談話会要旨-第909回(2019年度 民俗学関係卒業論文発表会)B会場
B-1. 秋田県北部における遺骨葬の成立
菅原悟(新潟大学)
遺骨葬とは、関沢まゆみが規定した概念である。「死亡→通夜→火葬→葬式→納骨」の順に行われる形の葬式のことであり、「死亡→通夜→葬式→火葬→納骨」の順に行われる遺骸葬とは異なる埋葬方法として概念規定が行われている。卒業論文では、秋田県北秋田市大沢集落において、遺骨葬の成立過程とそれを成立せしめた観念とを明らかにすることを目的とした。
大沢集落では、昭和30年代までは土葬が行われ、昭和40年代から徐々に火葬へと移行していく。その後、近代的火葬施設の利用や葬祭業者の参入が起こるが、葬儀の流れは大きくは変化せず、火葬は通夜と葬式の間に挟み込まれることとなった。調査地域では通夜の日を「ホトケにする日」、納棺を「ヤウツリ」と言い、ヤウツリの後に小豆粥を食べる。その際、ヤウツリを終えると「ホトケになった」と言うことから、「ホトケにする日のヤウツリ」は大沢集落において遺骸に対する認識が変わる重要な契機である。そのため、「ヤウツリ」以降ならば葬式前の火葬、すなわち遺骨葬の形態が容易に受容されたものと考えられる。
また、同地域では「(遺骸を)埋めて葬式は終わりになる」という語りも多く聞かれ、埋葬を以って葬儀の終了とする観念が強いといえる。これは現在でも集落の人が遺骨の埋納に同行し、納骨を葬式の日に終わらせることからも窺い知ることができる。また、現在まで続く習俗として、遺骸ないし遺骨を埋葬した翌日から7日間、朝と晩の2回墓参りをすることが行われている。このように、葬式直後の遺骸ないし遺骨の埋葬と、それへの参拝が重視されていることから、納骨までに時間を有する遺骸葬ではなく遺骨葬が選択されたということができる。以上のことから、遺骨葬は従来の土葬の儀礼との齟齬が少なくなるように火葬を受容するために成立した形式だといえる。
B-2. 能登半島における骨蔵器
崔丁マ竹(金沢大学)
本論文では、能登半島における木製骨蔵器について考察した。研究方法として、フィールドワークを行い、インタビューという形で、珠洲市、能登町、羽咋市の事例を集めて分析した。まず、確認しておくと能登半島では、真宗門徒が多数である。能登半島においては墓への納骨に当たり、木製骨蔵器は破棄され、骨だけを埋葬することが多い。「あえて木製骨蔵器を使う理由」を質問したところ、「骨を土に還すため」と答えた人が多数であった。インタビューした能登町にある真念寺のご住職(60代・男性)も「骨を土に還す」と答えた。ご住職は、真宗の教えには「?会一処」という言葉があり、真宗の本来の教えは墓と骨に執着を持たないことであると述べていた。「骨絵を土に還す」という思想から、真宗ではお墓や遺骨を重要視してないと考えられる。石川県河北郡には、1970年代まで骨掛けという納骨用の骨以外の遺骨を風化させる葬法があった。河北郡も真宗門徒が多数の地域である。また、蒲池勢至(蒲池 1993:212)は滋賀県の近江八幡市にある沖島・北元町・玉木町・南津田の真宗門徒は遺骨を遺棄するといった例を挙げている。であれば、他の真宗地域でも能登半島と同様、遺骨を重要視していないといえる。蒲池勢至(蒲池 1993:217)によると、真宗の一般門徒における本山納骨は江戸時代から始まったということが分かる。従って、真宗における本山納骨の風習は真言宗よりも遅い。江戸時代以前、真宗では遺骨を重要視していなかったと推測される。ゆえに、能登半島における「骨を土に還す」というのは江戸時代以前の真宗から受け継いだ思想ではないかと考えられる。以上の考察より、「骨を土に還す」という思想に基づき、能登半島において、木製骨蔵器は火葬場から墓まで骨を移動させる道具としてのみ使われていることが分かる。
参考文献
- 蒲池勢至 1993 「「無墓制」と真宗の墓制」『国立歴史民俗博物館研究報告』第49集
