談話会要旨-第909回(2019年度 民俗学関係卒業論文発表会)A会場

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A-1. 儀礼に表象されるもの ―京都府相楽郡の居籠祭を事例として―

西尾栄之助(京都先端科学大学)

 本稿では、京都府の南部に存在した祝園村(現・京都府相楽郡精華町祝園)と棚倉村(現・木津川市=旧・相楽郡=山城町平尾)の二地域における祭祀儀礼を対象にして、民族誌的分析を試みた。

 祝園と棚倉は木津川を挟んで対峙する村であり、同様の特徴を持つ「居籠祭」という祭祀儀礼を互いに共通して保有する。居籠祭とは、祭事中における忌み籠りの厳粛な祭のことで、両村共に現在でも氏子は村を挙げて徹底している。両村の居籠祭は祭事内容の特徴や起源説話に、極めて近い類似性を持っているが、調査を行えば両村の間には、むしろ対立に近い関係性が横たわっている事実が浮上する。しかし、河川を挟んで対立関係を結ぶ他の事例に見られるような、川に付随する権益の控除性(subtractability)等に由来する背景は、祝園と棚倉の間には存在していない。対立の背景について、一部の住民は千年以上にわたり伝承されてきた神話的世界観を持ち出して説明しようとする。

 神話的に語られる過去から始まり、偽史言説が発生し受容された近代、そして儀礼が文化財として保護されるようになる現代までを貫いて存在するこの儀礼には、両村を含む当地域におけるイデオロギーの変遷が、言説レベルを超えて内在する形で表象されるものではないかと考察する。

A-2. 「物忌」のゆくえ―伊豆諸島における来訪神伝承の消長―

辻涼香(関西学院大学)

 伊豆諸島には、1月24日の晩に海の彼方から来訪者が現れるという信仰がある。来訪者の呼び名は島ごとに異なり、「日忌様」、「海難法師」、「二十五日様」などとさまざまである。さらに、その正体に関する伝承も多様であり、「神」、「島民に殺された悪代官の怨霊」、「悪代官を倒した島民の霊」などとして語られている。しかし、夜は外出を避けて家に静かに籠り、決して海を見ないようにする「物忌」を行なうこと、また、神職の者のみ外に出て浜で来訪者を迎える役目を担うことは共通している。

 伊豆諸島の物忌、来訪者伝承の研究は数多く蓄積されてきた。中でも、山口貞夫(『地理と民俗』1944)は、人びとの神への信仰が「低下」した結果、「神」が「霊」や「妖怪」になったとする見解を提出している。この見解は、単系的な「神の零落」論というべきものである。しかし、本論文では、神津島、伊豆大島での現地調査にもとづき、神か妖怪かの違いは、信仰する立場の違いに起因していると考え、以下のように考察した。

 @ 来訪者を迎える司祭者を「中心的立場」、物忌を行なう一般家庭を「周辺的立場」として位置づけた場合、中心的立場の者は、自分たちは「神」を迎えていると認識しているが、周辺的立場の者は、「海難法師」などと呼ばれる「霊」や「妖怪」が訪れると認識しており、島内の伝承に重層性が存在してきたと指摘することが可能である。

 A しかし、司祭者の転出などにより、中心的立場による祭祀が行なわれなくなると(中心の空洞化)、周辺部による「霊」や「妖怪」の伝承だけが残される。これは、信仰の低下というよりは、重層性が消失した結果、「霊」や「妖怪」の伝承だけが存在するようになったものとして理解すべきである。

 B 近年では、既存の伝承圏の外側にあるメディアの世界(島の外部)において、「海難法師」が取り上げられたり、オカルト掲示板に、来訪する「霊」や「妖怪」に関する語りが書き込まれたりするなど、伝承の再生産が行なわれている。

 C 今後、さらに周辺部においても伝承が語られなくなると(周辺部の空洞化)、外部におけるネットロアとしての展開だけが進み、またその際、「妖怪」の「キャラクター」化が生じることも考えられる。

A-3. 神輿を担ぐ女たち

齋藤菜月(新潟大学)

