第864回談話会要旨(2012年9月9日=映像民俗学の新展開)
※『日本民俗学』273号より転載しました。引用等につきましては「日本民俗学会ウェブサイトご利用上の注意」をご確認ください。
上映と報告:えんずのわりの子どもたち―東松島市宮戸島における震災と民俗行事の再建
遠藤協(映像制作者)
1. はじめに
2011年3月11日の大津波によって宮城県東松島市は大きな被害を受けた。筆者は、この前年の10月から東松島市宮戸島の月浜地区に伝わる小正月行事「えんずのわり」の記録映像制作に従事しており、2011年1月に一連の行事を記録した後、東京で記録映像制作の最後の仕上げ作業を行っている最中に大震災が発生した。幸い月浜に人的な被害はなかったが、家屋や家財、車両、生業の基礎となる船や海苔の生産設備、民宿の施設等のほとんどが失われた。「えんずのわり」は存続が危ぶまれたが、その年の秋には行事の存続が集落で採決され、2012年小正月、行事の重要な次第である「集落まわり」が仮設住宅にて行われた。筆者を含む撮影クルーは、この様子を記録した。今回の発表では、大震災前後のふたつの記録映像を併せて上映し、行事がこの大災害のなかで、どのように催行されたのかを簡潔に報告した。
ひとつめに上映した『えんずのわりの子どもたち』は、文化庁のふるさと文化振興事業「地域伝統文化伝承事業」(平成22年度)の助成を受け制作した記録映像である[註1]。2010年10月より始められた行事の準備と、2011年1月の行事の本番を記録した[註2]。ふたつめの『えんずのわりの子どもたち その後』は、震災の翌年行われた行事の記録である。震災約20日後の月浜地区の様子と、2012年1月の行事の様子を収録している[註3]。
2. 行事の概要
「えんずのわり」は「意地の悪い(えんずのわり)鳥」に由来すると言われる小正月の鳥追い行事である(平成18年重要無形民俗文化財指定)。地区の小学2年生〜中学3年生の男子が、新暦1月11日〜16日までの間、集落の五十鈴神社のそばにある岩屋で「お籠もり」をし、精進潔斎する[註4]。14日の夜、先端を尖らせた赤松の枝をもち集落を祝福してまわる「集落まわり(本番)」を行う。このとき子どもたちは各家の実情に合わせて「海苔大漁しますように」「つぼ網大漁しますように」「民宿繁盛しますように」「商売繁盛しますように」「じいちゃん・ばあちゃん長生きしますように」「お子さんすくすく育ちますように」「○○さん達者で働きますように」などの唱え言をする。このことからもわかるように「えんずのわり」は、一年間の無病息災や豊漁豊作を祈願する行事である。
3. 震災前後からの経過
震災以前、行事に関する一番の懸案事項は少子化問題であった。2011年参加の中学3年生3名が卒業すると、翌年は小学生3名だけで行事を行わなければならなかったからである。そこで2011年2月21日の地区総会(伊勢講)では、行事の参加年令引き上げが提案され、高校生たちに対して個別に応援を要請していくことが採決された。3月11日の震災では、お籠もりに使う岩屋が天井まで浸水、泥水に覆われた。煮炊きに用いる鍋釜などが流失し、岩屋内の電気系統も故障した。8月21日、地区の総会で教育委員会A氏により、流失した道具類の購入や岩屋の修理のために文化庁の補助金を利用する提案がなされた。この月には、集落の高台に生活の基礎となる仮設住宅が完成した。11月、地区の集会にて来年も行事を行うことが正式決定。えんずのわり保存会会長のO氏によれば「一回やめてしまうと出来なくなってしまう。行事が中断すると、再建するのは前以上に大変。なんでもそうだが、問題がある時でも、継続していくことで力が出るのではないか。子どもたちがやりたいというのなら、やろうと考えていた」とのことだった。
2012年1月、震災後はじめてとなる「えんずのわり」が行われた。11日から例年通り岩屋での「お籠もり」。各家を祝福する「集落まわり」は仮設住宅にて行われた。以前とは異なる行程のため一部の参拝箇所を飛ばしてしまうなどやや混乱もみられたものの[註5]、当日は地区外に避難している住民も仮設の公民館に集まり、祝福を受けることができた。
「集落まわり」では、子どもたちの唱え言の仕方にも変化がみられた。「民宿を再開する予定があるか?」「海苔やつぼ網を再開する予定があるか?」など各家の実情を注意深く聞き取りながら、唱え言の内容が選ばれていた。また、各家での締めの言葉には「震災復興するように」という一語が新たに加えられた。これは今年大将を勤めたS君の祖父が子どもたちに提案したものだという[註6]。このように従前と比べて変更点の多かった現状について、保存会会長のO氏は「変更した点や、出来なかったこともあるが、2、3年間はひとまずこの形でやって、復興住宅が出来たら、また相談してやり方を考えていこうと思う」と述べている。なお今回の行事に臨むにあたって、子どもたちと保護者は、昨年筆者らが制作した記録映像のDVDを視聴し、事前に行事の流れをおさらいするのに利用したことも申し添えておく[註7]。