B-3. 「学び」の場としての仏教寺院 ―寺子屋活動の展開を事例に―
門脇郁(東北大学)
宮城県栗原市築館に位置する曹洞宗寺院の通大寺では、1987年から地元の小学生らを対象とした合宿活動(以下併せて寺子屋活動と表記する)が行われている。参加人数は口コミにより年々増加し、近年では100名近くの参加者を集めた年もある。このことから、寺子屋活動が子どもたちの経験から価値観を形成する「学び」のプロセスにおいて重要な役割を担い、地域内でもその重要性が認知されていると筆者は考えた。なぜこのように活動を長期にわたって継続することが可能であるのか。本研究においては、仏教寺院と地域社会の関係にその答えを読み解くことを目的とし、2018年度及び2019年度に行われた寺子屋活動への参与観察と、参加児童の保護者やスタッフへのインタビューをもとに考察を行った。
寺子屋活動は地域の子どもたちと住職との交流を契機に開始され、当初は坐禅や読経、茶道の指導などを行っていた。現在でも坐禅や茶道などの指導が活動の中核をなすと同時に、いじめの防止を訴える演劇や東日本大震災の犠牲となった動物たちへの供養を目的とした動物地蔵の制作など「いのち」をテーマとした取り組みが継続されている。そして、インタビューからは通大寺寺族と地域住民、または学区内の保護者同士のつながりから寺子屋活動の情報が共有され、参加者人数の拡大や継続的な活動の参加につながっていることが分かった。また、活動に期待する内容について聞き取りを行うと、伝統的な礼儀作法の指導に対する期待の声がある一方で、仏教寺院が持つ文化に触れる経験をさせることに期待する保護者やスタッフも見られた。
これまでは寺院が地域住民に対して価値観や道徳律を一方的に教授するという見解が主流であった。しかし本研究では寺子屋活動の事例から、寺院と住民間の日常的なつながりや仏教が蓄積してきた文化に対する信頼が、子どもたちの「学び」の場としての寺院を支えていることを指摘した。
B-4. 白山修験と川上御前 ―越前市五箇における「神仏分離」と歴史の解釈―
山内鳳将(関西学院大学)
本研究は、福井県越前市五箇をフィールドに、日本で唯一、紙祖神を祀るとされる「大瀧神社・岡太神社」を中心に実地調査を行うことで、神仏分離の影響に対して、五箇の人びとはどのように適応してきたのかを明らかにしたものである。
五箇は、かつて白山信仰の遠隔遥拝拠点として、大瀧児権現を中心に栄えた地域である。生業としては、紙漉きが盛んで、現在も越前和紙の一大産地として知られている。五箇に紙漉きを伝えた「川上御前」という姫の伝説があり、岡太神社において紙の神様、紙祖神として祀られてきた。
現在は、「神と紙の郷」として岡太神社や川上御前が前面に押し出されているが、これは過去の在り方とは異なるイレギュラーな状態である。このように変化した転換点は明治の神仏分離にある。大瀧児権現は大瀧神社へと改称をせまられ、法華八講などの仏教的な行事を禁止された。一方で、岡太神社には越前和紙の全国的な知名度や、大蔵省への分祀といった強い背景があり、前面に押し出されることとなった。
岡太神社も古くから信仰を集めてはいるが、神仏分離以後の姿は、制度上の外的圧力によって変化をせまられた不本意な姿であるとも言える。1984年に「大滝神社本殿及び拝殿」が重要文化財に指定されたことを契機に、この歪さを軌道修正し、大瀧児権現へと「回帰」する動きが起きた。
この「回帰」では、再現する際に想定された「原点」へ回帰する意味合いが強く、法華八講などの行事が復活したが、同時に川上御前に関する行事などが新設されている。
このような変化を経て現在、「大瀧神社・岡太神社」は神仏習合の形式を残すものとして語られることもあるが、全てが神仏分離以前の形に回帰したわけではない。この「回帰」においては、紙漉き産業を含め、遡ることが困難なほどの歴史があるからこそ、その伝統をより強固に理解するために「必要とされる過去」が前面に押し出されていると考えられる。