 新潟県中魚沼郡津南町下船渡大割野の熊野三社祭り女神輿を調査対象とし、なぜこの地域において女神輿が誕生し得たのか、女神輿によって地域社会はどのように変化したのかを明らかにすることで、祭礼とジェンダーにかかわる研究を発展させることを目的とした。

 女神輿は大割野商業協同組合の男性が野沢温泉に旅行に行った際、芸者が神輿を担ぐ姿に着想を得て、商売で交流のある女性に運営を頼んだことを契機として昭和60年に誕生した。組合の男性のネットワークと、商家の婿取り娘などある程度自由に行動できる女性の存在が女神輿誕生のきっかけであった。

 歴代女神輿役員たちは、次の三つの「祭礼イメージ」を体現することで、若者をひきつけ、神輿渡御を継続させてきたことが明らかになった。@全員が衣装、髪型を揃えている、A若い女性たちが主体となって運営している、B女性だけで運営されている。これらのイメージを将来的に担ぎ手になる可能性のある若い女性に向けて発信 すると同時に、それが女性役員らの誇りにもなったことを指摘した。さらには、地域住民や男神輿の担ぎ手たちによる「神輿は右往左往しながら練り歩くべき」といった指摘をふまえて、練り歩き方を修正するなど、上の世代や男性がイメージする神事としての振る舞いを踏襲することで、男性たちにも神事として認識されていった。

 ただし、熊野三社祭りは8月26日、27日に日程が固定されていることから、夫である男性が休みを取りやすく、女性が家族に子供を預け祭礼に参加しやすい一方で、子供を置いて祭礼に参加することに嫌厭感を示した姑が少なくないという女性同士の確執があることも明らかになった。また、女性は育児や介護役割から、祭典委員をはじめとする集落の役員に就くことは未だなく、地域社会の役割構造に変化は見られないことが明らかになった。

A-4. 真言とジェンダー ─新潟県佐渡市赤泊に暮らす女性の生活史からみる民俗宗教─

大川莉果(立教大学)

 柳田國男を嚆矢として従来の民俗学者は、女性には生来的に「霊力」があるということを認めてきた。しかし、このような「女の霊力」論は、1970年代のフェミニズムを契機に「女性のジェンダー役割を固定化する本質主義の産物」〔川橋 2002:272〕だとして既に多くの批判を受けている。とはいえ、加賀谷のいうように、現在の民俗学において「女性の経験を(中略)どのような力関係・社会関係の中でそれが生み出されるかに着目する」〔加賀谷 2014:183〕ジェンダー研究は、いまだ十分ではない。そこで筆者は、女性たちの個別具体的な経験およびジェンダーを明らかにするためには「生活史」の技法が有効なのではないかと考えた。

 以上を踏まえ、本研究は、新潟県佐渡市赤泊において古くから女性のみで行われる民俗宗教「真言」を事例に、民俗学における「女の霊力」論を人類学的なフィールドワーク・生活史調査から再検討し、ジェンダーに基づく権力構造を可視化することを目的とする。

 真言の参与観察と赤泊のおばあちゃん(真言を実践する老婦たち)の生活史から、@彼女たちは宗教的な目的を建前としながら「近況報告」「情報交換」といった世俗的な目的を持って真言に参加していたこと、A真言は姑から嫁へ「口伝」されるものであることが明らかになった。つまり、彼女たちは真言に参加することを社会的に求められていたといえる。したがって、赤泊のおばあちゃんに「女の霊力」論は適用されない。このことから筆者は、赤泊において女性のみが真言という宗教的世界を担ってきたのは、男性が社会的・政治的世界を牽引してきたからであると結論づけた。

 近年、民俗学では「(かつての民俗学者が)固定的な男性像・女性像を生産し」〔同上:158〕てきたことを省察する動きが現出している。この流れのなかで、個人の生活史というミクロな視座は、今後のジェンダー研究において検討されるべきなのではないだろうか。

参考文献

  • 加賀谷真梨 2014 「ジェンダー視角の民俗誌─個と社会の関係を問い直す」『〈人〉に向きあう民俗学』門田岳久・室井康成編 森話社
  • 川橋範子 2002 「カミンチュを語ること」『琉球・アジアの民俗と歴史─国立歴史民俗博物館比嘉政夫教授退官記念論集』記念論集刊行会編 榕樹書林