4. まとめにかえて
今回の記録映像制作においては、民俗行事のたくましさ、それが人々に与える力の大きさを実感した。なにもかもが変わり果ててしまった集落の中で、例年のように行われた行事での子どもたちの元気な姿が、懐かしさと安心感を与えているのが人々の表情からみてとれた。
行事の催行に関して、今年は休止すべきではないかという意見もあったと聞くが、たとえ不恰好でも、行事を存続させることで得られる効果は大きかった。非常事態にあって、人々を勇気付け、恒常性を取り戻す営みとして、例年のように民俗行事を執り行うことの意義は大きかったと感じる。「えんずのわり」が、地区の人々にとって確かな紐帯となっていることが、震災前後を通じて記録することで実感された。
一方、行事の内容は震災後の実情を鑑みて臨機応変に対応していた。唱え言の内容は注意深く選ばれていたし、集落を元気付ける言葉として「震災復興するように」という一語が付け加えられた。数百年間続けられてきたというこの民俗行事のたくましさの一端をみたように感じる。
しかし、今年も行事が行われたとはいえ、月浜地区では震災を契機に男子の転出がみられたという。また島民の避難所として活躍した宮戸小学校も市の復興計画に伴う統合の俎上に載せている。「えんずのわり」を支える子どもたちを巡る状況は依然として厳しいものとなっており、行事の存続が決して楽観視できるものであるとは言えないだろう。
《参考文献》
- 柏井容子編集、月浜のえんずのわり映像記録作成指導委員会監修『えんずのわり解説書』(宮城県地域文化遺産復興プロジェクト実行委員会・えんずのわり保存会発行、平成24年)
《註》
- この記録映像製作事業では、記録映像版(約104分)と普及版(約17分)を制作し、150セットのDVDを作成のうえ、地元関係者に配布する予定だった。『えんずのわりの子どもたち』はこの「普及版」にあたる。
- 『えんずのわりの子どもたち』(2011年/DVD/カラー/16:9/17分)【企画・製作】えんずのわり保存会【監修】月浜のえんずのわり映像記録作成指導委員会【制作】アムール【構成】飯塚俊男【撮影】重枝昭典【取材・録音・編集】遠藤協
- 『えんずのわりの子どもたち その後』(2012年/DVD/カラー/16:9/9分)【制作】アムール【撮影】重枝昭典【取材】飯塚俊男・遠藤協【録音・編集】遠藤協
- 2011年は中学生3人・小学生3人の計6人、2012年は小学生3人だった。行事では、このほかに「センパイ」と呼ばれる20歳くらいまでの直上の青年男子のほか、子どもたちの保護者が折に触れサポートを行っている。
- 地区の昔の共同井戸である「御井戸」に参拝し唱え言をあげるはずが、この時は行程を飛ばしてしまった。被災した集落の内側に位置する場所だったためと思われる。
- S君の祖父によれば、唱え言を「これまで通りに言うのは実情にあっていないと感じた。元気のでる言葉を言うのがいいのではないかと子どもたちに提案した」ところ、子どもたちがそのアイデアを受け入れたとのことだった。
- 震災前の2011年の行事を記録したDVDは、完成後地区の関係者に配布される予定だったが、同封の解説書を制作する印刷所が津波の被害を受けたため住民への配布は大幅に遅れた。配布前のDVDは避難所で数回の上映の機会がもたれ、被災者から「今となっては貴重な記録になった」との声が聞かれたという。
民俗誌映画のアーカイブ化―マテリアルとしての映画情報の取得と保存活用
内田順子(国立歴史民俗博物館)
はじめに―映画を「もの」として研究し始めたきっかけ
2004年春、国立歴史民俗博物館において、所蔵している映画フィルムのうち、可燃性フィルムや劣化フィルムについて、どのように保存すべきか検討が行われた。この中に、アイヌ民族のイヨマンテに関する可燃性の35ミリフィルム4巻が含まれていた。