B-5. 地域社会における歌の役割 ―なぜ「島原の子守唄」は毎晩8時に流れているのか―
松尾有起(追手門学院大学)
地域社会における悲劇的な歴史や深刻な社会問題、差別的あるいは卑猥な表現を含む作品は排除されてきたように感じられる。たとえば、京都府に伝わる「竹田の子守唄」は部落差別と関連があるため放送の場から消された過去をもつ。同様に、本発表で取り上げる「島原の子守唄」は、歴史の中で貧困や差別の構造に組み込まれてきた「からゆきさん」が題材にされており、深刻な問題を抱えた作品として扱われるはずである。にもかかわらず、なぜ「島原の子守唄」は、長崎県島原市で毎晩防災無線から流され、地域を代表する子守唄として定着しているのだろうか。
こうした問題意識から卒業論文では、「島原の子守唄」がどのように地域に定着していったのかを分析するとともに、現在の「島原の子守唄」がもつ意味を明らかにした。とくに本発表では卒業論文の後者にあたる部分に焦点を当て、地域の人びとの語りから「島原の子守唄」が共有される場を描き出し、人びとが歌に対してどのような感覚や感情を抱いているのかを検討する。ここで描き出す歌の場は、歴史的な連続性を有する場に限定されない多種多様な場である。具体的には、酒宴、観光バス、防災無線と暖簾を介して歌が共有される場を取り上げる。
「島原の子守唄」に関する研究は、歌詞に登場する「からゆきさん」と関連付けられた見解に留まっている場合が多い。島原半島の人びとにとって、子守唄が「からゆきさん」の記憶装置として機能していることも指摘されている。だが、人びとの語りから明らかになるのは、「島原の子守唄」が「からゆきさん」という特定のイメージのみならず、個人の認識に基づいた多様なイメージや記憶と結びついて地域に存在している状況である。その背景には、「島原の子守唄」が形成される過程においてレコード化や地域資源としての利用といった様々な要素が出現し、人びとが個別に意味を見出しやすくなったことが関係していると考えられる。
B-6. 道鏡巨根伝説にみる性信仰
児玉寿美(武蔵大学)
弓削道鏡に関する先行研究をみると、人物の研究や、巨根の俗説に関する研究は進んでいるものの、彼の巨根に関する性的信仰について詳しく論じたものは見当たらない。そのため本論では、道鏡について彼の巨根信仰がどのような内容であるか調査をし、比較分類をおこなった。
道鏡の巨根説は、古くは平安初期から語られており、当初は道鏡と孝謙天皇の性愛を批判するものであった。平安中期に道鏡の巨根説が生まれると、時代を経るにつれ、庶民文化の中で娯楽要素をもって伝えられていく。しかし、明治に入り、尊王思想の高まりと邪教排斥の動きにより、道鏡は悪僧と呼ばれるようになった。
道鏡の巨根にまつわる信仰は、全国に七件ほどみられる。本論では、それらを大きく二種類に分類して考察した。一つは、西日本を中心にみられる、弓削部が置かれていた地域の信仰。もう一つは、栃木、茨城、群馬を中心にみられる、金精神信仰と道鏡巨根説が合わさり発達した信仰である。
前者は、古代に弓削部が置かれた地域で発達したもので、奈良時代から信仰があったと考えられる。元は、各地の弓削部が、同姓である道鏡の立身出世にあやかろうと、道鏡を祀ったものであったが、後に平安中期頃より登場した道鏡の巨根伝説と結びつき、境内に木製、石製の男根を置くようになった。そして明治大正を境に、道鏡は祭神から外され、その信仰は下火になってしまった。
後者の信仰は、金精神信仰と道鏡の巨根説が結びついたものである。神体は金精神であることが多い。それぞれ元は純粋な金精神信仰であったが、江戸時代中期に、道鏡の巨根伝説が元の信仰に被さるように語られるようになり、現在に至る。
道鏡の巨根に関わる信仰は、彼の巨根説の流布にともない拡大した信仰である。特に江戸期に金精神と道鏡が融合した背景には、彼が巨根の人物として庶民に親しまれていたからであろうと推測できる。