A-5. 災害と娯楽 ―八甲田山雪中行軍遭難事件の大衆娯楽化について―

渡邊みずか(武蔵大学)

 本論文は、1902年に発生した大規模な山岳遭難である八甲田山雪中行軍遭難事件に焦点をあて、この事件を題材とした大衆娯楽を追うことで災害の娯楽化から人間と災害の関係性を探る糸口にしようとするものである。

 この遭難事件は報道直後からあらゆる大衆娯楽の題材として扱われた。例えば芝居は、遭難事件の報道後一週間ほどで興行が決定し人気を博した。パノラマは当時の通俗教育として使われた背景もあり学生の入場者が多く、思想教育の一環として用いられたことが示唆できる。しかし、これらの娯楽に対して、遭難死者の遺族や、捜索を行う軍人は難色を示していたことも新聞や手紙などから明らかである。

 この事件を題材とした大衆娯楽作品は、1972年に新田次郎によって書かれた『八甲田山 死の彷徨』、1977年の映画『八甲田山』が最も有名であろう。これらが大衆に指示された背景として、高度経済成長の終焉による日本経済の不振という社会問題に加え、当時の日本映画に求められたもののひとつが「映画館でしか味わうことのできない迫力」であったことが挙げられる。明治以降忘れ去られていた遭難事件の記憶は、70年代という社会のニーズに即して物語化され、全国的に呼び起こされたのである。

 青森市の八甲田山雪中行軍遭難資料館は、遭難将兵を埋葬した陸軍墓地に隣接する資料館である。ここでは、事件の概要を解説した映像を見ることができる。この映像には、映画『八甲田山』のシーンが所々使用されていた。また、来館者は、小説あるいは映画から興味を持ち、訪れたという人が多いという。映画の話を交えながらガイドを行う方もいることなどから、歴史を伝える場においても大衆娯楽の影響は大きい。以上より、災害を人々に語り継ぐ媒体として、娯楽は大きな役割を持つと言えるだろう。

A-6. 村落祭祀からみる外来神信仰 ―沖縄県南城市佐敷字津波古における土帝君信仰を事例として―

大城沙織(筑波大学)

 土帝君(トゥーティクン)とは中国の「土地公」と呼ばれる神に起源をもち、琉球国時代に中国からもたらされた外来神信仰である。土帝君の先行研究では土地公との比較が中心的になされてきた。それに対し本稿は、土帝君祭祀を行う自治会組織に注目し、年中行事や歴史的経緯の全体的な記述の中で、土帝君が地域の中でどのような性格をもっているか、また何故土帝君がそのような性格を示すようになったのか、明らかにすることを試みた。

 津波古の自治会が行う祭祀は年間14にものぼるが、土帝君はその全てで拝まれる。さらに芸能など地域住民が集う場としても土帝君敷地は活用されている。沖縄戦で津波古の拝所はほとんど焼失した。米軍の土地接収を経て拝所の移動を余儀なくされながらも、真っ先に再建を試みられたのが土帝君であった。移民からの寄付や住民の労務奉仕により、土帝君は再建された。津波古には土帝君のほかにも多くの拝所が存在しているが、ほかの拝所の多くは管理する門中が決まっており、寄付や労務奉仕で再建したのは土帝君のみであった。また地域住民が集う場として活用されるのも津波古の拝所の中で土帝君のみである。その理由として区長をはじめ、地元住民は「土帝君はみんなの神だから」と度々口にする。このように土帝君には統合性のある公的な神としての性格があると指摘した。

 津波古の土帝君は、「中国から来た」という伝承をもつ故に特定の親族集団に関わらないという最大の特徴を持ち合わせている。津波古には集落の開拓に関わり「四元」と呼ばれる親族集団(門中)があるほか、戦後移住してきた住民も居住するなど住民構成が多様である。津波古の土帝君はそうした多様な住民構成を包み込める存在として、村落社会の中で度々想起され、公的な神として位置づけられてきた、と結論付けた。