このイヨマンテのフィルムは、ニール・ゴードン・マンロー(1863年スコットランド生。医師・考古学者・人類学者。1942年没)が昭和初期に撮影したもので、マンローの死後、残された未編集のフィルムを使用して、1965年に東京オリンピア映画社が『イヨマンデ 秘境と叙情の大地で』を製作したことで知られている。また、岡田一男氏の御教示により、マンローは生前、編集した映画をイギリスの王立人類学協会に送っていたほか、それと関係の深いフィルムが北海道大学に残されていることがわかった。歴博所蔵のフィルムの収蔵経緯や来歴は不明であったため、関連するほかのフィルムと比較することを通して資料批判的な研究を行い、ほかでも入手可能なものであるのかどうか、オリジナルフィルムとの世代的な関係などを明らかにして、適切な保存方針を講ずる必要があった。そのため、「イメージ」の研究にとどまらず、「もの」としてのフィルム研究が必要となった。
マンローフィルムの資料批判的研究の成果
歴博所蔵のフィルムと、関連するいくつかのフィルムとの比較研究によって、それらの相関関係が解明できたほか、歴博所蔵のフィルムが、撮影ネガに世代的に近く、また、このフィルムにしか残されていないショットがあることも明らかになった[註1]。フィルムに写っているイメージだけでなく、フィルムのエッジに刻まれた情報(フィルムの製造元や製造年)や、フィルム編集の痕跡(ショットとショットのつなぎかた、エフェクトの処理等)を調査しなければこれらのことは十分に明らかにすることはできなかった。また、フィルムだけでなく、関連する写真資料(映画撮影と同じ現場で撮影されていた写真)、文書資料(マンロー自身が書いた手紙等の文書)などを合わせて精査していくことで、マンローの映画制作の意図やねらいが明らかになった。それによって、彼の死後、同じ素材から生まれたほかの作品が、その時々の制作目的に応じて映像をよみかえることで作りなおされたものであり、当初の制作意図と異なるものになっていったことが、より鮮明に明らかになった。
映画の資料批判的研究を可能にするもの
マンローのフィルムについてこうした研究が可能になったのは、第一に、フィルムが残っていたおかげであり、かつ、それらの視聴を所蔵者が許可してくれたためである。第二には、マンローが映画制作に関連して残した写真や文書が現存し、それらを調査することができたからであった。
このように、過去の映像の研究には、当然のことながら、映像を見ることが可能であることが必要である。さらに、制作に関連する諸情報があれば、それらをあわせて閲覧できるとなおよい。というのは、映像は本質的に、誰かが何らかの目的で、選別し、解釈し、操作してつくられているものであるからだ。そうであればこそ、それらの選別・解釈・操作についての研究・批評が必要となる。
しかし、過去の映像を視聴することは、なかなか容易にはならない。「誰が映像を見せたり、編集したり、保存したり、解釈したり、活用するのを許されているのか」(ジャック・デリダ、ベルナール・スティグレール『テレビのエコーグラフィー』NTT出版株式会社、2005年)という問いを、映像制作者も映像を所有している機関も真摯に考える必要があるだろう。しかしながら、私の勤務先である歴博も、歴博が展示等の事業の関連で制作した映像についてさえ、過去の映像を外に開いてゆくことは容易ではない。館内のビデオブースのシステム変更に伴う媒体変換が必要となったときには、対象となる映像の大半が、著作権や肖像権について文書で詳細な契約を交わすことが一般的でなかった頃に制作されたものであったため、その確認作業に多くの時間と労力が割かれた。権利関係が確認できなかったものは、媒体変換と公開を見送る場合もあった。
著作者の権利を守りながら、同時に、映像が死蔵されることがなくなるような知恵を、映像に携わるものたちが見出していく必要がある。公表された過去の映像へのアクセスが保証されるようなしくみの必要性については以前から指摘されているが[註2]、映像文化が活字文化ほどにまで成熟するには、まだ多くの時間が必要なのだろう。
《註》
- ビデオ「AINU Past and Present ―マンローのフィルムから見えてくるもの―」(102分、製作・著作:人間文化研究機構国立歴史民俗博物館、製作協力:東京シネマ新社、2006年)、「平成17年度 国立歴史民俗博物館 民俗研究映像『AINU Past and Present ―マンローのフィルムから見えてくるもの―』:映画フィルムの資料批判的研究に関連する研究ノート」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第150集 179〜192頁、2009年3月)など。
- たとえば、野崎茂「高度情報社会と映像文化―映像の『保存―蓄積―継承』という問題をめぐって」(植条則夫編著『映像学原論』ミネルヴァ書房、1990年)。