B-7. 師檀関係に見る武州御嶽山信仰 ―御師の兼業化に注目して―
小林直輝(筑波大学)
関東平野を見下ろす武州御嶽山の信仰を布教した御師たちは、師檀関係を結んだ講の参拝の受け入れや講回りを行って初穂料をもらい、それによって生活していた。しかし、戦後以降に御師業は宿坊経営やその他の定職との兼業体制の中で行われるようになった。
本論文は「御師の兼業化」という変化を経た武州御嶽山の師檀関係の特徴と、師檀関係から見る武州御嶽山信仰のあり方の解明を目的とする。そのために師檀関係の一般的なあり方を探りながらも、個々の師檀関係には御師家のあり方や講の意向による特質が存在することに留意し、その特質が何によって生じているのか探る必要があることを指摘する。それを踏まえ、御師業、武蔵御嶽神社での神職としての務め、宿坊経営、その他の定職についてそれぞれ記述し、御師の一般的なあり方を探るとともに、特定の事例としてD家と拝島坂上講を取り上げる。
記述から、師檀関係においては宗教的な関係だけでなく世俗的な関係の形成が試みられるという特徴があり、それは「師檀関係を維持すること」を目的としていることを指摘する。また御師の兼業化は御師家の経済構造の変化をもたらし、収入源としての講は相対的に重要度を下げたことが明らかになった。それにもかかわらず御師たちが師檀関係を維持することに注力するのは、「御師であること」は御師自身や武州御嶽山のアイデンティティ、また山上御師集落の存立に関わっており、御師にとっての武州御嶽山信仰とは「御師であること」を守ることであると考察する。
これを踏まえ、記述で指摘したD家の御師業の特質から、D氏にとっての師檀関係に見る武州御嶽山信仰は、自身のアイデンティティの維持という面で特に大きな意味があると考察する。また拝島坂上講にとって武州御嶽山信仰とは地域の歴史を意識させるものであり、そのため講の行事に宗教的な意味を見出さなくなっている現在も、講の行事が繰り返されていると考察する。
B-8. 水族館における飼育生物の供養について ―新江ノ島水族館を事例として―
福田麻友子(成城大学)
卒業論文では、水族館で行われる飼育生物の供養への関心のもと、全国の水族館への聞き取りおよび神奈川県の新江ノ島水族館での参与観察調査を実施し、供養を導く人々の心意について考察した。
この問題については、木大祐の「個の認識」をめぐる議論が先行研究として注目される。但し、高木の議論は飼育員の心情に焦点を当てているが、筆者の調査では、飼育員のみならず、来館客の意識にも注意すべきことが明らかになった。
全国の水族館のうち、調査に応じてくれた館は79館であり、飼育生物の死に供養等の対処をしている館は35館であった。このなかで慰霊祭を行う館は18館、慰霊碑のある館は22館、献花台を設置する館は18館であった。慰霊碑は目立たない場所に設置される傾向にあり、慰霊祭は飼育者側が非公開で実施する場合が多かった。一方、献花台は来館客のために、客からの働きかけで設置される傾向にあった。慰霊碑の建立、慰霊祭の実施と同等に、このような客側の慰霊追悼行為が行われていることには注意を要するといえるだろう。
一方、参与観察を行った新江ノ島水族館の慰霊祭は、職員の他に一般客も参列することができる事例であった。その分析からは、慰霊祭に集う人々の心情がその立場によって相違するものであることが明らかになった。例えば、飼育員は業務を通して生まれる愛着を表明し、客は観賞体験を通して飼育生物に愛着をよせている。また、慰霊祭の果たす役割も立場によって相違する。飼育員にとっては命の重さを再認識する場、客はお気に入りの生物が死亡した際の気持ちの整理をする場として機能している。
今後の課題としては、水族館における飼育生物供養の歴史的把握が挙げられる。生き物をめぐる世相史と関連づけながら、個別の館での飼育生物の死への向き合い方を引き続きおさえていきたい。