A-7. 群馬県における屋敷神祭祀とその変遷

笠原春菜(國學院大學)

 屋敷神祭祀をどう捉えるかについては、いくつかの視点があるが、群馬県内の実態をみていくと祭日、藁宮・石宮など祠の様態、ウジガミ・イナリなどの呼称や信仰内容が指標として有効といえる。なかでも祭日からは県内屋敷神祭祀の地域差や変遷が明らかになることを明らかにした。具体的には県内の屋敷神祭祀は、3つの類型が存在する。それは霜月、二月初午、クンチの3類型で、それぞれ分布と祭祀内容に特徴が認められる。

 霜月は県内全体に分布しており、この月に祭日がある場合は藁宮の造り替えが重視されていた。現在は藁宮から石宮に変化し、藁宮の造り替えは少なくなっているが、こうした屋敷神には「○○神」という神名がない場合が多い。イナリという呼称をもつ例もあるが、この名であっても祭祀の様相からは稲荷神とはいい難い。

 二月初午を祭日とする屋敷神は、吾妻郡や東毛地域など県内の一部地域に顕著に存在している。「稲荷を祀る」というように祭祀神がはっきりと認識されており、県内にどのように稲荷信仰が広まったのかが大きな問題となる。ただし、この場合においても供物や祠が霜月型やクンチ型が類似している事例もあり、このことから稲荷信仰の広まりにともなって霜月型やクンチ型から、稲荷を祭る初午型に変化したのではないかと考えられる。実際に祭日が12月末(霜月型)から初午になったと伝えていたり、屋敷神の祭りをクンチと初午の2回行っていたりする事例もあった。旧六合村では引沼マケが共同で祭っていた稲荷社が個人の家に分霊され屋敷神に変化した例もある。全ての初午型が霜月型、クンチ型から変化した訳ではない。

 9月9日などに祭りを行うクンチ型は、県内では太田市周辺のみで分布が限られている。ただし、クンチ型であっても屋敷神の名称はウジガミで、祭祀内容は霜月型との類似がめだっている。クンチ型の屋敷神は、祭日がクンチから霜月、その後に正月へという変化もみられる。

A-8. 茶農家における家業の継承 ―埼玉県入間市を事例に―

木村ひなの(成城大学)

 卒業論文では、入間市の狭山茶農家の事例から、農業の後継者不足が顕在化する現代においてなお、茶業が家業として継承される事由を明らかにすることを試みた。

 狭山茶農家の高度経済成長期における変化については渡部圭一の議論があり、また、茶農家の家業継承については静岡県磐田市の製茶農家を対象とする町田歩未の先行研究が存在する。渡部の議論においては、高度経済成長期に、小規模農家であった狭山茶農家が戦略的に自園・自製・自販という特徴的な経営スタイルを構築していったという指摘が注目に値する。一方、町田は、製茶農家の父と子二世代の関わりを中心に家業の継承を論じており、本論文でもこの枠組みを踏襲したが、本論文ではそれに加え、消費者との直接的な関わりにも焦点をあてつつ、人々の家業継承の事由を考察した。このような視点の設定は、販売まで担うことで、消費者と直接触れ合うことの多いフィールドの現実をふまえてのことである。

 本調査では2019年8月から11月の期間に入間市の豊岡地区・金子地区・藤沢地区の計九軒の茶農家を対象に、父と子それぞれに聞き取りを実施した。

 調査結果からみえる家業を継承した事由としては、人により様々ではあるものの、親の意向や長男としての自覚と諦め、手伝いを通して馴染んだ仕事への抵抗の無さ、実家に残る気安さなどが挙げられる。これらは家業を継承するということ一般の問題といえよう。また、町田の指摘するように、栽培から加工を一貫して行うことで、目指す味や個性を追求できる茶づくりの面白さが家業継承の選択を促しているというデータも得られた。一方、本論文のフィールドの特徴を踏まえれば、販売を通じて農家と消費者とが交流し、自家の製品の評価に直に触れられることがやりがいに繋がり、次世代に家業継承を意識させる要因となることが明らかになった。