽の伝承者は大きく変革する。それは自分たちの呼称や練習方法、神社とは異なる集団との関係に現れる。玉敷神社では、そのような変遷はなかった。これは、明治における神社システムの変遷がなく、そのために神楽師集団の変遷も起こらなかったためである。そのために、催馬楽神楽のような大きな変化がなかったものと考えられる。

 両者の属する神社の社格、また宮司・神主の関わり方により、各々の伝承集団には明らかな差異が見られることがわかった。この差異は、歴史の蓄積によって現在、顕現しているものである。今後、これらの神楽集団が、どのように変遷していくのかも合わせて見ていく必要があろう。

岩手県におけるベットウ ―内陸南部と北部の比較から―

弘前大学大学院・佐藤拓朗

 北東北地方には、集落の氏神祭祀にベットウと呼ばれる人物が深く関与する習俗がみられる。多くの場合、ベットウは集落ごとに存在し、広く地域住民に認識されているにもかかわらず、これまでベットウを主題に据えた研究はほとんど行われてこなかった。本発表では、岩手県内陸北部および同南部を対象地域とし、ベットウの輪郭を明らかにする。そして両地域の比較を通し、ベットウの地域的偏差、そしてその要因を示そうとするものである。

 まず、拙稿「ベットウと神社祭祀」(2008)を土台として、岩手県八幡平市安代地区のベットウについて検討を行い、当該地域のベットウを縁取る基本的要素を示すことができた。そしてベットウが祭の場で果たす役割について検討し、ベットウが祭礼の準備や供物の用意など、世話人のようなものから、祭の執行に不可欠な部分を担っているものまで、多岐に渡ることが明らかとなった。また、ベットウは日常的な社殿や境内の維持管理にも携わっており、集落の神社祭祀に係る種々の役割がベットウに集中していることになる。従って、岩手県にみられるベットウを中心とする神社祭祀のあり方は、畿内を中心に分布し、当屋制に基づく神社祭祀組織である宮座と対照的なものといえる。

 次に、八幡平市での成果を踏まえ、岩手県南部に位置する奥州市水沢区および江刺区におけるベットウについて考察を行った。その結果、奥州市でみられるベットウも、八幡平市のベットウにおける基本的要素として挙げた上記4点が大枠で共通することが分かった。つまり、これは八幡平市と奥州市という遠隔に位置し、また近世期に異なる藩領に位置していた両地域において、神社祭祀に関わるベットウという存在に深い類似性が認められるということである。

 ただし、両地域のベットウに通じる部分が多いとはいえ、奥州市においてのみ、ベットウ家が他家に交替するという事象が見られ、またこの場合、同時に境内地の所有権移転を伴っているということに注目できる。これは両地域におけるベットウの根幹を考える上で重要な点であると考えられる。

 八幡平市のベットウは、ベットウ家がその役割を果たせなくなった場合、神社の管理が集落の組織に移ること、またほぼすべてのベットウ家が草分けといわれる本家筋の家であることから、当該地域のベットウ家は、その家が有する古い歴史性を成立の条件とすることが窺える。これに対して、経済的な困窮に見舞われながらも境内地を所有し続けたベットウ家と境内地を手放したベットウ家の事例を検討することで、奥州市のベットウは境内地を所有するということに条件づけられて存在していることを明らかにした。すなわち、村氏神のベットウ家であるということは、八幡平市では家に付帯する性格をもつ一方で、奥州市においては境内地に付帯するものであるということができよう。

 このような両地域の差異を形作った要因を探るため、近世期に両地域がそれぞれ属した盛岡藩、仙台藩の農業政策および両地域の同族結合のあり方について検討を行う。まず農業政策の観点からすると、盛岡藩は水稲栽培の気候的な限界や、藩領が大河や平地に恵まれなかったこともあり、新田開発が盛んに行われなかった。そして岩手県北の山間に位置する八幡平市では、多くの土地を有する本家に分家が依存するという形態で生業経営が行われていたとみられ、またこれによって同族結合が堅固なものになっているのである。これとは対照的に、仙台藩は米産を藩の基幹産業として位置づけ、近世前期において非常に盛んな新田開発が行われた。そのため仙台藩では本百姓の独立が多く、家の持つ古い歴史性と農業による経済的優越性とが必ずしも結びつかなかった。また、各家の農業生産力も八幡平市の場合に比して大きく、本家に依存するという形態が成立しなかったことにより、同族結合が緩やかになっているといえる。

 集落単位での神社祭祀に関わるベットウという存在は、少なくとも岩手県内に広く分布しており、また一見そのあり方に違いがないように思われる。しかし、今回取り上げた内陸北部と南部では、それぞれ家に付帯するものか、また境内地に付帯するものかという点で、ベットウ成立の根幹にある条件が異なっていることが明らかとなった。とはいうものの、ベットウのあり方は生業の違いや同族結合の様態によって、地域的にどのような差異があるのか、また神社祭祀に関わる存在としてのベットウがどの程度の広がりを持つのかなど、東北地方の神社祭祀研究にはいまだ多くの課題が残されているといえよう。